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雨もしたたる良い河童  作者: 卯ノ花実華子
第四章 スマートな誘拐、野蛮な求愛
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 先ほど綾乃に鼻血を吹かせた無邪気な笑顔はなりを潜めて、蒼平はニヒルに片頬を歪ませてうららを見下ろしている。なんのためのドヤ顔なのか、わからない。兄の言葉を補足補完した出島は、申し訳なさそうにうなだれた。何に対して申し訳なく思っているのか、見当もつかない。その割に、うららの肩に回された腕が離れる素振りがまったくないのが、逆にうららの神経を逆撫でする。


 NKCが河童関連の会社だろうということは、うららにも薄々気がついていたけれど、正式名称が全日本河童委員会とは、ちょっとばかしふざけすぎじゃないだろうか。女子高生の脳みそでも勘づくような怪しさの会社に、堂々と河童の名前を掲げても良いのだろうか。自分が、ひとよりも頭脳的に優れているとは思えない。だとしたら、うらら以外にもNKCの正体に気づいているひとがたくさんいるのではないか。それって、妖怪としてどうなんだろう。あれだけ、河童としての正体は、限られたひとにしか教えていませんとかいいながら、こんな分かりやすい会社に所属するって、実は出島はただの変態ではなくて、頭の足りない変態なのだろうか。


 訝しんでいるうららの顔には、そんな思考が書かれていたのかもしれない。まだ火のついていない煙草を弄んでいた賢介が、堪えきれなくなったように吹き出した。


 「ははっ。うららちゃん、良い顔するねえ。今、なんで? なんで? って、頭の中に、たくさん質問があるんでしょう?」

 「えっと、いや、まあ。そう、ですけど」

 「じゃあさ、これも良い機会だから、ちゃんと説明しよっか」


 歩み寄ってくると、蒼平の肩に手をおいた。気心知れた微笑みを投げかけ、

 「ね、蒼平さん。質問するのもいいし、サンプル取るのもいいけどさ。うららちゃんは、多分、俺たちが思っている以上に、色々なことに気がつき始めてるよ。だったら、先に説明してあげた方が良いんじゃない?」

 「ふむ」


 腕を組み、逡巡したのもたったの数秒間。すぐに顔を上げた蒼平は、賢介の手をやんわりと払うと、うららに顎で部屋の扉を指し示した。


 「では、行くぞ」

 「へ?」

 「へ? じゃない。君は、隣の馬鹿から漏れる馬鹿ウイルスにでも感染したのか。黒本が言った通り、説明してやろう。場所を変える。その方が効率が良い。わかったら、さっさとついてこい」


 どうやら鼻血がおさまったらしい綾乃が、蒼平の後を機敏に追う。まるで、どこへ行くか見当がついているようだ、と思っていたら、案の定、

 「資料を用意してきます」

 「うん。頼んだ。それから、最上階を立ち入り禁止にしておいてくれたまえ」

 「了解しました」


 たった一度の首肯で、ピンヒールの音を響かせながら綾乃が立ち去る。白衣の裾がはためいて、その姿が廊下に消える様は、まるでバレエダンサーが舞台袖に退場するかのように優雅だった。


 気づけば、蒼平も部屋から出てしまっている。残ったのは、ベッドに座っているうららと、その隣の出島、そして二人の前に立つ賢介だけだった。


 動く気配のない出島と、行こうかと笑った目元で誘う賢介の間で、うららは靴を履こうかと躊躇する。説明される内容の詳細については想像もつかなかったけれど、でも、知りたいという気持ちは確かにある。うららの目指す、波風の立たない凪のような日々を過ごすために、これから渡される情報は有益になるかもしれないという予感もあった。学校で、サナに言われた情報戦の話も脳裏を横切った。


 知って行動するのと、知らずに行動するのなら、前者の方が良い。


 靴を履こうと体を前に出せば、肩に回された出島の手がそれをぐいと押し戻す。


 「出島さん?」

 相変わらずうなだれたままの出島は、うららの呼びかけにも応じず、だんまりを決め込んでいた。憂いを帯びたその顔は、それだけで全世界の詩人にインスピレーションを与えられそうなほど美しく、うっかり見とれてしまいそうになる。


 「浩平」

 宥めるように、あやすように、賢介が呼ぶ。

 「でも」

 辻褄の合わない接続詞を口にした出島が、かぶりを振った。長い前髪が音を立てて揺れる。小川を流れる水草のように、楚々と。賢介は、優しく穏やかな笑みを浮かべていた。でも、それとは不釣り合いな、硬い言葉を発する。

 「遅かれ早かれだ。覚悟を決めろ」


 出島の体が硬くなる。うららに触れている手に力が込もった。唇を強く噛んで、目を閉じる。深呼吸を、一度。これまでの流れの中に、どこにここまで苦渋の表情をせねばならない地雷があったのかさっぱり理解できていないうららは、そんな出島をスクリーンを観るように眺めていた。


 「うららさん」


 はい、と返事をする間もなく、正面から抱きつかれる。ベッドに座っているうららと、その前に立っている出島とでは、いつも以上の身長差がある。体をくの字に曲げるのは腰に負担がかかると思うのだが、そんなことは気にもならないといった風に、出島はうららの首筋に顔を埋めた。


 「一日一ハグじゃなかったんですか、出島さん」

 「出世払いでお願いします」

 「さっきから会話が成立してないんですけど」

 「それぐらい、うららさんが魅力的なんです」

 「意味がわからないです」

 「わからないで、いいです。僕だけがわかっていれば、それで」

 「前々から言おうと思ってたんですけど」

 「なんですか? 遂に僕への恋愛感情に目覚めましたか?」

 「違います。よくそんなことを真顔で言えますよね。冗談は、せめて笑って言ってください」

 「うららさんに関しては、いつも真剣ですから」

 「はいはい。それで、話戻しますけど。出島さんって、我儘ですよね」

 「僕が?」

 「なにを意外そうな声を出しているんですか。我儘ですよね。自覚、ありますよね。ていうか大分、策略的な我儘ですよね、出島さんの場合は」

 「僕が?」

 「はいはい、その心外ですみたいな演技、いいですから」

 「僕は、我儘なんじゃなくて、うららさんに対する独占欲と愛情に歯止めがきかないだけです」

 「どうして、愛情よりも先に独占欲が出てくるんですか。問題発言ですよね。しかも、歯止めがきかないんじゃなくて、歯止めをきかせようとしていないだけですよね。自ら、理性を放棄しているだけですよね? それって、大人としてどうなんでしょう」

 「そうやって、うららさんに叱られるのも僕は楽しくて嬉しくて仕方ないので、そんなことを言われると、余計に理性を忘却放棄したくなります。うふふ」

 「うふふじゃない。そういうところが我儘だって言ってるんじゃないですか」

 「だってえ」

 「甘えた声を出してもダメ! 出島さんのお兄さんじゃないですけど」

 「え? お義兄さん?」

 「違います! 出島さんのって言いました!」

 「いいんですよ、遠慮されなくても。本来、あんなひとはあれとかそれとかで十分ですが、うららさんがあれをお義兄さんと呼ぶことで、僕とのつながりを感じられるんなら、僕はそれを甘んじて享受しますから」

 「しなくていい、遠慮もしてません! 出島さんが、なにか隠しているのは、私にだってわかるんですからね。私が年下だからって、高校生だからって、隠し通せると思わないでください。出島さんさえ理解していればいいだなんて、そんなのただの我儘な自己満足です。別に、私が特別なにかの才能に秀でてるわけじゃないですけど、でも、あんまり見くびらないでください。失礼です」

 「見くびるだなんて、そんな! 僕は、いつもいつも、うららさんに圧倒されっぱなしですよ。目に入れても痛くないくらい愛らしいと思っていますし、できたら鍵のついた部屋に監禁して、僕だけと一生を過ごして欲しいくらい大好きですし、その冴え渡る言葉の数々に触れるたび、頭からつま先まで食べ尽くしてしまいたいくらい興奮します」

 「キモいキモい、もうとめどなく気持ち悪いです!」


 もう一度、出島がうふふと笑った。首筋に息がかかって、出島の吐息で揺れた髪が肌をくすぐる。その物理的な刺激のせいか、それとも出島の発言内容に引き起こされた精神的刺激のせいか、うららの全身を悪寒が駆け巡った。


 「うららちゃん。浩平」

 出島の後ろ頭越しに見える賢介が、煙草を口にくわえて苦笑していた。パンツの後ろポケットに手を入れて、やや大袈裟にため息をついてみせる。


 「コントはそのへんにしてさ。行こうよ、最上階。あそこでないと煙草吸えないんだわ、このビル」

 「コントじゃありません! 僕とうららさんは、こうして愛を深め合って、ぐえっ」


 出島の首筋に、うららの手刀が容赦なく打ち下ろされる。カエルのつぶれたような声をあげた変態を、これまた無慈悲にひっぺ剥がしてベッドに捨て置くと、さっさと靴を履いて立ち上がった。行きましょう、と賢介の元へ行けば、黒ずくめの彼はにやにやと笑っている。


 「なんですか?」

 「ううん、なんでも。うららちゃん、浩平のこと好き?」

 「す、好きじゃありません!」

 「でも、肩抱かれたり、ああやって抱きついて首筋に顔を埋められても、嫌じゃないんでしょ?」

 「嫌ですよ! 嫌に決まってるじゃないですか!」


 鍋の中の瀕死のロブスターよろしく顔を真っ赤にして声を上げるうららを、賢介は変わらないにやにや笑いで見つめ返した。


 「どうかなあ?」

 「嫌です! い、嫌に決まってます! 今だって、嫌でした!」

 「そうなの?」

 「そうです!」

 「そっかあ」


 取ってつけたような納得の声音で、賢介は頷いてみせると、ベッドで打ちひしがれている出島の背中をつまんで無理矢理立たせた。


 「ほら、浩平ちゃん。さっさと立って、歩いて? でないと、お前の大好きなうららちゃんの前で、お姫様抱っこの刑にしちゃうぞ」

 「行きましょう! うららさん! 賢介も、なにしてるんですか」


 電撃に貫かれたのごとく直立不動になった出島は、軍人の機敏さできびすを返すと、うららの手を取って部屋を出る。振り返りながら賢介に声をかけると、煙草をくわえた友人は腹を抱えて笑っていた。


 迷いのない足取りで、出島がうららの手を引いて廊下を進む。どこを見ても真っ白な場所で、方向感覚が失われる。きっとここは、出島にとっては慣れ親しんだ場所なのだろうとうららは推測した。


 エレベーターホールの前に、蒼平が長い腕を組んで、長い足でイライラと床を叩いていた。うららたち三人の姿を認めるやいなや、

 「遅い!」

 罵声が飛んでくる。


 「兄さんは、ここで研究してるだけでしょ。別に他にアポがあるわけじゃないし、誰かが兄さんに会いにくるわけじゃないし。せっかく僕たちが、友達のいないぼっちの兄さんの話相手になってあげようって言ってるんですから、少しくらいは待ったらどうですか」


 棘だらけの出島の発言に、蒼平は無表情に白衣の内側のポケットへと手を伸ばす。手にした注射器を出島の首にあてて、

 「浩平。少し黙らせてやろうか?」

 「すいません、お兄様。調子に乗りました。遅刻してごめんなさい」


 手のひらを返したように平謝りをする出島に、蒼平は満足そうに頷くと注射器を戻し、鍵穴に鍵を差し込んでエレベーターを呼ぶ。徐々に降下しながら点滅する番号を見上げて、うららは急に襲ってきた緊張と対峙していた。出島の軽口と、賢介のからかいで気が逸れていたけれど、これからどんな話をされるのか不安だ。


 気取られないように息を吐いたつもりだったのに、隣に立った出島に手を握られる。どこか湿ったその手は、うららの手をすっぽりと覆い、親指が甲を何度も撫でる。不本意だったが、それはうららの心を落ち着かせてくれた。 


 うららちゃん、浩平のこと好き?


 賢介の質問が、頭の中で再生される。


 ぶんぶんと頭を振りながら、うららは自分に言い聞かせる。


 好きじゃない。好きなわけない、こんな変態河童。


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