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タブレットを綾乃に手渡し、プロジェクターの電源も落としてしまう。すると室内はホテルのラウンジのような雰囲気を増した。天井に埋め込まれた白熱灯の光はあくまでぼんやりとしていて、ガラス張りの窓から差し込む、ビル群の煌めきが室内を時折輝かせる。
蒼平が一瞬、視線をさまよわせたのを目ざとく観察していた綾乃が、タブレットをソファに置いて立ち上がる。さきほど出てきた扉の向こうへと消えると、スツールを持って現れた。それを蒼平の近くに置いて、一言も発さずにまたソファに戻ってくる。
「ありがとう、露井」
感謝の言葉にも、綾乃ははにかんだ微笑で応えただけだった。
「単刀直入に聞こう」
スツールに腰掛け、長い脚を投げ出して蒼平が口火を切った。
「浩平から、対薫という言葉を聞いたことはあるか?」
うららがかぶりを振ると、蒼平は、やはりなと独りごちて長いため息をついた。どこから始めるべきか思案しているようで、指で唇をなぞりながら黙ってしまった蒼平を、うららはじっと見つめた。張り詰めた空気が流れる中、賢介は立ち上がると、
「うららちゃん、喉乾いてない? なにか飲むものを持ってくるよ。なにがいい?」
「え? えっと、じゃあ、お茶を」
「緑茶? ほうじ茶? 麦茶、はあったかな。あ、ジャスミンティーがあったと思う」
「ジャスミンティーでお願いします」
「ホット? アイス?」
「えっと……」
「ホットにしておこうか。ここ、空調も効いているし、女の子なんだから、体冷やしたらダメだもんね」
「じゃあ、ホットで」
「了解。女史と蒼平さんは?」
「私も、うららちゃんと同じものをお願い」
「はいよ」
「私は、ブラックコーヒーで。ホット。砂糖なしだ」
「はいはい。じゃ、すぐ戻ってくるね」
うららの頭をぽんぽんと撫でてから、賢介は部屋を出て行ってしまう。彼の気遣いはいつも的確で、だからこそ、このタイミングで飲み物を持ってくる配慮を見せたのだと感じる。賢介は、バランサーなのだとも思う。常に周囲を見渡して、その場に一番足りないものに彼はなる。本当の賢介の性格を知るひとは、少ないのではないだろうか。主を失ったソファを見ながら、うららはぼんやりとそんなことを考えた。
「まずは、対薫についての説明から始めようか。対薫というのは、もはや都市伝説と化した、河童の中で語り継がれる存在だ。これに、浩平は随分と昔から興味を示して、研究に力を入れてきた。一言で対薫という存在を定義するのは難しいのだが、河童の運命の相手というのが言い得て妙かもしれない」
「運命の相手?」
「そうだ。各河童にひとり、対薫が存在することになっているが、対薫に出会える確率は限りなく低い。一説によると、その確率は五万分の一ともいわれている。したがって、大多数の河童は対薫に出会うことなく一生を終えるため、対薫という存在の証言が少ない。通常、河童は一週間に数回、汲汪沁を必要とするのだが、対薫が相手の場合のみ、一週間に一度もしくは二週間に一度の汲汪沁で必要量の洽雫を摂取できるとされている。洽雫の相性が良いのだろう、というのが現在の見方だが、どの要素が相性の良さを決めているのかまでは解明されていない」
「対薫がいる河童は、むやみに汲汪沁をしなくてもいいから、結果として人間側の洽雫が保護されるということですか?」
「その通りだ。それだけではない。対薫から得られる洽雫は、その河童にとって最も質の良い生命エネルギーになる。だからこそ、汲汪沁の頻度を抑えても活動できるわけだ。通常、汲汪沁からは微量の快楽を河童は得る。それを背徳や罪悪と感じる河童も昨今は増えてきて、サプリメントのみで生活できるようになりたいと願う河童も少なくない。人間でいえば、そうだな、ベジタリアンのようなものだ。今までは普通に行ってきた行為に対して一度倫理的な質問を抱いてしまえば、もう後戻りはできない。自ら、その感情に整合性をもたせて納得させるか、それともその感情に蓋をしてしまうか。はたまた、それに真正面から向き合うか」
「出島さんは、どの方法を選んだんですか?」
投げ出した脚を、足首で組んで蒼平が笑った。喉の奥でくぐもった笑い声がする。
「どれだと思う?」
「三番目、じゃないですか?」
「その通り。あの馬鹿は、人間社会での完全な溶け込みを主張し、人間との共存を他の水妖に謳っている河童が、その実、汲汪沁によって人間への一方的な搾取を続けていることに違和感を感じ続けていた。それが、河童としての生命にとって必要不可欠なのにもかかわらず、だ。そして、なにをどうやって調べたものか、対薫という存在にいきあたった。資料によれば、対薫と呼ばれる存在はここ百年ほど現れていない。その信憑性も、どんどんと下がってきて、アカデミックな文献が存在するにもかかわらず都市伝説扱いだ」
ちらりと、背後のウッドデッキを見た。相変わらず出島は伸びたままのようで、その脚だけがうららの位置からは見える。視線を蒼平に戻し、尋ねる。
「そのツイクンっていうのが、どうして私に関わることなんですか?」
「青本君。君が、浩平の対薫である可能性が非常に濃厚だからだ」
「……え?」
蒼平の言葉が、うららの脳で処理されていくにつれて、呼吸が難しくなる。今まで普通にやってきたことが、急に難しく感じる。どうやって座っていたっけ。背筋はどうしていたんだろう。この手は腕は、どこか不自然なんじゃないか?
やっとこのことで絞り出した声は掠れていた。
直感的に浮かんだのは、だからか、という思いだった。
出島が、どうしてうららに執着するのか。それが不思議だと思っていた。なんの変哲もない女子高生で、これといった取り柄もなく、出島のように容姿に秀でているわけでもない。出会ってすぐに好意を示されて、それに可愛らしく応えることもできなくて、今だって、自分が出島を好きなのか嫌いなのかもわからない。そんな相手を、どうしてああまで大っぴらげに好きだと言えるだろうと、ずっとずっと不思議でならなかった。その理由が、わかった気がする。
うららが、対薫かもしれないからだ。
出島が、並々ならぬ興味を持って研究していたという幻の存在。汲汪沁に含まれる矛盾へのクリーンな解答を探していたらしい出島。そんな彼にとって、対薫という存在は、まるで救世主のようだったのかもしれない。対薫がいれば、汲汪沁を無駄に行う必要はなくなる。また、対薫のメカニズムを解明できれば、それを擬似的に再現、人工的に作り出すことも可能なんだろう。だからこそ、対薫というものを出島は追い求めていて、なんらかの方法によって、うららがそれであるということを突き止めた。
だから、うららが必要なのだ。
うららが、対薫だから。
うららが、うららだからなのではなく。
例えばこれがサナだったら、出島はサナに執着していたのだろうし、その場合は、彼はうららには差し障りのない、社交辞令ばかりがまぶされた言葉をかけ続けるのだろう。
あの日、あのバス停で、うららと同じように太陽の光を万華鏡みたいだと言ってくれた出島のあの言葉は、果たして本心だったのだろうか。もしかしたら、あの出会いも偶然ではなかったのかもしれない。いつからうららが対薫である可能性に気づいていたのかはしらないけれど、きっと出島のことだ。虎視眈々とその計画を練っていたに違いない。
結局、出島にとってうららの価値は、うららの人格ではなくて、その特性だけだったのだ。
出島さんは、私のことが好きなんじゃない。私の体質が、出島さんの理想に必要なだけなんだ。
その結論にたどり着くのは難しくなかった。そして、一度そこへ到達してしまえば、それ以外の解釈などありえないようにも思える。
「はい、お待たせーって、あらららら。うららちゃん。やっぱり泣いちゃったか」
木製のトレイに人数分のカップやグラスを乗せて賢介が戻ってきた。そして、苦笑しながらうららに近寄ってくる。綾乃にトレイを渡して、うららの目の前にしゃがみこむと、両手で頬を包んだ。
「ほらほら、泣くと明日の朝、目が腫れちゃうよ?」
頬に添えた指で、うららの目からこぼれ落ちる滴を拭ってくれる。
何に泣いているのかわからなかった。わからなかったけれど、賢介の優しい声が、余計に涙を誘う。
「多分、なんだけど。うららちゃんが思っていること、俺には見当がついているんだ。それでね、それはちょっと浅慮かもしれないよ? 少し、悲観的すぎるかもしれない」
「でも、一番辻褄が合います」
「ふふ。そう? それは、うららちゃんが自分の価値を適正評価していないからじゃない?」
綾乃が、鼻血を拭いたのとは違うハンカチを取り出して、うららに渡してくれた。
「ありがとうございます」
「うららちゃん。浩平はね、馬鹿だけど、馬鹿だからこそ、駆け引きには向いていないの」
「私が、駆け引きするほどでもなくて、簡単に丸め込めると思ったんじゃないですか?」
「うららちゃん……!」
うららの自虐的な物言いに、綾乃は心底傷ついた顔をみせた。その瞳に映る悲しみを直視できなくて、うららは下を向いてしまう。トレイからカップを取って、賢介が差し出した。
「とりあえず、これ飲もっか」
「ありがとうございます」
「熱いから気をつけてね」
「はい……」
「もう随分と遅い時間だけど、ご両親に連絡は?」
「メールしました」
「なんて?」
「出島さんと一緒だから、遅くなるけど心配しないでって」
「そっか。ちゃんとそういう気遣いができて、うららちゃんは偉いね」
にっこりと微笑んで、賢介がもう一度、うららの頭を撫でた。じわりと滲む涙を見られたくなくて、カップに顔を埋めるようにして湯気で顔を湿らせる。ぽたり、と涙が一粒ジャスミンティーの中に落ちた。
「それ飲み終わったら、送っていくよ。今日は、浩平とは一緒に帰りづらいでしょ?」
こくりと頷くと、涙の正体がふいに明らかになった。
惨めだ。そして、情けない。
どこかで、心のどこかで出島に惹かれていた自分を、こんな形で自覚するなんて、惨めだ。そして、こうやって第三者から自分の利用価値について説明されないと、出島の執着に対しての解釈ができなかった自分が、出島の行動がもしかしたら本当に好意から出ていたものなのかもしれないと思っていた自分が、心の底から情けない。
やっぱり私には、恋愛は向いていない。
これにて第4章は終わりです。いつも読んでくださる方、ブクマしてくださる方、ありがとうございます。
これからも、よろしくお願いいたします!
しっかし賢介はいい男ですね(自分で書いておいて)。




