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雨もしたたる良い河童  作者: 卯ノ花実華子
第三章 夏休みは猫を被って
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14

 河童の力の強さにもよるが、洽雫は奪うことも与えることもできる。力の強さは、洽雫が入る器の大きさと同じようなもので、器が大きければ大きいほど、洽雫をたくさん保有することができる。つまり、生命維持活動以外にも洽雫を使用することができるので、賢介のように目くらましの膜を張ったり、今の出島のように洽雫を必要としている人間などにそれを譲渡することができる。


 譲渡と搾取は、汲汪沁(きゅうおうしん)と呼ばれ、それぞれ同じ方法で可能だ。人間の呼ぶキスと同じ行為とする河童もいれば、厳密には違うとする河童もいる。出島は、明らかに後者だった。キスは感情でするもの。汲汪沁は、食事と同じものだ。食事を欲することができても、食事を好きになることはあっても、食事そのものを愛することはできない。


 だから、太田の口から、洽雫を渡しても、これはキスではない、と思っていた。


 物心つくまでは、キスなんて行為があるなんて知らなかったし、キスのことを知ってからは汲汪沁のことをキスだとか、キスに似ているだなんて思ったことはない。例外は、たったの二回。


 無意識に洽雫を取り戻そうと舌を絡めてくる太田の好きにさせてやりながら、出島はぼんやりと例外の二回のことを思い起こしていた。特に、二回目を。


 あの日、自分でも理解しきれない言動を取ってしまったせいで、計画が少し崩れた。もっとスマートにうららのことを引き留めるはずだったのに、うっかり炎天下の中で話をすることになってしまって、頭の皿を必要以上に太陽光にさらした。失態だ。ただ、うららの方から汲汪沁を許してくれたのは、非常に嬉しい誤算だった。あのときの、うららの一挙一動をありありと覚えている。動揺して硬くなった体が、徐々にほぐされていく様は、出島にえも言われん快感を与えてくれた。あれ以上汲汪沁を続ければ、うららの体調が悪くなるだろうと思って、沈殿していく意志を慌てて底からすくい上げたから、かろうじて己を保てたが、正直なところ、次は自分を律せる自信がない。


 「ん……」


 ようやく、太田の顔に血の色が戻って来ると、彼女はうっすらと目を開けた。無表情に太田を見下ろしたままの出島に、太田は夢から覚めた子供の顔をする。スマイルは0円だ。にこりと微笑んで、声をかけた。


 「大丈夫ですか?」

 「あれ? あたし、なんで、あれ……?」


 記憶が混乱している。困惑の波にも、出島の腕にしがみついていれば攫われることはないと、太田が爪に力を込める。水野をお姫様抱っこした賢介が歩み寄り、少しだけ屈んで、太田に笑いかけた。


 「おはよ、太田さん」

 「え? 黒本さん? え? な、なんで? え? そのひと、水野さんですか?」

 「そう。ちょっと眠ってるの」


 何でもないように、賢介が答える。太田は、賢介の笑顔に、自分の安心を探し、そして見つける。黒本さんが落ち着いているんだから、きっと今はそう非常時なわけじゃない。つくづく、女性の扱いが上手い。内心舌を巻きながら、出島はせいぜい柔和な笑顔を保ったままでいた。


 「太田さん、今日は水野さんと一緒にごはんだったんだよね?」

 「そうです……。水野さんが、誘ってくれて。それで」

 「うん、水野さんから聞いてるよ。でも、途中で太田さんが、レストランからいなくなっちゃったんだって」

 「え?」

 「覚えてる?」

 「…………」


 覚えていないらしい。せわしなく視線を動かしながら、太田は一所懸命に記憶を探っているようだった。全部忘れているなんてことは、ないはずだ。欠片でもかまわない。何か、ひとつでもヒントがあれば、それでいい。


 素早く、賢介と出島は視線のみで会話を交わす。頭にやった手で、太田の首筋をさする。もう片方の手は、太田の手を握る。優しく、力強く、安心感を与えつつ、それ以上の感情を起こさせないように。太田の目が、出島の顔に焦点を合わせる。汲汪沁のことは覚えていないはずだが、恋人のような距離にある出島の姿に、頬を赤らめた。


 「ねえ、太田さん。思い出せること全部、俺に話してくれる?」

 賢介が甘くとろける声音で言うと、太田はコクコクと何度も小さく頷いた。


 「お願いします」

 出島が頭を下げて、目を伏せる。太田の視線が、出島と賢介の間を何往復かしていた。そして、細く長い息を吐ききって、瞬きを繰り返す。ややってから、ぽつりぽつりと話し始めた。


 「水野さんが、お化粧室に立たれて、それで、ひとりで待っていたんです。そしたら、男の人、ううん、男の子? 大人びた格好はしてましたけど、多分、まだ十代のこです。そのこが、あたしの上司が外で待ってるよって言ってきたんです。黒本さんのこと?って聞いたら、そうだよって言うから。あたし、もしかして仕事でミスを犯したのかなとか、やり忘れた仕事があったのかなって思って、ついて行きました。まだ水野さんが戻ってなかったから、バッグを念のために持って」

 「じゃあ、そのひとが直接、あなたの上司の名前を口にしたわけではないんですね?」

 「あ、そういえば、そうです。そのこは、誰って言わなかったと思います」

 「それで? どこに、そのこは太田さんのことを連れていっちゃったの?」

 「どこだったか……。外だったのは、覚えてるんですけど。なんか、何度も道を曲がられて、だんだん方向がわからなくなって。本当に黒本さんは、こんなところにいるんですか?って聞いたら……」


 記憶の道筋をたどるようにしていた太田が、怯えたように言葉を切った。血色の良くなったはずの顔を青くして、ごくりと唾を飲み込む。


 「誰かに、ひどいことをされた?」


 泣いている赤ん坊をあやすように、賢介が囁く。思い出された恐怖は、涙となって太田の瞳から零れでようとする。


 「こ、ここ、です。ここで、そっちの、行き止まりになっているところに、そのこが立っていて。背中を向けていました。そしたら、急に背後から誰かが、あたしの腕を取って、それで動けなくなって。前にいるこが振り向いて……。怖くて、声を出そうとしたんですけど……。その後が、どうしても思い出せないんです」

 「うん、すごく怖い思いをしたからね。思い出せなくても当然だし、太田さんは充分、たくさん俺に教えてくれたよ。ありがとう。辛いことをさせてしまって、悪かったね」

 「あ、いえ……」


 賢介は、昔からこういうのが得意だった。大丈夫だよ、と安心させながらお願い事をする。少し無理をして聞いてくれる相手には、ありがとう、悪かったねと優しく微笑みかける。自分の声が、相手にとって魅力的に聞こえていることを知りながら、それを効果的に使っていく。


 現に、

 「今、水野さんを抱っこしてるから、太田さんに触れないのが残念だよ。両手が空いていたら、大丈夫だよって抱きしめてあげられるのにね」

と甘い言葉を吐く賢介に、太田は見惚れている。


 自分もまったく同じような策略を使うくせに、それは棚の上どころか天井を突き破る勢いで投げつけて、出島は呆れ返った目で賢介を盗み見た。


 名残惜しそうな声音とは裏腹に、すっくと迷いなく立ち上がると、賢介は後方に体を向き直す。


 「遅いよ、女史」

 「うるさいわね。来てあげただけでも、感謝なさい」


 迫力ある美人、という言葉がぴったりの女性が、いつのまにか路地裏に立っていた。大きく巻かれた長い髪に、かき上げた前髪。シルクのスキッパーシャツに、紺色のタイトスカート。紺のピンヒールは、裏地が真っ赤で歩くたびに硬質の音を立てながら、ちらちらと見え隠れする赤が闇に浮かび上がる。その上に無造作に羽織った白衣の裾をはためかせながら、女性は出島と賢介に近づいてきた。


 白衣のポケットに両手を突っ込んで、女性はその肉感的な唇から呪詛を吐く。


 「毎度毎度、呼び出されるこっちの身にもなりなさいよ」

 「女史。今日も綺麗だね。でも、愚痴ばっかり言ってると、皺ができちゃうよ、痛ててててっ!」


 賢介のつま先をぐりぐりとピンヒールで抉りながら、女性はその恨みがましい目を、今度は出島に向けた。ああはなるまいと、出島は愛想笑いを浮かべる。


 「ご苦労様です、女史」

 「嘘くさい」

 「すみません」


 どうやら、今日はいつもよりも輪をかけて機嫌が悪い。そしてふと、彼女がいつもと違う色の口紅を塗っていることに気がついた。


 「ここへは、どうやって?」

 「車でよ」

 「送ってもらったの?」

 「そうだけど? 悪い?」


 噛みつくような言い方に、出島と賢介は、彼女が誰の車に乗っていたのか、ここに来る前に誰と一緒にいたのかを悟る。機嫌も、悪くなるはずだ。


 「申し訳ありませんでした」

 「ごめんね、女史」


 深々と頭を垂れる男性二人に、ようやく、女性は気持ちの切り替えができたらしい。さきほどとは打って変わって、サバサバとした口調でこれまでの話を聞き始める。出島と賢介が交互に、水野と太田から得た情報を整理して聞かせると、女性は至極淡々と、

 「じゃあ、あななたちができることは、ここにはもうないわね」

と言った。


 ひとり、状況が飲み込めずに目をぱちくりさせている太田に、女性が婉然と微笑みかける。ポケットから小さな小瓶を取り出すと、太田に差し出した。


 「はじめまして、太田さん。科学部の露井(ろい)綾乃と申します。社員の健康を気遣うのが、私の仕事です。これ、飲んでください。体力回復のお薬ですから」


 社員の健康を気遣う? 女史が? 嘘だろ?

 よくもそんなに嘘くさいことが、いけしゃあしゃあと言えるな。さすが、女史。


 綾乃にはバレないように、目配せだけで意見交換をしていたはずだが、太田が小瓶を受け取り口にしたのを確認すると、もう片方のポケットから取り出した錠剤の入った瓶を二人の前でチラつかせながら、これ見よがしに笑った。


 「そう。賢介も、浩平も、これがいらないのね。残念だわ。ここで幼馴染二人が、下らない失言で命を落とすなんて。本当に、残念」

 「すみませんでした、女史」

 「僕たちが悪かったです。それ、ください」

 「ったく。そもそも、あななたちは、自分の洽雫を使いすぎ! ちょっとは自重しなさいよね。もういい年してるんだから」


 二人の口に、乱暴に錠剤を放り込み、水もなしに二人はそれを飲み込む。叱られながらも、出島はぐったりと意識を失った太田を抱えて、立ち上がる。太田の手から小瓶を取り、綾乃が脈を取った。


 「さて、と。彼女の記憶は、こちらで改竄(かいざん)しておくわ」

 「お願いします」


 頭を下げる出島の背中をはたいて、綾乃はきびすを返して颯爽と歩き始める。こっちよ、と車の方へと移動する彼女の後ろを、太田を抱えた出島と、水野を抱えた賢介がついていった。


 路地裏から車までの道すがらは、決して人通りがないわけではなかったが、すでに膜が覆われているらしい。誰の目にも留まらないまま、五人は綾乃の車へと移動できた。マットな灰色をしたワゴン車は、科学部御用達の車だ。運転席に人影が見えるが、そちらにはあえて出島も賢介も近づかず、直接、後ろのスライドドアを開けた。初めに水野を、次に太田を後部座席に乗せて、シートベルトをかけてやる。フロントミラーでこちらを確認している運転手の顔が見えたが、誰も何も言わなかった。


 「じゃ、私はこのまま会社の方へ戻るから。明日までには間に合わせるわ。太田さんは、一人暮らしだったのよね?」

 「その辺の処理は、俺がやるから安心して」

 「やっぱり、バイトに人間を雇うなんて無理があったんじゃないの?」

 「それは、今更論でしょ、女史。雇用法の変革とか、色々あったって知ってるでしょ?」

 「それに、いつかは、これが当たり前になっていくはずです」


 肩をすくめて、煙草をくわえる賢介に、大真面目な顔で言い切る出島を見やって、綾乃は盛大に息を吐いた。


 「本当に、手間がかかるわ、あなたたちは」

 「女史、これを」


 太田の口に入っていた紙切れを、広げて見せてみると、綾乃の顔色が変わる。首をぐるりと回して、片手で肩を揉みながら、


 「本当に、本当に、手間がかかるわ」


 助手席の窓が、内側からノックされる。慌てて、窓越しに「今行きます」と答えて、綾乃は、えらく大きく育った幼馴染に向き直り、両手を広げて二人の首筋を同時に抱きしめる。


 「時間がない。急がないと。でも、危ないことだけはしないで。私も、急いで頑張るから」

 「女史も、頑張りすぎて倒れないようにね」

 「女史も、ちゃんと休息取ってくださいね」


 賢介と出島が、笑顔でそう言うと、綾乃の頬に音を立ててキスをした。小さな頃から変わらない、三人の儀式。誰かが頑張るんじゃなくて、みんなで頑張る。それぞれに、自分ができることを。


 走り去る車のライトが完全に視界から消えるまで、出島と賢介は、言葉を交わすことなく、これからのことを考えていた。


これで3章はおしまいです。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

次も頑張ります!

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