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雨もしたたる良い河童  作者: 卯ノ花実華子
第三章 夏休みは猫を被って
35/56

13

 パンツのポケットから、けたたましく音を出し続ける空気の読めない携帯を取り出して、いっそのこと二つに折ってやろうかと出島は逡巡した。うららに、伝えたいことがあったのに。今なら、少しだけ、片鱗だけでも話せるかと感じたのに。その貴重なタイミングは、永久に失われたように思う。


 だからこそ、出島の決意を粉々に打ち砕いてしまった携帯のメール着信音は、忌々しいものだった。しかし、届いたメール内容を一瞥して、先ほどとは別の意味での舌打ちを堪えることになる。


 携帯の画面は、出島を取り囲む三人の少女たちには見えなかったはずだし、メール内容を確認した際の衝撃も、うまく隠し通せたと思う。なのに、出島の真正面にいるうららだけは、彼のことを生真面目に見つめていた。あたかも、彼女には今のメールの深刻さが伝わったかのように。


 「すみません、うららさん、天野さん、稲川さん」


 立ち上がって、少女たちを見下ろせば、いかに彼女たちがまだ幼いかが分かる。柔和な微笑みの形に口元を作って、瞳も少しだけ目尻を下げる。携帯をパンツのポケットから胸ポケットに入れ替えて、コミカルに肩をすくめてみせた。手のひらを広げ、手品師がマジックの直前にそうするように、何もやましいところはありませんとオーバーに伝える。


 「会社からです。急ぎの仕事だとかで。今から出なくてはいけなくなっちゃいました」

 「でも、出島さん、今日はもう会社には戻らなくてもいいって……」


 出島との会話内容をきちんと覚えていてくれたうららに、鉄砲水みたいな愛情がせり上がるが、出島はそれを隠して首を振った。


 「こういうものですよ、会社員なんて。うららさんと、もっとお話していたかったんですが、本当に残念です。多分、今晩は会社に泊まることになるでしょうから、戸締りをお願いしてもよろしいですか?」

 「それは、いいですけど」


 歯切れ悪く承諾するうららの声には、どこか疑心が潜む。彼女が鈍感? そんなわけはない。うららの友人たちは、たしかにうららのことを大切にしているようだが、やはり人を見る目が甘い。彼女は、幾重にもある意識の層に包まれているだけだ。


 「ありがとうございます」


 ごまかすためだけに、わざと大きな音を立てて、うららの手を取り、甲にキスをした。サナが小さく悲鳴を上げて、口を両手で覆っている。玲子は、器用に片眉だけを上げて、出島に賞賛の視線を送った。うららはといえば、出島の思惑通り、顔を真っ赤にして口をパクパクさせている。彼女が何かを言い出す前に、さっさと出島は部屋を後にする。そして、一度も振り返らずに階段を静かに駆け下りて、靴をひっかけ、玄関を飛び出した。


 帰ってきたときには降り出していた雨は未だ止まず、青本家の玄関外の道路も真っ黒に濡れそぼっていた。傘もささずに、そこを小走りに降りていき、住宅用道路から二車線のバスが通る道へと出る。そこに、一台の車が停まっていた。ライトは鈍く辺りの闇を照らし、ライトから漏れる光の線上には雨の雫が映し出される。車に近づくと、助手席のドアを開けて、体を滑り込ませた。


 「状況は?」


 挨拶もそこそこに、出島は運転席で煙草を加えている賢介に問う。車内の灰皿に煙草の灰を落とすと、賢介は深いため息をついた。


 「メールしてから、あんまり変わってない。とりあえず、目撃情報があったから、至急現場に向かうところ」

 「被害者は?」

 「広報部のバイトのこ。もちろん、河童じゃないよ」

 「人間を襲ったのか」

 「そういうことになるね」

 「被害者の容態は?」

 「それを今から確かめに行く。飛ばすぞ」


 最後の煙草を味わうと、灰皿に潰して消した。真っ暗な車内で、唯一、光を放っていた火が消えると、後には苦い煙だけが漂う。ハザードランプを消し、ギアを入れると、宣言通り車は滑るように走り出した。


 それ以上のアップデートはないのだろう。賢介は運転中黙ったままで、出島の方も口を噤んでじっと目を閉じていた。賢介が洽雫を使って、車のタイヤと道路の摩擦をコントロールし、雨の中でもスムーズに走れるようにしていることも、気が付いていたが無駄遣いだと指摘しなかった。それはつまり、今の状況がどれだけ緊迫しているかを雄弁に物語っており、出島とて、なるたけ早く現場に到着したかったからだ。


 現場は、うららの通っている高校のある町の、繁華街の近くだった。これだけ人通りの多いところで襲撃事件を起こしたのかと思うと、相手に対するどす黒い怒りが湧いてくるが、今はそれよりも被害者の方が心配だった。人間は、脆い。雨は、大分弱まってきていて、傘の必要はなさそうだった。場所は、繁華街よりも一本、奥に入った暗い路地。


 「黒本さん!」


 被害者と思われる女性の横に、出島も見かけたことのある広報部の女性が寄り添っていた。たしか、名前は水野。彼女は、賢介の姿を見つけるやいなや、安堵のために涙を零し始める。


 「ごめんね、遅くなって」

 「わ、わたしこそ、すいません。どうしていいか、わからなくて」

 「俺に連絡してくれたじゃない。それで、充分」


 はらはらと涙を流す水野の肩に手を置いて、賢介が優しい言葉をかける。こういう、人身掌握の術は賢介には敵わない。案の定、彼女は賢介の瞳を見上げると、弱々しくも笑みを浮かべた。


 「で? 太田さんの状態は?」

 「はい。洽雫(こうだ)ではなく、浚雫(しゅんだ)を著しく奪われています。あちら側の仕業です」

 「症状は?」

 「貧血に、意識混濁。それに、心拍が弱まってきています」

 「危ないな」


 賢介が首だけ振り返って、出島に頷く。水野の世話を賢介に任せ、道に横たわる女性のそばにしゃがみ込んで、その手首を取った。たしかに、脈拍が弱い。浚雫は、洽雫よりも、取られるとダメージが大きい。衣服が相当濡れているところを見ると、雨が強く降っていたときから、ここにいたらしい。体温が低下しているのも、気になった。


 「被害状況はわかりました。襲撃が起こった際のことを、お話いただけますか?」

 「はい」


 それは、ほんの数時間前だったという。アルバイトで入っていた太田を、水野の方から夕食に誘ったのだそうだ。今日は、仕事内容にやっと慣れてこられたと太田が喜んでいたそうで、ちょうど金曜日だったこともあって、お祝いをしてあげようと思ったらしい。太田の最寄駅との連結がいいこの市を選び、インターネットで見つけたレストランを予約した。それが、終業直後。それから、レストランへ向かい、デザートの終わりのコーヒーを飲んでいたときだった。


 化粧室に立った水野がテーブルに戻ってくると、太田の姿がなかった。かばんもなかったため、彼女も化粧室に行ったのだろう、どこかで入れ違いになったのかと思い、席について待っていた。しかし、太田の戻る気配がないため、念のため、ウェイターに尋ねたところ、太田はレストランを出たという。すぐに携帯で連絡をしてみたが、繋がらない。仕方なく、水野が二人分の料金を支払ってレストランを出た。太田は真面目な性格で、義理堅い。そんな彼女が、なんらかの非常事態だったとはいえ、料金すら支払わずに去っていくのは妙だった。


 「そのまま、駅へ向かったんですけど、なんだか、嫌な予感がして……。もう一度、ダメもとでかけてみたんです、太田さんに。そしたら、本当に偶然なんですけど、携帯の鳴る音がして。太田さん、職場でも携帯をマナーモードにするのを、よく忘れる人だったから、その着信音に聞き覚えがあったんです。それで、その音の方を向いてみたら、ここに太田さんがぐったりしてて」


 目を閉じたまま、浅い呼吸を繰り返している太田を指差し、水野は顔を覆って泣きじゃくる。嗚咽で言葉にならないのを、賢介がその体を抱きしめて慰める。


 「大丈夫、もう大丈夫だ。それで? 太田さんは、どういう状況だったの?」

 「そのときには、もう雨脚が強くなってたので、太田さんはびっしょり濡れていて。わたし、駆け寄って太田さんを揺すったんです。目を閉じて、まったく動かなかったから、もしかして死んじゃったのかもしれないって思って。そしたら、太田さんの口が少し開いているのが見えて。なにか、白いものが入ってたから、引っ張ってみたんです」


 これが入っていました、と水野が小さな紙切れを差し出した。それは雨のせいでひどく滲んではいたが、そこに書かれたメッセージははっきりと読めた。


 『しゅく清』


 「わたし、怖くなって、でも、太田さんを放っておけないし、誰に連絡すればいいかもわからなくて。それで、黒本さんのことしか考えられなくて、それで……」

 「うん、それでいい。君は、正しい判断をしたんだ。怖かったのに、よく頑張ったね」


 賢介にもう一度抱きしめられ、頭を撫でられると、水野は震えながらも微笑もうとした。賢介の背中に手を回して、安心しきったように胸の中で目を閉じている水野を見下ろしながら、今さっきまでの優しい声音とはうってかわった冷たい視線を出島の方に送ると、受け取った紙切れを差し出した。


 「……ぷ」

 思わず、笑ってしまう。おそらく、粛清と書きたかったのだろうが、漢字がわからなかったとみえる。非常事態とも言えるこの状況下に、漢字ではなくひらがなで書かれた文字は、不謹慎だが相当面白かった。


 「浩平ちゃん、ずるい。俺だって必死に我慢してるのに」

 そう言う賢介も、口元が引きつっている。


 「ま、こんな低次元なことをするなんて、浚雫の件がなくたって、十中八九、あちら側の仕業だとわかります」

 「宣戦布告的な、あれかな?」

 「さあ? 彼らの考えることは低俗すぎて、理解と予測の範疇を超えます。ただ、言動が著しくチンピラのそれに近いことを鑑みれば、きっとそのつもりなのでしょう」

 「辛辣だねえ、いつにも増して」

 「被害者は、人間ですから」


 紙切れを手にしたまま、太田の方を振り返る。幸い、衣服の乱れはなかったが、早く浚雫を戻してやらなければいけない。


 浚雫と洽雫は、似て異なるものであり、出島や賢介たちが属する水棲種(すいせいしゅ)と呼ばれる河童では、浚雫を人間から出し入れすることはできない。人間は、どちらも尻子玉という俗称をつけているが、その質はまったく違う。洽雫はどちらかというと液体状の精神エネルギー、浚雫は固形状だ。液体であるからこそ、取られた側は自身のエネルギー濃度が薄まったような状態になるが、生命を傷つけるようなことは起こらない。それとは反対に、浚雫は固形状のエネルギーを無理矢理奪う。だからこそ、搾取する側に慎重なコントロール術が求められる。本能が欲する渇きのままに浚雫を奪えば、相手の生命力そのものを減らしてしまい、最悪の場合、死に至らしめる。


 また、洽雫の場合は、搾取され、一時的にエネルギー不足になっても、時間が経過すれば自動的にその量は回復する。しかし、浚雫は一度取られたエネルギーは、外部から補うことでしか回復できない。食事や睡眠などでも回復するが、一番効果的なのは、科学部が作っている擬似洽雫ともいうべき錠剤。賢介が、引越しの際に服用していたもの。それを、たかが人間が手にするのは困難であり、つまり、人間側が浚雫を取られた場合は、相手が加減をしてくれるのを望むしかない。


 水野は、どうやら現場を維持しようと洽雫を消費しながら、ここで待ち続けていたらしい。賢介の到着で気が緩んだのか、腕の中で気を失ってしまった。代わりに今は、賢介が現場一帯を幕で覆って保護している。今は、出島しかいない。


 ぐったりとしたままの太田を抱え起こし、片腕で支える。乱れた髪に、薄く開いた口。近づくと、雨と泥の臭いに混じって、化粧の匂いがした。ふと、脳裏に、湯上りのうららの姿が思い起こされる。上気した頬、しっとりとした肌、完全に乾ききっていない髪。それらを名残惜しくなぞりながら、出島は瞳を閉じる。


 そして、太田の唇に自分のそれを重ねた。


あと1話で3章もおしまい(の予定)です。

次の更新は、月曜の夜か、火曜日の朝か……。

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