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雨もしたたる良い河童  作者: 卯ノ花実華子
第四章 スマートな誘拐、野蛮な求愛
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3

 それは何の変哲もない、ただのワゴン車だった。決して、それがうららの目を引いたわけではない。彼女の目を引いたのは、その目立たない車から降りてきた、華やかな女性だった。


 長い髪は、大きく巻かれていて、彼女が動くたびにカールがふわりと揺れる。アイラインが引かれた目は艶めかしく、マットな赤い口紅がさされた唇は肉感的でありながら知的だった。すっと伸びた背筋を覆うのは、シャンパンゴールドのノースリーブシャツ。形の良い膝小僧が半分ほど隠れる丈のタイトスカートの後ろに入ったスリットが、彼女の引き締まったふくらはぎをいっそう魅力的に見せた。靴底の赤い、ベージュのピンヒール靴が、アスファルトにあたって硬質の音を立てる。


 日常的な帰宅途中の風景を、あっという間に非日常に仕立て上げた女性は、車を降りて歩道の方へと向かい、そしてうららを見つけて微笑んだ。


 「ねえ、あなた」

 「え? 私ですか?」


 まさか、こんな迫力のある美女が話しかけてくるとは想定していなかったうららが、本をしまうのを忘れて、人差し指を顔に向ける。女性は笑顔で肯定の意を見せると、うららの手にした本に目をやった。タイトルを読んでから、さきほどよりかはどこかリラックスした笑みに変わると、


 「もしかして、青本うららさん?」

 「そう、ですけど……」


 名前をフルネームで呼ばれて、ますます訝しむうららをよそに、女性は手を差し出した。握手を求められるのは、今日で二度目だ。


 「はじめまして。私、露井綾乃っていいます。あなたのおうちに居候している出島浩平の幼なじみよ」

 「出島さんの?」


 どうなっているのだ、あのセクハラ河童の周りは。自身が超弩級の美形であるだけでなく、腐れ縁らしい賢介も、目の前に立つ幼なじみの綾乃も、一般人の美の平均値を遙かに越えている。これも、ある意味での、類は友を呼ぶという状態なのだろうか。


 なんてことを考えていると、綾乃が遠慮がちに手を引っ込めた。微苦笑しながら、


 「ごめんなさい。いきなりこんなこと言われて、握手なんてできないわよね。不躾だったわ」

 「あ、いえ、そういうわけじゃ」

 「不躾ついでになんなんだけど」


 指に通したキーリングにつながった車の鍵らしきものを見せて、綾乃が声を潜めた。


 「浩平が、大変なことになっているの。一緒に来てくれないかしら?」

 「大変なことって、どういうことですか?」

 「状況は、車の中で説明するから。乗ってくれる?」

 「どこに行くんですか?」

 「会社よ。あ、浩平と私、同じ会社に勤めているの。部署は違うんだけどね」


 おいでおいでと手招きしながら歩き始めた綾乃の後を、うららは仕方なくついていく。正直、少し不安もあったが、出島が大変だと聞かされると、無視できないでいた。


 「うららちゃんって、呼んでもいい? 私のことも、好きに呼んでくれていいから」

 「あ、はい」


 助手席のドアを開けられて、鞄と本を手に四苦八苦しながら乗り込んだ。綾乃のリクエストには、曖昧に返答する。


 「賢介にも、会ったんでしょ?」


 運転席に座り、鍵を差してエンジンをかける。車内は、消毒液のような無機的な冷たい匂いがした。エアコンがかかり始めて、じわりとかいていた汗がすっと引いていくのが、心地よい。


 「会いました。一度だけですけど。あの、それで……」

 「浩平のことよね?」


 サイドブレーキを倒して、車が発進する。スムースに舗装された道路の上を滑る車の中で、綾乃はミラーをを確認しながら、うららに視線をよこした。安心させるように微笑んでみせる。


 「うららちゃんは、浩平が河童だって知っているのよね」

 「はい、あと、賢介さんも河童だって」

 「賢介がそう言ったの?」

 「はい」


 道路を曲がると、西日が直接フロントガラスから入り込んでくる。まぶしさに眉をしかめて目を閉じていると、横から綾乃が手を伸ばして、サンバイザーを倒してくれた。自分も、サングラスを手際よく出してきて装着する。


 「浩平って、変わってるでしょ?」


 それは、出島が変わっていると気付いているだろうと確認するような質問だったが、と同時に、出島が変人だと言って欲しくないようなニュアンスも含まれていた。うららは、しばらくどう返答したものかと考えたのち、


 「残念ながら、変態ですよね」


とだけ答えた。幼なじみだという綾乃の前で、どれだけ出島の愚痴を言っていいものか悩んだからだ。綾乃は、しかし、うららの言葉を聞いて大きく吹き出した。


 「そう、残念ながら、手の施しようのない変態だわ。頑固だしね」

 「頑固ですね。こっちが困るくらい、頑固です。芯が強いんだろうなって思うんですけど、それにしたって、頑固です」

 「うららちゃんの言うことなんて、聞いてくれない?」

 「いえ、そういうわけでは……」


 たまにする、うららからのお願いを快諾してくれた出島を思い起こす。一日一ハグだって、結構な条件を飲んでくれたようにも思う。サンバイザーで区切られた視界は、西日で紫がかったオレンジ色に染められていて、いつも見ているはずの建物を、非日常に染めていた。


 「私の意見を尊重してくれているんだなっていうのは、分かります。でも、出島さんは、それをした上で、さらに自分の思うように物事を動かしてやろうっていう魂胆がありありで、それに対抗するのが大変です」

 「へえ」


 綾乃の相槌はフレンドリーだったが、サングラスのせいで、彼女がどういった顔をしているのかは分からなかった。言い過ぎてしまったのかとうららが悩んでいると、


 「浩平と賢介はね、同い年なんだけど、私は彼らよりも一つ上なの。私は、ひとりっこだからか、浩平と賢介は、幼なじみというよりも弟みたいだわ。うららちゃんは? 兄弟とかいるの?」

 「私も、ひとりっこです」

 「そう。じゃ、一緒ね。浩平はね、小さい頃から、一度こうと決めたらてこでも動かない性格で、夜中に虫捕りにいくってきかないから、私と賢介が夜更かしして一緒に行ったりとかね。だから、今の浩平って、小さい頃のまま大きくなったみたい」


 そう言って、綾乃は笑った。昔を懐かしみ、小さい頃の出島がまるで今すぐそばにいるかのような、そんな、時間を見据えた、母性的な笑いだった。 


 「出島さんって、綾乃さんに大事にされてたんですね」

 「どうかしら」

 「なのに、どうしてあんなこじらせた性格になっちゃったんだろう」

 「たとえば?」


 車は、高速道路にさしかかるところだった。出島の会社に向かうと言っていたが、それがどこにあるのか、うららは知らない。帰りが遅くなると両親に連絡しなければ、と思った。携帯を取り出そうとして、いまだに本を鞄に仕舞っていなかったことに気付き、鞄の中につっこんだ。サイドポケットから携帯を取り出して、メール送信の画面にしながら、露井の質問に答える。


 「えっと……」


 幼なじみのひとにこんなことを言ったら、気を悪くするだろうか。出島のことを庇うんだろうか、と先刻までのうららだったら迷っていただろう。だが、姉のような口調の綾乃に、出島の粗相を報告するのは、ちょうど兄弟の粗相を母に告げ口するような感覚だった。そしてその感覚は、うららの口を滑らかにさせる。


 「とりあえず、セクハラ大魔神です」

 「え? 誰が?」

 「出島さんがです」

 「浩平が? セクハラ? え? 本当に?」


 綾乃の反応には、純粋な驚きがたくさん含まれていて、現に彼女は、高速道路を走りながらも、うららの顔を窺うようにちらちらと視線をやっていた。たとえば?と先ほどと同じ質問を繰り返す綾乃に、うららは出島から受けた数々のセクハラを思い出す。


 「いきなり抱きついてきたりとか、なんか、はあはあ言いながらひとの生足を見つめたりとか。どさくさに紛れて、ひとの唇を触ったりとか、首筋の匂いを嗅がれたりとか。あと、なにかにつけて交換条件として、私のことを触りたがります。ああ、あと、ひとのことをじっと見つめているかと思ったら、言葉にするのもおぞましいような想像を脳内でしているとか自己申告してくるんで、気持ち悪いです」


 こんな話を、今まで誰にもできていなかったからなのか、一度話し始めると止まらなかった。出島の変態行為を逐一思い出しながら話したので、途中から顔がしかめ面になってしまった。話し終えても綾乃からは何の反応もなく、高速道路を走っているため外の景色も美しくなく、気まずい空気に耐えきれず、うららは両親へのメールを簡単に送信した。


 「うららちゃん」

 「は、はい!」


 綾乃が、抑えた声音で呼びかける。もともとセクシーな彼女が、低い声を出すと、余計に色っぽかった。どぎまぎしながら、隣の綾乃を見る。目元は、相変わらずサングラスで隠れていたけれど、口元はゆるやかに微笑んでいた。


 「うららちゃんは、恋愛ってしたことある? 好きなひととか、今までにいた?」

 「あんまり、経験ないんです……」

 「ひとを好きになるって、どういう気持ちだと思う?」

 「どういう? うーん……。なんだろう、ほわほわ〜ってあったかくなるような気持ち、ですか? 一緒にいると、幸せーみたいな」

 「そういう気持ちになったひと、これまでにいる?」

 「いや、あんまり……」


 言っていて自分でも悲しくなったが、事実なのだから仕方がない。やはり自分は冷血人間なのだろうか、とうららは考えた。


 「浩平は、うららちゃんに付き合おうとか、言ってくるの?」

 「付き合おうとは言われたことはないです。でも、私が、出島さんがどれだけ私を好きかって理解するまで、納得してくれるまで好きだって言い続けますって言われてます。そして、困っています」

 「どうして困るのかしら」


 料金所が見えてきた。走っている方角が違うのだろう、西日は真正面にはなくて、うららはサンバイザーを上げて、広がった視界を楽しむ。ETCを搭載しているので、料金所もすぐに通り過ぎた。一般道路に向かう下り坂は、ゆるやかにカーブを繰り返している。


 「息が、できないような気持ちになるんです」

 「苦しいってこと?」

 「なんていうか、自分で自分をコントロールできないような、そういう気持ちになるから……。出島さんには、振り回されてばっかりです。そういうの、嫌なのに」


 最後は、ただの愚痴だ。しかし、綾乃は軽く息を漏らして、左手でうららの頭を撫でた。細くて長い指の先は、きれいに塗られたマニキュアがあって、その色はシャープなのにその仕草はどこまでもソフトだった。


 「着いたわよ。といっても、まだ車を停めないといけないけどね」


 背の高いビルだった。何階まであるのか、一見しただけでは分からない。銀色に輝くフレームには、NKCの文字があり、入り口と思われる自動ドアの中には、かすかに受付らしき台が見えた。ビルの周りを、堀のように小さな人工の小川が流れている。幹の細い木が立ち並び、その下に、木製のベンチが数台置かれていた。


 「なんの会社なんですか?」

 「あれ? 聞いていない? 浩平から」

 「あんまり、仕事の話はしてくれないので」


 会ったら、いつも出島はうららの話を聞きたがる。面白くもないだろう、高校生活を根ほり葉ほり聞いては、嬉しそうに頷く。そして最後は、お決まりの「はあ。いつか、うららさんの高校生活を拝見したいです。でなかったら、超高性能小型カメラを校内のあちこちに設置して、うららさんの生活を盗み見したいです」という犯罪すれすれの発言に落ち着くのが常だった。


 「地球環境に優しい、特に汚染水を改善させるようなもの全般を作ったり紹介したり、といったところかしら。あとは、水をベースにした、オーガニックのサプリメントとか、化粧品なんかも作ってるわ」

 「へえ……」


 なるほど、だから大きな河が流れているうららの村を選んでいたのか。たしかに、龍神を祀っていることもあって、村全体が水の扱いには気をつけているように思う。大事に扱うというか。そういうところを、出島は学んでいるのかもしれない。


 正面玄関とは違う面に設置された、駐車場への入り口を通り、車は地下に進む。一台分だけ空いた場所に停めると、エンジンを切った。綾乃が降りるので、うららもシートベルトを外してわたわたしながら降りる。乗ったときと比べると、本を鞄に入れてしまっていたので身軽だった。綾乃は、ワゴン車の後ろから出したらしい白衣を着用していた。


 鍵についたボタンを押して車の施錠をすると、綾乃はピンヒールを小気味良く響かせながらエレベーターのサインの方へと歩いていく。エレベーターには上と下のボタンの他に、鍵穴があった。そこに、白衣のポケットから出した鍵を差し込むと、右に九十度回転させてから、下向きのボタンを押した。


 エレベーターの中は天井と奥側が鏡になっていて、まるでホテルみたいだ。ここでも、綾乃は先ほどとは違う鍵を鍵穴に差し込んで、地下五階のボタンを押した。


 下降していく箱の中で、綾乃は目を伏せながら、首だけでうららを振り返ると、


 「うららちゃん。浩平を、よろしくね」

 「どういう意味ですか?」


 問いには答えてもらえず、エレベーターの扉が開く。そこは、真っ白な空間だった。壁も天井も床も、すべてが白い。そこには自然的なものは一切なく、綾乃の車と同じ、かすかな消毒薬の匂いがした。エレベーターを降りると、廊下が左右に広がっている。迷いのない足取りで綾乃が左に曲がり、T字路になっているところをまた左に曲がった。両側にドアが並ぶ。各ドアには、透明なプレートに白い文字で番号が書かれたものがドアの隣、壁に設置されていた。人気はなく、いくつものドアの前を通り過ぎても、誰にも会わなかったし、ドアの向こうに人がいるのかも分からなかった。


 そのうちに、廊下がまた左に折れる。右側には何もなく、左側にだけ二つほど部屋があった。そして、大きな乳白色をした扉が現れる。扉は二枚あって、右の壁に、小さな鍵穴とボタンがあった。そこへ鍵を差し、ボタンに手をかけて、綾乃がうららに頷きかける。


 「ここよ」

 「この中ですか?」

 「そう」

 「分かりました」


 そういえば、結局、出島の身に起こった大変なことというのを説明してもらっていない。急にそれに思い当たり、うららの心拍数が警鐘を鳴らし始めた。


 ボタンが押され、扉がゆっくりと左右に開く。中は、外と同じく真っ白で、天井がものすごく高かった。何もない部屋。うららから見て真正面に、ガラスの窓のようなものが上方に見えるが、そこに何があるのかは分からなかった。


 そして、そのだだっ広い部屋の中に、出島がいた。天井からぶら下がったポールに、鎖がつけられていて、それが出島の両手首につけられた金属製の輪っかにつながっている。ばんざいをするような姿勢で、でも手首から先はだらんと垂れて、膝立ちして頭を垂れている。


 「出島さん!?」


 たしかに、大変なことになっている。頭のどこかでそう冷静に分析しつつ、うららは息を呑んだ。


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