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うららが敬愛してやまない祖母は、ことあるごとに言った。自分の選択に責任を持てるような生き方をしろと。そうすれば、たとえ失敗が起こったとしても、後悔に苛まれるような生き方にはなりにくいからと。
でも、おばあちゃん。
出島の熱っぽい視線にさらされながら、うららは心の中で祖母に語りかけた。
私の今のこの現状は、いったいどの選択に責任を持てば後悔しないですむのかな。後悔しかないんですけど!
そんなうららの心中を知ってか知らずか、出島がその両手に力を込めた。
「分かります。分かりますよ、うららさん」
「なにが分かるんですか」
「うららさん、照れてらっしゃるんですよね。可愛い」
最後の一言だけ、ぐっと声量を落とし、シチュエーションさえ違えば卒倒しそうなくらいな色っぽさで出島が囁く。ただし、今のうららには生理的嫌悪感からくる鳥肌が背筋と首筋を上下するだけだった。
「あ、あの」
とりあえず、これ以上この変態さんを興奮させてはいけない。極悪犯と人質解放を交渉する警察官の面持ちで、うららが切り出した。
「出島さん。その、手を……」
「ああああああああ、すみません! 僕としたことが! そうですよね、ぬるっとしてますよね、湿ってますよね!」
「いや、そうじゃなくて、手を」
離してほしいと言おうとしたのだが、出島に言われてみれば、たしかに彼の手はどこかぬるりとしていて、しかも湿っている。手汗だろうか? こんなに美青年なのに、変態でしかも手汗過多? 初対面の天使のイメージからどんどんと下降していく出島に、うららの笑顔が引きつる。
「僕たち、水かきを人目に見えなくすることには成功したんですが、その代償としてゼリーみたいな粘液に手足が覆われちゃうんですよね」
「水かき?」
「はい。僕たち、河童なので」
そうだった! この人、美青年で変態さんで、しかも電波さんなんだった!
頭を抱えて現実逃避したいうららだが、その手をがっちりと出島に掴まれているのでそれは叶わない。その代わり、
「あ、雨止みましたね」
話を完全にスルーし、出島の目線をバス停の外に向けることには成功する。
「本当ですね。じゃあ、参りましょうか」
「どこへですか?」
「決まっているじゃないですか。うららさんのお家へ、これから二人で歩いていくんですよ」
二人での部分をやけに強調したかと思えば、二人っきりでと独り言にしては大きな声音でつぶやき、その後、くすくすと肩を震わせて笑った。その瞬間、少しだけだが出島の手が緩む。それを見逃さず、うららは通常の五倍くらい速い動きで自身の手を引き、こっそりとスカートで手についたぬめりを取った。
「そのことなんですけど、えと、大丈夫ですよ。ひとりで運べますから」
じゃ、とスイカの方へ身を屈めると、出島の手にそれを奪われてしまう。
「遠慮なさらなくても大丈夫ですよ。うららさんたら、謙遜されて。なんと愛らしいんでしょう」
やけに目の据わった、しかし口元だけは微笑んだ矛盾した顔つきで出島が言う。
「いや、本当に。謙遜とかじゃなくて。私と出島さんって、よくよく考えたら初対面ですし、そんな初対面のひとにここまで親切にしてもらう義理もないっていうか」
「初対面じゃないですよ」
「え?」
その整った顔立ちを柔和な笑顔にして、出島がうららを見つめる。変態で電波さんだと知りつつも、やはりその瞳に映されれば、うららは赤面してしまう。しかも、どこか懐かしそうに、そして寂しそうにこちらを見られれば、心拍数が上がってしまう。
「初対面だなんて。僕の心を鷲掴みにしておいて、うららさんたら水くさいなあ。聞こえなかったふりなんかされても無駄ですよ、うららさん。聞いてくださるまで、何度も言います。僕、うららさんのことが好きです。うららさんにも、僕のことを好きになってほしいです」
「だ、だから! そういうの、困るんですってば!」
「どうして?」
「そんな、初対面のひとにそんなこと言われても、どうすればいいか分からないです。だって、まだ私たち会ったばっかりなんですよ?」
しかも、自分のことを河童だとか言い出すし。
「初対面って、そんなに障害ですか?」
「障害っていうか、だって、分からないじゃないですか。出島さんの性格とか」
というよりも、今現在、分かっている出島の性格が問題なのだ。
「なるほど。じゃあ、僕の性格を知らないと、僕のことを好きになれるかどうか判断できないと」
「そりゃそうですよ」
「じゃあ、僕のことを知ってください。あ、スイカをお運びする間に、たくさんお話をしましょう。それなら、うららさんは僕のことを知れて、重いスイカも僕が運ぶのでうららさんは楽ができて、一石二鳥じゃないですか?」
「いや、それは、だから。そうじゃなくて」
「うららさん」
甘えた声に、瞳まで潤ませて、出島があたふたと手をばたつかせるうららの顔を覗き込む。
「うららさん。男女が恋に落ちるのに、理屈は関係ありませんよ」
「はぅ……」
急に眼前いっぱいに広がった出島の顔のインパクトたるや。うららは情けない擬音語だけを口にして、真っ赤になった顔で固まった。
彼の痛々しい発言を目の当たりにしては決して口にしたくないが、出島の顔は、うららの好みのど真ん中をどストライクで打ち抜いていた。しかも、豪速球で。
ひとを見た目で判断してはいけない。たとえそれが、自分の理想を具現化したような容姿であったとしても、ただそれだけで彼の隠しきれない変態さを許容してはいけない。
というような内容が頭を駆け巡ってはいたが、現実にはうららは建設的なことは何も言えず、気づけば両の手首を出島に掴まれ、彼の吐息を間近で感じられるような距離に近づかれていた。
「ねえ、うららさん。ひとがひとを好きになるのって、些細なきっかけがあれば充分なんです。たとえば、目が好きとか、髪がきれいとか、その肌に触れてみたいとか」
男友達がいないわけではないが、色恋沙汰にはてんで縁のないうららには刺激が強すぎる。同級生に、こんな距離でこんな声音でこんなことを囁くひとなんて、いない。振りほどいて、いっそのことスイカなんて放っておいて逃げれば良いと思うのに、出島の言っていることはあまりにも突飛すぎると思うのに、悲しいかな、美しい絵画のような顔が近づくと、見とれてしまう。そして、見とれていたことに、脳が半瞬遅れて気づき、パニックを起こす。脳内でも、出島の対処法を決めあぐねているようだ。
「外見が好きっていうのも、立派な理由になりますよ? うららさん。うららさんは、僕の顔、嫌いですか?」
「き、嫌いじゃないです……」
熱に浮かされたようにそう呟けば、出島は先ほどの色気をかき消すと、飛び跳ねる子ヤギの天真爛漫さで微笑んだ。
「じゃあ、第一ハードルクリアということで! さあ、うららさん。どんどん僕のこと知ってください。そして、どんどん僕のこと好きになってくださいね」
自分の選択に責任を持つ。
おばあちゃん、責任の持てない選択をしてしまいました。
スイカを抱えてバス停から出て行く出島の背中を見ながら、うららは再度、祖母に語りかけた。