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そのニュースを聞いたのは、昼休みのことだった。
「案の定、人気出てきたみたいね」
卵焼きを頬張りながら、サナが訳知り顔で言い、玲子も神妙に頷いてみせる。うららだけが、二人の会話が何を意味しているのかが分からず、プチトマトを黙って口に放り込んだ。
「誰のこと?って聞かないの? うらら」
卵焼きを飲み込んでから、サナが沈黙を守っていたうららに尋ねた。どうして誰のことを話しているのか知らないのが分かったんだろうと思いつつも、うららは片手を顔の前にやる。まだ咀嚼中なので話せませんという意思表示だ。食べるのが異様に速い玲子は、すでに弁当を仕舞い始めていた。
「誰の話か分かったって、別に私には関係ないじゃない?」
「甘い!」
「甘いな」
やっと口を開けば、立て板に水をかけ、なおかつその水を全身に浴びたかのような手厳しいツッコミが、二人から矢継ぎ早に繰り出される。うららと違って、サナと玲子は校内でも目立つ。サナには男子の、玲子には女子の、取り巻きに似たようなグループがあって、二人とも表だって嫌がる素振りは見せないでいたが、ランチのときだけは静かにしてほしいとの意見だった。静かでありさえすれば、別にどこでも構わない派のうららは、二人に連れ去られる形でランチの場所を転々としていた。今日は、屋上だ。ご丁寧に、どこから手に入れたのか屋上の鍵まで使って、ひとが入れないように施錠してあった。
誰に気兼ねする必要もないという気持ちからか、サナの毒舌に磨きがかかる。
「あのね、うらら。どうしてうららって、頭は結構良い方なのに、そんなに甘い算段しかしないの?」
「サナちゃん、きついね」
「うららが、この学校で一番優先したいことはなに?」
「穏やかな日常」
即答するうららに、玲子が吹き出す。
「おばあちゃんか」
「うるさいな、だって本当のことなんだもん。私は、目立たないように、決して出しゃばらない釘のように、あれ? 青本さんって、うちのクラスだったっけ? くらいの知名度で、三年間を過ごしていきたいの。そして、そうやってひっそりと暮らす中で、勉強したり本を読んだり、サナちゃんや玲子ちゃんと遊んだりして、楽しく穏やかに暮らしたいの」
「でしょ? だったら、うららはもっと情報戦に参加すべきだわ」
「情報戦?」
今日はサラサラの黒髪をツインテールにしているサナが、ブレザーの制服に身を包んで言うと、どこぞの美少女アニメみたいだ。
「そう。情報戦。いかに、自分にとって有利な状況を、周りに気取られずに作り出せるか。そのためには、周りの動向を把握し、掌握し、その上で戦略的に考えるの。そうしたら、無駄にやっかまれることもなく嫉妬されることもなく、目立ちすぎず目立たなすぎず、うららの理想の平々凡々な日々が手に入るのよ」
「そういうもんなの?」
「そういうもんなの!」
「うらら、サナは美少女の皮を被った男だからな」
「たしかに、サナちゃんは男気があるよね。そういえば、サナちゃんの理想というか、夢は?」
うららの無邪気な問いに、サナは乙女チックなポーズを取って、長い睫毛に縁取られた大きな瞳をキラキラと輝かせながら、うっとりとした声で、
「あたしは、青田買いがしたい」
「青田買い」
サナの言葉をおうむ返ししつつ、女子高生の考える夢にしては個性的なのではと思った。うららの目立たないでひっそりと平凡に穏やかに暮らすことの方が、よほど地に足の着いた夢のように思える。
「ちょっと難しいかもしれないんだけど、高校生のうちに青田買いできそうな相手を見繕って、大学、就活、就職、ゆくゆくは昇進と、色んなステージをプロデュースできたら、最高だよね! リアル育成ゲームみたいな感じ!」
「サナちゃんは、素直だね」
「己の欲望に貪欲、という意味か?」
「玲子! うるさいぞ!」
サナと玲子の、一番好きなところは、無駄に群れようとしないことだ。どこかへ行くのにしたって、うららが積極的に意思表示をしなければ、絶対に無理強いをすることがない。
中学時代の同性の友人は、今にして思えば、友人ではなくただの知人だったとうららは感じる。そういった知人たちは、授業で教室移動があるときは暗黙のルールで一緒に行動しなければならなかったし、体育で早く着替え終わったとしても周りを待って、一緒に校庭に出なくてはいけなかった。トイレも、別に行きたくもないときに何度も一緒に行こうと誘われたし、趣味ではないものを、友達だからという理由で、お揃いで持たされたこともある。
この点に関して、サナと玲子は真反対だった。
きっと、中学時代の知人たちであれば、三人で一緒に図書室に行って、編入生に話しかけてみようという流れになったと思う。放課後になると、サナは玲子とうららの机に近寄り、軍隊風に片手を頭にかざす挨拶をしてみせると、茶目っ気たっぷりにウインクをよこした。
「幸運を祈っててくれたまえ、諸君! じゃ、また明日」
祈っててくれと言った割には、返答も反応も待たずに、さっさと鞄を肩にかけて教室を去ってしまう。うららと玲子は顔を見合わせ、互いに苦笑した。
「私も、今日は図書室に本を返しにいかなくてはいけないんだけど」
玲子が肩をすくめて、鞄から数冊、本を出してみせる。ビニールで防水コーティングされた本には、校章に学校名、そしてバーコードのついたシールが貼ってある。
「私も……」
鞄から、同じく数冊出してみせると、玲子が堪えきれないといった風に吹き出した。
「嫌がるだろうなあ、サナ」
「ね。本当に用事があるから行くだけなのに、サナちゃんのことだから、私たちがサナちゃんの邪魔をしに来たとか思いそうだもんね」
「じゃあ、いっそのこと邪魔してやるか」
「玲子ちゃん、ダメだよー」
「はは、冗談だよ」
言いつつ、うららと玲子は本を片手に、教室をあとにした。
図書室のカウンターで返却を終えると、玲子もうららも、すっと別行動を始める。本好きという点では似ている二人だったが、読むジャンルなどはほとんど被らない。必然的に、行きたい本棚が違うため、一緒に図書室内を回ることはあまりなかった。
図書室と呼ぶには広いその部屋は、校舎の地下一階にある。若草色の絨毯に、明るい木の本棚が並ぶ。部屋の真ん中には、ガラス張りの中庭があって、そこからは自然光がしっかりと降り注ぐため、その周りにあるテーブルで自習をする生徒が多い。
ゲートを通ってすぐ左が、カウンター。そこから見て正面が中庭、右側が小説や詩、それから世界史や海外の美術関連。左側は、日本史やアジアに関わるものが置いてある。
最近、フランスの詩人に傾倒している玲子は右へ行ってしまった。うららにとっては好都合だ。
日本、と区分された本棚を、ゆっくりと見ていく。探しているのは、妖怪関連の本か、河童に関する本。出島の言い分を、一応信じてみるとは言ったものの、半信半疑であることは否めない。ただ、出島がこの件に関して嘘をつくメリットもないだろうと思ったので、独自に調べてみようと思ったのだ。その上で、疑問点があれば出島に問いただせばいい。
日本妖怪辞典、という本を見つけた。ぱらぱらとめくると、河童の項目には数ページ使われていて、資料として使えそうだ。本棚の一番上の段に、河童ーその生態と歴史ーという本を見つけて、うららは小躍りしたい気持ちだった。手を伸ばすが、棚が上の方にあって届かない。日本妖怪辞典を近くの本の上に置いておいて、もう一度、全身を伸ばしてみたが、指がかする程度でつかめない。
たしか、こういうときのために移動式の脚立がどこかにあったはずだ。それを取りに行こうかと思ったとき、ふと、うららの背後に人影ができた。背中から覆い被さるようにして立ったそのひとは、うららの中指が触れていたその本を抜き取り、差し出してくれた。
「はい。この本で良かった?」
「あ、はい。ありがとうございます」
受け取って、そのひとを見上げる。制服を着ているから、同じ高校の学生だとは分かった。
不思議な瞳の色をした男子だった。見た瞬間は焦げ茶なのだが、よく見ると深緑の色をしている。少し切れ長の涼やかな目元に、細い鼻梁。唇も細く薄いが、まるで紅でもひいたかのように赤い。全体的に寒色というか、やや冷淡な印象を与える。
「変わった本を読むんだね」
そう話しかけられて、うららは赤面した。だから、誰にもこんな本を読んでいるなんて知られたくなかったのに。
「ちょっと、興味があって」
「へえ。河童に? それは、ますます変わってる」
なんて答えればいいのか分からず、うららは河童の本を両手で抱えて、気まずさにうつむいた。頭上から、軽やかな笑い声が聞こえてくる。
「ごめんごめん。ちょっと意地悪だったね」
冷たい顔をしているが、笑うと途端に人なつこくなる。片頬にだけ、かすかなえくぼができる。男子は、もう一度、ごめんねと謝った。
「いえ、こちらこそ、本を取ってくれてありがとうございました」
「どういたしまして。ねえ。君、何年生?」
「一年です」
「あ、やっぱり。じゃあ、敬語の必要ないよ。僕、君と同学年だから」
「え?」
「といっても、厳密には君の方が先輩かな?」
顔を少しだけ傾げて、うららの反応を見るように男子が口を閉じた。同学年だけど、顔を見たことがない。うららの方が、先輩。与えられた情報を組み合わせて、うららは一つの可能性にいきつくが、確信に至るまでではない。
「編入してきたんだ、ついこの間」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「ちょうど、編入生が来たって話を聞いたから」
ということは、彼が、サナが探している男子なのだ。そう思って、うららは改めて男子をまじまじと見つめた。たしかにメンクイのサナが好きそうな顔立ちではあるが、どこか人間離れしているというか、体温の低い印象を受ける。同じ整った容姿でも、出島は彫刻のようで、目の前に立つ編入生は、アンドロイドのようだった。
「辻埜井馨」
すっと手を出される。握手を求められているのだと、半瞬遅れて気付いた。本を片手に持ち替えて、その白魚のような色素の薄い手を握った。
「青本うららです」
「これから仲良くしてね、先輩」
からかうように言って、次の瞬間には、うららの脇を通り過ぎていた。辻埜井の後ろ姿を、なんとなく見つめていたら、今度は背後から抱きつくひとがある。
「うらら、見っけ!」
「サナちゃん!」
「なになに? 誰のこと見てたの?」
うららの腰に抱きついたまま、視線の先にある辻埜井の後ろ姿を確認した途端、サナが獲物を捕らえた鷹の俊敏さでそれが誰なのかを理解した。
「編入生じゃん」
「あ、うん」
「喋った?」
「うん。本、取ってくれたから」
「へえ。なるほど。そういうジェスチャーができる男子か……。名前とか、聞いた?」
「うん、名前だけ。辻埜井馨くんっていうんだって」
「でかしたぞ、うらら」
背中を叩いて、サナがにんまり笑う。後ろ手にそれをさすりながら、うららはため息をついた。
「サナちゃんって、あれだよね。美少女の皮を被った男というよりかは、美少女の皮をかぶったおっさんみたいなとき、あるよね」
「何とでもおっしゃい」
鼻の頭に皺を寄せて、サナが舌を出す。彼女にはばれないように、そっと二冊の本を手にし、タイトルを自分の方に向けた。サナにどんな本を読んでいるのかが知られなくて、本当に良かった。
そそくさとサナに別れを告げ、本を無事借りると、うららは図書室を出る。中庭近くのテーブルに辻埜井が座っているのが見えたが、本に没頭しているようだったので、うららも声をかけなかった。本好きなのは、本当らしい。
学校を出て、駅に向かって歩きながら、ふと今朝の出島との会話を思い出した。なにか変わったことや変化があれば連絡してほしい、と不安げに言っていた出島の顔を思い起こし、携帯に手を伸ばすが、途中でやめてしまう。
連絡をして、なにを言おうというのか。編入生が来ました? サナちゃんが、編入生を狙っています? どちらにせよ、返事はああそうですかだろう。少なくとも、そんな内容のメールがやってきたら、うらら自身はそう思う。
そういえば図書室の本を手にしたままだったと、歩きながら、鞄を開けてそこへ入れようとした。目の前に、マットな灰色をしたワゴン車が停まっていることに気付いたのは、そのときだった。




