5.5
前回のシーンを、出島さん視点で。
5話目と照らし合わせながら、楽しんでくださいませ。
「うららさん、だめです」
出島が、狼狽した声で手枷を大きく鳴らした。高い天井から頑丈な鎖で繋がれている、二つの手枷を忌々しげに睨んで、その頑強さを知らないではないはずなのに、それでも諦めきれずに手首を動かして体の自由を得ようとした。体力がなくなっていることなど、大したことではないと高を括っていたつけが今きた。最悪のタイミングで。
「無駄だ。それはお前の力では外せない」
スピーカーの声は、出島がすでに悟ったことをもう一度、あの憎たらしい声で通告する。大きく舌打ちをして、出島は目だけをうららに向けた。こんな風に彼女を巻き込んではいけない。洽雫が枯渇してきているのは事実だが、それは彼女の責任などではなく、出島の不始末の片づけをするのが彼女であることも認められない。それらすべては、言葉に出して伝えられるものではなかったが、うららはじっと出島の視線を受け止めていた。深呼吸をするうららを、出島は穏便でない気持ちで見つめるしかない。
「青本君。汲汪沁のやり方は?」
「知ってます」
「結構」
またしても相手の神経を逆撫ですることにだけは長けた声が、うららに不躾な質問をする。答える彼女は堂々としていて、正直、状況が違えば、その勇敢ともいうべき受け答えに、出島は感動の涙を流していただろうが、いかんせん、今はそのときではない。
「……よし」
うららが小さく呟いて、出島と同じように膝立ちになって、少しだけ近付いてきた。離れていても、可憐なその姿は、近付くと更に小さく感じられる。こんないたいけな彼女から、洽雫を奪わなくてはいけないのか?
たった数時間前、朝のバス停で抱き締めた彼女の体躯を思って、出島はいっそのことすべてをここで告白してしまおうかと思う。だが、一瞬の衝動は、あの方の言葉を脳裏に描いて、すんでのところで止まる。そう。今はそのタイミングではない。すべては、より良い未来のためだ。
腕さえ自由になるのなら、不安げに出島を見上げるうららを抱き締めて、落ち着くまでずっと背をさすってあげられるのに。歯がゆい思いは、うららに気取られるわけにはいかない。出島は、精一杯、いつもと同じように軽い口振りで、
「今朝ぶりですね、この距離は」
「しっ。集中しようとしてるんですから」
思いの外厳しい制止にあって、出島はうららの緊張の度合いを知る。
「うららさん、本当に、ご無理されなくても」
「出島さん、うるさいですよ」
「あんな風にけしかけられて、うららさんが僕を助けなくてはと思ってしまったのは分かります。ですが、うららさんがこれに責任をお持ちになる必要性はどこにもないんです。ですから、今からでも遅くありません。おやめになってください」
「出島さん。私は、自分で決めたんです。出島さんがとか、スピーカーのひとがとか、そういうことじゃなくて。今、出島さんが私の目の前でぐったりしているのが、嫌なんです。だから、私ができるんだったら、私が助けます。そう、決めたんです。ひとの決意に水を差さないでください」
そう言ううららの面もちは真剣そのもので、透き通った白目が美しかった。緊張と、ある種の興奮で、うららの目尻に朱が入る。それは、目眩がするほど扇情的だった。
汲汪沁の行為そのものは、人間のいうキスと同じものだ。何ら、難しいことなどないし、誰にでもできる。ただ、これまでのうららとの会話から、彼女が男女関係になったことがないことは明らかだったし、これまでに異性に恋愛感情を抱いたことがあるかどうかも怪しい。そんな女性に、しかもまだ高校生になったばかりのうららには、荷が重いに決まっている。止めるなら、今がベストなはずだ。
「でも、うららさ、んっ」
しかし、出島は最後まで言い終えることができなかった。うららがぎゅっと目を瞑り、出島の口元めがけて自分の顔を近付けてきたからだ。驚きが全身を駆けめぐる。寸前で顔を動かして避けることだってできただろうに、それができなかったのは、うららの行動が出島の虚を突いたものだったからか。それとも、無意識がこれを望んでいたからか。
どこを掴めば良いのか分からないらしい、うららの両手は、固く握りしめられたまま、胸元で震えていた。唇を合わせながら、出島はあの手の震えがおさまるまで包み込めたらと夢想する。
どこか打ちひしがれたように、うららは一瞬唇を離して息を吐いた。このチャンスを逃す手はない。彼女の役に立つことを。
「うららさん。残念ながら僕は抱き締めてあげられませんが、せめて僕のシャツを掴んでいてください」
普段のうららからは考えられないことだが、出島に言われるままに、彼女は出島の胸下あたりのシャツを掴む。肌に直接、彼女の指が触れていないのが、ひどく寂寥感をせき立てる。いっそのこと、ここに繋がれたときにシャツをはぎ取ってくれれば良かったのに。
うららはシャツを掴んだまま、悔しそうに顔を歪めていた。悩んでいる。それは、然るべきことなのに、彼女は悩む自分を許していない。そして、そんな風にさせているのは、出島本人が招いた結果なのだ。
止めさせなければならない。洽雫がこのレベルまで枯渇した症例は、そこまで多くない。そのほとんどが、そのまま命を落としてしまうからだ。死ぬわけにはいかないと、出島は分かっている。何をしてでも、何かを犠牲にしてでも生き延びないといけない。でもそれは、うららの心に陰を落とすことと引き替えであってはならない。だって彼女は。
「うららさん。僕を見てください」
その憂いた瞳を閉じてあげられないのなら、震える指を握れないのなら、年齢にそぐわない重責を乗せられた体を抱き寄せられないのなら、せめて、声でだけは安心してほしい。こちらを見つめるうららは、彼に負けず劣らず蒼白になっていて、出島は罪悪感に叩きのめされそうになる。努めて明るく穏やかな声に集中しながら、うららの説得を試みた。もし、最悪を回避できないのであれば、最低最悪を回避すればいい。
「ありがとうございます。僕のために勇気を出してくださって、本当に感謝いたします。僕にとってこれは汲汪沁ですが、うららさんにとっては大事な大事なキスですよね。それは、理解しています。恋人でもない僕と、そんなことをしてしまうのは、うららさんにとっては不本意でしょう。その不本意を抱えながらも、僕を助けようとしてくださって、ありがとうございます。大丈夫です。これはキスではないですし、うららさんは不道徳なひとなんかじゃありません。ただの人助け、いえ、河童助けです」
「出島さん……」
どうして、緊張しているのがバレたんだろう?と、その愛らしい顔には書いてあった。あなたのことなら、何でも分かります。何でも知りたいから。それは言えないけれど、でも、出島の言葉が彼女の心に届いているらしいことはみてとれた。
「目を閉じて、リラックスしていてください。口だけ、少し開けていてくだされば、僕がリードします。ね?」
上手くいった、と正直思った。手応えのようなものも感じたし、汲汪沁というよりかはキスを自分からするのは、うららがたとえ義侠心にあふれる女性であったとしても、あまりにハードルが高い。出島がリードすれば、出島がコントロールできる。うららから洽雫をほとんど搾取しないようにすれば、彼女の健康にも被害は出ないし、彼らからも守れる。
なのに。
「嫌です」
顎に皺がいくほど口をへの字に曲げて、うららは若干涙目になりながらも、出島をきゅっと睨み上げた。その頑固な視線に、出島は目を見開く。
「うららさん?」
それしか言えなかった。予想と違う。うららの性格を考えれば、今のは願ってもない申し出だったはずだ。犬にかまれたと思って、受け身でいれば、うららが出島にキスをしたということにはならないのだから。うららは、被害者のままでいられる。彼女を迷わせている責任を負う必要が、なくなる。うららのきかん気に狼狽している中、うららは、掴んだシャツへの力を込めて、
「私が。出島さんを助けるって、決めたんです」
自分のちっぽけな力が遠く及ばない、大いなる水に飲み込まれ、流され、翻弄される。鉄砲水のような愛しさなんか、逆立ちしたって適わない。地球上の水をひっくり返したような衝撃が、出島の脳天を貫き、もしうららが出島にとって理解不能な「理想の日々のために、必要なことなんです」という言葉を口にしてくれなかったら、泣いてしまっていたかもしれない。泣いて、泣きじゃくって、涙を流しながらうららに許しを請うて、手が千切れるのも構わずこの忌々しい手枷を外して、彼女をきつく抱いていたかもしれない。
「ど、どういう意味でおっしゃっているのか……」
尋ねてみるけれど、うららからの返答はそれ以上はなかった。まるでトップアスリートの試合直前のように、うららは息を整え、誰からも邪魔されないでほしいと、その雰囲気で出島に伝えていた。
シャツを少しだけ引っ張って、その反動で、うららは顔を出島の方へ近付ける。目を閉じようとした直前で、出島と目が合った。うららの友人たちからは、うららは自分のことを中の下か下の中くらいの容姿だと認識していると聞いた。こんなに美しい瞳をしているのに? 年相応の、精気に満ちた瞳は、どこまでも澄んでいて爽やかだ。未踏の地。足跡のない雪景色。龍の眠る河。
「恥ずかしいんで、目、閉じててください」
それだけを囁いて、うららは返答を待たずに唇を押しつけた。
触れたうららの唇は、あたたかかった。太陽をしっかりと吸収したタオルに顔をうずめるときの、安らかな気持ちを、瞬時に与えてくれる。それは同時に、出島が目を向けないようにしていた、自身の洽雫への飢えを思い起こさせる。一度目を覚ました飢餓はとどまることができず、知らず知らずのうちに出島は口を開いている。餌を運んできてくれることを疑いもしない雛鳥のように。
出島はどうやら、うららのことを過小評価していたらしい。自分もうっすらと唇を開くと、うららの方からおずおずと舌を伸ばしてきた。加減が分からないのか、慎重に、そろそろと這い進んでくる。途中で、出島の唇の裏側をなぞり、歯列を触った。そしてようやく、目的地へとたどりつく。待ち構えていた出島のそれは、うららの到着を歓迎するように、そっと触れて挨拶をする。うららの背が一度だけ、ぴくりと動いた。
うららから分け与えられる洽雫は、甘美な香りで出島の脳髄を溶かしていく。本能が、彼女の洽雫に貪りつく。このままではいけないと、理性が叫ぶが、その声はどんどんと遠く、小さく、そして薄くなっていった。だめだ。これ以上は、だめだ。だけど、彼女をもっと味わっていたい。
相反する感情がせめぎ合っている中、息継ぎをするように、一瞬だけ唇が離れる。理性を、取り戻さなくては。ふ、と低い声で出島は笑う。
「がっつぎすぎですね、僕……」
たしなめられれば、うららが出島の行いに嫌悪の表情を見せてくれれば、目が覚めるだろうと思って言ったことだった。今日のうららは、出島の想像をことごとく裏切っていく。彼女は、真摯な顔はそのままに、瞳だけを色っぽく潤ませて、囁いた。
「好きなだけ、がっついてください」
理性が瓦解する音を聞いたような気がする。
出島が口腔のさらに奥へとうららを連れ出す。さっきよりも大きく口を開けて、うららの舌どころか口を、そしてうらら自身を食べてしまえればいいのにと思った。シャツを握っていたはずの手は、いつの間にか指先で出島の肌を掴むようにしていて、それは出島の心臓に新たな力を与える。
「うららさん」
それを言ってどうするのか、と理性なら言っただろう。ここでその言葉を口にするのは愚策だとも。そもそも、うららは出島の過度な愛情表現や繰り返される求愛が嫌だと言われたからこその、一日一ハグ習慣だったのだ。なのに、抑えられない。自分よりも小さく、若く、幼い彼女が見せてくれた度胸と剛勇さは、今までみてきたどのうららよりも凛々しく気高く、美しく高貴だった。
「好きです」
うららはうっすらと笑むと、吐息まじりに呟いた。もう一度、唇を寄せながら。
「知ってます」
もし選べるのなら、今この瞬間に世界が終わってしまえばいいと自分勝手なことを思っていたが、やがてうららはゆっくりと唇を離して、目を開けた。全身に血が駆けめぐっているのが感じられる。すべての臓器が生き生きと活動している。枯渇状態は終わり、今すぐにでも跳ね回れるような気分だった。
「うららさん」
呼びかければ、うららは安堵の表情で微笑んでくれる。あまりの可愛らしさに鼻血が出るかと思ったが、それは杞憂に終わった。出島も、その微笑みに応えるように笑いかける。ふと、うららの視線が出島の唇に向けられる。どうやら、これまでのことを思い出したらしい。真っ赤になったまま俯いたうららは、国宝級にキュートだった。
「大丈夫です、うららさん。先ほども申しましたでしょう? これは、ノーカウントです。うららさんは、はしたないことなんて何もしていません。今でも、貞操観念のしっかりした、困っているひとを放っておけない親切で優しい、生真面目なうららさんのままです。まあ、僕としては、少々はしたないことをされても、全然オッケーですけどね」
むしろ、ウェルカムですと軽口を叩けば、うららも、
「馬鹿じゃないですか」
どう贔屓目にみても照れ隠しなだけの憎まれ口を叩いて、その恥じらった顔に悶絶させられそうになる。
「僕は、うららさんが絡むときだけ、希代の大馬鹿者になるんです」
「はいはい。さて、これで私の役目は終わりですよね」
うららはぞんざいに言ってから、掴んでいたシャツをぱっと離して、床に手をつき立ち上がる。正確には、立ち上がろうとした。
腕を支えに立ち上がろうとしたうららは、しかし、体を傾げて倒れ込んでしまう。二の腕から倒れたので、頭は打っていないようだったけれど、出島から見える顔は紙のように白くて、汲汪沁の副作用なのだと心臓が
警鐘を賢明に鳴らす。手枷はやっぱり重くて、よくもこんな特注のものを作ったなと、改めて怒りがこみ上げてくる。動かない体の前で、うららは出島を見て、そして、意識を失った。
「うららさん!」




