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出島の姿に、うららは鞄を放り出して駆け出した。背後で扉が閉まるのも、綾乃が部屋の外から気の毒そうに目を伏せるのにも気がつかなかった。
膝でかろうじて立っているだけの出島の目の前にしゃがみ込んで、うららは、前髪で隠れてしまっている顔を確認しようとした。
「出島さん?」
どうしたんですか? 大丈夫ですか? どうもしたも、こうもしたもない。完全に出島はぐったりとしていて、こんな手枷で天井から吊り下げられるような状態なのだ。何があったとしても、それが異常であることだけはたしかだ。
口にしかけた質問に、脳内で自分で答えてしまってから、馬鹿なことを聞くんじゃないと叱咤した。代わりに、出島の前髪を上げて、額に手をやった。熱はないようだ。
「うららさん……」
出島の唇が動いて、名前を呼ばれる。その精気のない瞳を見据えて、一度、頷いて見せた。ふ、と息を漏らす。弱々しいながらも微笑むと、
「どうせなら、おでことおでこで熱を測ってくださればいいのに」
「そんな軽口叩けるくらいなら、大丈夫そうですね」
額にやっていた手を離して、冷淡に言いながらも、出島の軽口に安堵していた。そして、きっとうららを安心させるために、無理をして言ったのだろうと想像する。
「青本うらら君」
部屋の中にあるらしいスピーカーから声がして、それに出島は眉根を寄せた。いわゆる美声と呼ばれる類であろうそれは、しかし、とても冷たく、呼びかけられているのに拒絶されているように感じる。
「返事は?」
「へ? あ、はい」
生真面目なスピーカーの声に返事を要求されて、うららはどちらに向いて言えばいいのかときょろきょろした。
「今日は、急に連れてきてしまい、申し訳ない」
「いえ……」
「さて、早速だが、君にお願いがある。そこにいる者に、洽雫を分けてあげてやってほしい」
「は?」
「だめです」
声の依頼内容に疑問の声をうららが上げるのと、却下する出島の声とが同時だった。真っ白い部屋のあちこちを不審そうに見渡してから、うららは出島の顔を見る。
「だめです、うららさん」
「何がだめなんですか。そもそも、何がどうなってこんな状況になっているのか、私にはさっぱり分からないんですけど」
「露井から説明を受けていないのか」
出島に話しかけたつもりだったが、声が反応してくれた。こくりと頷く。それから、頷いただけでは声には見えないのだろうかと思い直し、受けていませんと答えた。
大きなため息が聞こえる。そして、どうやら声の主の近くにいるらしい綾乃が謝罪する声が、かすかに聞こえた。
「そこにいるのが河童だというのは、君も周知の事実だ。そして、河童が生命活動を行うためには、洽雫と呼ばれるエネルギーを摂取する必要がある」
「知っています」
「では、そこにいる愚かな河童が、ここ数週間に渡って、洽雫をほとんど摂取していないことは?」
「知りません」
でも、この数週間、出島と一緒に食卓を囲んだことだってある。出島は、言っていなかったか? 洽雫は、動植物すべてに含まれていて、食事からでも取ることができると。
「君は今、なぜ食事での洽雫摂取が充分でなかったのかと考えなかったか? 答えは明瞭。洽雫摂取量を上回る消費を、それは続けているからだ」
「だから、錠剤でいいって言ってるじゃないですか」
出島が気怠げに首を振ると、手枷が小さく音を立てた。たったそれだけの音が、何もないこの部屋ではひどく反響する。
「お前は、本物の馬鹿なのか」
初めて、声に感情らしきものが混じった。それは呆れるような侮蔑するようなものに一見聞こえるけれど、うららはそこに心配が含まれているように思う。
「サプリメントの意味を知らないのか」
「知ってますよ、それくらい」
「だったら分かるだろう。そこまで消費し、磨耗された洽雫では、錠剤どころでは回復できない。だから、人間への汲汪沁が必要だと言っているんだ」
「キュウオウシン?」
またしても出てきた河童専門用語らしきものに、うららは首を傾げる。声はどうやら親切らしく、呟き程度だったうららの問いを拾い上げてくれた。
「汲汪沁とは、河童が洽雫を摂取する、その行為のことをいう」
「なるほど」
「河童の社会には、緊急に必要になる汲汪沁に対応するための、人間のストックがある。通常時であれば、そのストックの中から洽雫を分けてもらうのだが」
献血みたいなものなのだろうか。
「そこの馬鹿は」
そこの者からそこの河童へ、そして遂に、そこの馬鹿に成り下がった出島がうららの同情的な目線に、ばつが悪そうに微笑む。
「そのストックからは汲汪沁はできないと言ってきた。錠剤では足りない、食事からの汲汪沁ではもちろん足りない。だとすれば、人間からの洽雫しか選択は残されていないにもかかわらず、だ。そこで、軽い自白剤を打った」
「えええええ?」
あまりにも自然に出てきた穏やかでない単語に、うららは目を丸くする。自白剤ってなんだ。どうしてそんなものが手に入る状態にあるのだ、ここは、この声の主は。そして、それを投与されて、出島の健康状態は大丈夫なのだろうか?
「軽い、と言っただろう。心身には支障をきたさない。もちろん、後遺症や副作用もない。そこの馬鹿は、しかし、自白剤を投与されて、こう言ったのだ。青本うらら以外の洽雫は、もう要らないと」
「はあ?」
出島をねめつけると、途端にごほごほと嘘臭い空咳をしながら頭を垂れた。
「なんでそんなこと言うんですか」
「すみません」
殊勝に謝る出島の声をかき消し、スピーカーが鳴る。
「なぜ、の部分は我々も大いに興味がある。そこの馬鹿は、自白剤に対抗して、それ以上は話さなかったからな」
「自白剤に対抗とか、できるんですか」
「精神鍛錬とかで、実は可能です。あと、洽雫も少し使いました」
「馬鹿じゃないんですか? 出島さん。もともと洽雫が少なくなってたんですよね? そこで洽雫を使っちゃって、どうするんですか?」
「すみません……」
思わず叱りつけてしまった。怪我人?相手に。はっと手を口にやるが、もう遅い。対する出島は、謝罪の言葉を口にしつつも、なぜか口元がゆるんでいる。それが、うららの気に障った。
「なんで、にやにやしてるんですか?」
「え? にやにやなんて、してないですよ」
「してますよね? 絶対、してますよね? なんで、自分の命が危険にさらされてて、こんな状態で鎖で繋がれてて、しかもその原因を自分で作っておいて、にやにやしてるんですか?」
「だって」
「だって?」
「うららさんが、僕のことを叱ってくれるのなんて、初めてだなあと思ったら嬉しくなってしまったので……。つい」
「つい、じゃないでしょうに。出島さんって、格好良いのか格好悪いのか分からないですね」
「僕のこと、格好良いと思われたことがあったんですね?」
「え? ち、違う、今のは、そういう意味じゃなくて」
あたふたと手を振りながら前言撤回を要求するうららだが、その真っ赤になった顔で、真意がまるわかりだ。出島が手枷で繋げられていることに、初めてうららは感謝した。もし、出島の両手が空いていたなら、きっと今頃はうららにその手を伸ばしていただろうから。弱っているのは相変わらずだが、妖しげな光をたたえる瞳に見据えられて、うららは下唇を噛んだ。
「うららさんのそれ、癖ですか?」
「癖? どれのことですか?」
「こうするの」
出島が、下唇を噛んでみせる。噛む直前、少しだけ覗く歯が艶めかしい。
「分からないですけど……。私、そんなことしてますか?」
「してます。良く言えば色っぽいです。悪く言うと、エロいです。けしからん、もっとやれって気持ちになります」
「相変わらずおぞましいことを言いますね、出島さん」
真顔のままの出島は、瞬きすらせずにうららの顔を穴があくほど見つめている。それに、うららは顔をしかめて応対した。
「君たち」
姿は見えないでも、声の主のこめかみがぴくぴくしているのが感じられるほど、部屋に広がる音から苛立ちが滲み出てくるようだった。うららと出島は、反射的に背筋を伸ばして、はいと返事をしてしまう。声の主は、まるで校長先生のようだな、とうららは思う。
「で? どうする、青本君。馬鹿が馬鹿げたことをしたせいで、更に馬鹿の首を絞めるようなことになってしまった、この馬鹿馬鹿しい事態だが、馬鹿を少しでも助けるつもりがあるなら、そこの馬鹿に汲汪沁をしてやれ」
「一生分の罵倒をされましたね、今」
辛辣な言葉に、出島が反撃を試みるが、
「お前がその馬鹿を悔い改めない限り、死ぬまで馬鹿と呼び続けられるだろうな」
あえなく撃沈してしまう。
「青本君?」
答えを催促する声。
「うららさん。ご無理されなくても、大丈夫です。僕なら、なんとかしますから」
気遣ってくれる声。
自分の選択に責任を持ちな。
祖母の言葉を思い出す。
一度目を閉じて、気を鎮める。状況は、把握できた。出島の容態は、きっと彼がそう振る舞っている以上に悪いのだと思う。声の主は、言葉こそ苛烈だが、きっと出島のことを心配している。何より、ここでうららが出島を見捨てて、出島の身に何かあったら、きっと一生後悔する。
ゆっくりと目を開けると、うららを見つめる出島の瞳がまず視界に入った。変態で変人で、ストーカー気質で策略的で、セクハラ大魔王の出島だが、うららを傷つけたことは一度もない。たゆたう湖の色をした両眼に、安心してもらえるように歯を見せて笑った。瞬間、出島が泣きそうな顔で、何かを言いかけるように口を開いたが、結局、どこか悔しそうに閉じてしまう。
「やります」
声の主がどこにいるか分からないけれど、部屋にある、窓のようなものに向かって宣言した。
「出島さんに、コウダ、あげます」
次話、久々のキスシーンです!いえーい←
(出島さん曰く、キスではないのでしょうけど)




