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結局、賢介に車で送ってもらったとはいえ、帰宅は随分と遅れてしまい、玄関口で賢介が両親に怒られる羽目になってしまった。
賢介は嫌な顔などひとつもせずに頭を下げ、うららの帰宅が遅くなったのは賢介と出島のせいだと弁解した。もっともらしい内容を話していたように思うが、ほとんど覚えていない。
去っていく賢介の背中がふいに立ち止まって、こちらを振り向いた。
「うららちゃん。浩平と、ちゃんと話しなくちゃだめだよ」
そう微笑む賢介に、はたしてうららはどんな顔をしていたのか。
気づいたらパジャマに着替えていて、気づいたら布団の中だった。
それまで、誰かとなにかを話したのかどうかも覚えていない。
ものすごく疲れているはずなのに、目の奥がじんじんとして頭も痛いのに、なぜか眠れなかった。
天井の木目を一心不乱に見つめ続けて、いつのまにか眠りに落ちていた。
浅い眠りを繰り返して、ほとんど寝た気がしない。
無神経に鳴り響くアラームを手荒く止めて、布団から這い出ようとしたが、体が尋常じゃなく重い。
手の先と足の先が、いつもよりもずっと遠くにあるような、自分のものだという感覚がなかった。
布団から半分ほど体を出して、そこで力尽きた。
次に気がついたときには、また布団で寝かされていた。
いつのまにか、ちゃんと全身布団の中に入っていて、額に冷却ジェルシートが貼られている。
「起きた?」
ちょうど部屋に入ってきた母親に話しかけられて頷いたが、それだけで頭が割れそうに痛い。
「珍しいわね、うららが熱出すなんて。
おなか壊すのはあっても、高熱出すなんてあんまりないのに。
風邪でもなさそうだから、知恵熱かしらね?」
円形の盆の上に、蓋つきの茶碗と木製のレンゲが載せられている。
うららの傍に座ると、母は盆を差し出してくれた。
「食欲なくても、ちょっとは食べなさい。でないとお薬飲めないから」
「うん……」
のそのそと体を起こして、盆を太ももの上に乗せる。
茶碗の蓋を開けると、湯気と一緒に出汁の香りがふわりと広がった。
正直、おなかがすいているのかどうなのかもわからなかったけれど、とにかくレンゲで粥を掬って口に運んだ。
母が持ってきてくれた頭痛薬を水と一緒に流し込む。
「なにがあったかは聞かないから、今はゆっくり休みなさい。話したくなったら、聞いてあげるから」
「あのさ」
常温の水が入ったグラスを枕元に置いて、盆を手に部屋を出ようとする母に呼びかけた。
「なあに?」
「もし、出島さんが帰ってきても、この部屋には入れないでね」
「はいはい」
言いながら、母が目を細めたことにうららは気がつかなかったけれど、その言葉を聞いてようやく安心できた。
これで、出島に振り回されずにすむ。
うららを、ではなくて、うららの体質を求めていた出島に、ほんのりと恋心を抱いていたことに気がついたのは、皮肉にも、彼がうららに恋をしていないと悟ったときだった。
これから、出島がなんと言ってきても、もうきっと大丈夫。
それがすべて、河童の間に伝わる伝説の存在、対薫に対する興味からきているものだとわかったから。
できすぎた話だと思っていたはずなのに、いつのまにか、出島が自分に向けてくれる優しい笑顔や、変態じみた言動の合間にみせる穏やかな一面にほだされていたなんて。
馬鹿馬鹿しい。愚かで、情けない。それは、今でもそう思う。
あんな美しい生き物が、自分のことを好きになるだなんて。そんな彼が、河童だなんて。ダブルで信じられない話だ。
河童だと話したのが出島でなかったら、そもそも、それを信じてみようなどとは思わなかったはずだ。
出島が、一所懸命に話すのがいじらしくて、なんだか信じてみてあげたくなった。
信じてみると伝えたときの、出島の笑顔を見て、こんなに喜んでくれるのならと、まるで人助けをしたつもりになっていた。
でも、そんな風に淡い好意を抱いていたのがうららだけだとわかった今は、逆に、出島の思わせぶりな言葉や行動を本気にしなくていいのだと、ホッとできる。
これで、いいんだ。きっと。
薬の効果で熱が下がり始める。と同時に、睡魔がやってくる。
ようやく訪れた安堵の時に、うららは抵抗することなくダイブしていった。
喉が、乾いた。熱のせいで、体全体が熱い。
唾を飲み込もうとしたけれど、口の中までカサカサだった。
枕元の水に手を伸ばそうと、布団の中で指を動かした。
何か、柔らかいものが唇に触れて、そこから水が受け渡される。
いつも飲んでいる水よりもまろやかな味がする。なんて思いつつ、求めていた水分をうららは喜んで受け入れた。
喉の奥を水が通ると、食道がこくりと動く。じわりと体の中に水分が広がっていくのを感じた。
そしてまた、あの柔らかい感触が水をくれる。
それを二度三度と繰り返して、ようやく喉の乾きがなくなった。
柔らかいなにかが唇を優しく押しつぶすたびに、体から力が抜けていく。
気持ち良い、と小さく息を漏らした。
一度プールの底に沈んでから、ゆっくりと浮力で上昇するみたいに、うららの意識が覚醒に向かってふわりと上がってくる。
うっすらと目を開けると、天井の木目は薄暗い室内では見えなくて、時間の経過を知った。
額に手が添えられる。ジェルシートを剥がして、新しいものを貼ってくれた。
てっきり母かと思って顔を傾けたら、そこに出島が鎮座していて、熱がぶり返すんじゃないかというくらい驚いた。
全身に電流を流されたみたいに、体が震える。
「あ、すみません。起こしてしまいましたか?」
「出島さん……。なんで……。入れないでって」
後半はほぼ独り言だったけれど、出島は人差し指を顎のあたりにあててにっこりと微笑んだ。
「うららさんのお母様は、僕をここには入れていらっしゃいませんよ。僕が勝手にお邪魔しました」
「なんで」
「謝ろうと思って」
「……っ」
出島の直球を受け止めるような余裕も体力もなく、うららは悔しげに口を噤む。
どうしてこの後に及んでそんなことを言うのか。
なにを考えているのか。ひとを馬鹿にするのもいい加減にして欲しい。
そもそも、どうして勝手に入ってきたのか。いつから入ってきたのか。いつからそこで座って……。
出島に対する言い分が、脳内を日本の高速道路ではなく、ドイツのアウトバーンの速さで走り始める。
そのうちの一つに引っかかると、うららは意識的に思考の速度を緩めた。
いつから出島がそこにいたのか。さっき、水を飲んだと思ったのは、夢か。
その二つの問いが腕を組んで、ある恐ろしい仮説をうららに囁きかける。
まさか。
「出島さん」
「はい」
「まさかとは思いますけど、さっき、私に水飲ませました?」
「はい」
「……どうやって」
「口移しで」
やっぱりの答えに、うららは布団に横たわっているにも関わらず倒れこみたい気持ちになる。
このままもう一度、意識を失ってしまえば、今目の前にちょこんと正座しているセクハラ河童と話をしなくても済むのに。
「洽雫を少し混ぜました」
「水に?」
「はい。ちょっとは、うららさんの体調が良くなるかと思って」
水の味が違うと思ったのは、そのせいらしい。
「あの!」
出島の顔を直視して言う勇気はなかったので、うららは布団を引っ張って口元を覆いながら、出島とは反対方向へ寝返る。
「はい」
「そういうの、やめてもらえませんか」
「そういうのって?」
「だから! 口移しとか。そういうの!
出島さんにとってはなんてことないことかもしれないですけど、私にとっては、汲汪沁だろうと口移しだろうと、やっぱりそれはキスですから。
恋人でもないひとと、キスはしたくありません」
「じゃあ、僕の恋人になってください」
「は?」




