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雨もしたたる良い河童  作者: 卯ノ花実華子
第三章 夏休みは猫を被って
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10

 敏捷な動きで周りに誰もいないのを確かめてから、脱衣所のドアを素早く開いて隙間から体を滑り込ませる。できるだけ音を立てないように、なおかつ迅速にドアを閉め、密室に入り込んだのを確認して、うららは片手に盆を持ったまま手刀を顔の前で作った。


 およそ、これからの人生で使うことはないだろうと思われていた、屈辱のフレーズを自らの意思で口にする。


 「出島さん、お願いがあります!」


 ぎゅっと目を瞑ったのは、きっと出島は、こんなうららの姿を見てほくそ笑むのだろうと思ったから。そして、その端正な顔に不釣り合いのいやみな笑顔を見たら、せっかくの決意がもろくも崩れ去って、結局、一番回避したい事態を招くのではないだろうかと危惧したから。出島があれこれ詮索してきても、大人な対応ができるように、出島が承諾してくれるまでは目を閉じたままでいるか、顔を伏せたままにしておこう。そうすれば、きっと自分をもっと楽にコントロールできるはずだ、と考えた末でのことだった。


 しかし、意外にも、耳に飛び込んできたのは、驚いたような出島の声。


 「う、うららさん? なにしてらっしゃるんですか?」

 「なにって、だから、出島さんにお願いがあって……」


 目はうっすら開けて、でも足元だけに視線を送れば、出島の裸足の足が見えた。それから、うららの前で出島が慌ただしく動く音。衣擦れのようなそれに、ふと興味を駆られて、うららは目を開けた状態で顔を上げた。


 視界いっぱいにうつるのは、脱衣所にいる出島の姿。右手の奥には、浴室へのドア。出島の真後ろには、洗濯機。左手の奥には、シンク。左手には、歯ブラシなどが並ぶ棚。そんな、ありふれた光景の中にあって、ひとつだけ非日常的なものがあった。それは嫌が応にも、うららの視線をそちらへ誘導させる。


 帰宅時と同じくらい、雫のしたたる髪は、しかし、あの時とは違って、オールバックになでつけられている。あれだけ似合っていたスーツのジャケットもパンツも、洗濯機の傍にあるカゴの中に入っているのが見られた。シャツと靴下の姿もない。


 うららの目の前に立つ、いつもよりも余裕をなくした表情の出島は、腰のあたりにバスタオルを巻きつけただけの姿で、そこにいた。そのタオルでさえ、きちんと巻かれたというよりかは、慌てて巻きつけただけなのだろうと推測される。上半身や脚はまだ水滴で濡れていて、よく見れば、浴室から湯気が脱衣所へ漏れてきている。浴室で回っている換気扇の音と、その運転を知らせるスイッチについた赤いランプが、今頃になってうららの視界に映った。


 「出島さん、お風呂入ったんですか?」

 「そうですよ、今、上がったばかりです」


 心なしか、出島の声に羞恥と焦燥の色が混じっている。


 「上がったばっかり?」


 手にした情報を繰り返し、脳内で処理する。出島は、濡れ鼠で帰宅した。夕食前にシャワーを浴びると言っていた。その間、うららはサナと玲子と話していた。そして今、階下へやってきたうららの目の前に、タオルを巻きつけた、髪の濡れた出島が立っている。そして、出島は今上がったばかりだと言った。


 つまり、あのタオルの下は……。


 裸?


 うららの脳内がそこへたどり着くと同時に、心臓がものすごい速さでパンピングを始める。押し出された血液が、短距離選手のスピードで身体中を駆け巡る。もし、漫画的表現が人間に可能なのであれば、うららの頭上ではやかんが沸騰し、ピーと無慈悲な音を立てていただろう。


 「あ、わ、わた、私、あの、その、知らなくて」

 「いいですよ。ちょっとびっくりしましたけど」


 頬を朱に染めて、かろうじてそれだけを口にしたうららを、出島は微笑で迎え入れる。かわいそうなくらい動揺してしまっている少女を落ち着かせようと、出島がその肩に手を伸ばした。


 「ひゃ!」


 濡れたこんにゃくを背中に不意打ちで入れられたときと同じ、しゃっくりのような声がうららから漏れる。その途端に、手にしていた盆を落としそうになって、出島は、肩へと伸ばした手でそれをキャッチした。視線はうららから逸らさないまま、盆を洗濯機の上に置く。グラスが三つ並んでいたが、そのうちのどれかが、うららのものだと思うと興奮した。出島の位置からは、洗面台の上にある鏡に映る彼女の姿が見えた。出島を真正面から見ないように顔をそらしているが、その紅潮した頬が、鏡で確認できる。


 「さて」

 「へ!?」


 ちょっと声をかけただけなのに、びくりを体全体を震わせて、うららが床から数センチ飛び上がった。思わず、出島は苦笑してしまう。こんな顔をして、こんな反応をされれば、誰だってからかいたくなるではないか。


 「うららさんの方から、入ってこられたんですよ?」

 「だ、だから、私、知らなくて」

 「知らなかった? なにを?」

 「その、出島さんが、えっと」

 「えーでも、さっき二階でご挨拶したときに、これからシャワーを浴びてきますとお伝えしましたよね」

 「は、はい。聞いてます。覚えてます」

 「そうですよね。だから、わざわざこちらに来られたんですよね? 僕に会いに」

 「そう、です」

 「僕にお願いがあって?」

 「はい……」


 どんどんと声がか弱くなるうららを、骨の軋むまで抱きしめたい衝動を抑えながら、出島は彼女の視線がこちらに向いていないのを良いことに、好きなだけ見つめ回す。少しだけ癖のついた前髪に、鎖骨あたりで揺れる柔らかそうな毛。長めのTシャツに、短パン。どうやら、スカートよりかはパンツ派らしい。しかし、あの丈は短すぎではないだろうか。この格好で、街中をぶらぶらしているところを想像して、一瞬、どす黒い嫉妬に出島の心が支配される。今度、一緒に買い物に行かなくては。


 「で、出島さん?」


 出島が急に口を噤んでしまったのが不安だったのか、おずおずとうららが彼を見上げる。その儚げな肩のライン、怯えたような口元、どこかで出島に不安を解消してくれるのを期待している瞳。


 「で、お願いってなんでしょう?」


 勤めて明るく切り返さなければ、なにをするか、自分でも分からなかった。案の定、出島の笑顔に、うららは安堵したような表情になる。落ち着かせるためか、両手を重ね、それを胸の前に置いて数回、深呼吸をした。


 「サナちゃんと玲子ちゃんのことなんですけど」

 「うららさんのご友人のことですか」

 「はい。あの、なんて言ったらいいのか……」


 小さめのタオルを取りにいく振りをして、あえて、うららから距離を取る。これにも、あからさまにホッとした様子を見せると、うららはしばし頭の中を整理しようと視線をさまよわせていたが、きゅっと口元を引き締める。どうやら、言いたいことが決まったらしい。


 「理由は聞かないでほしいんですけど、とにかく、サナちゃんと玲子ちゃんの前でだけは、夕食のときだけは、私に対して、その、なんていうか、私を好きだとか、そういうのを止めてもらってもいいですか?」

 「それは、冷たく接した方がいいということですか? それとも、猫を被って、愛想よくするだけでいいということですか?」

 「猫を被る……。あ、そんな感じかもしれません。あの、サナちゃんと玲子ちゃんも、出島さんのことをすごい格好良いひとだと思っていて」

 「それは、光栄です。ありがとうございます」


 社交辞令を返すと、うららが一瞬たじろんだ。しかし、背後を振り返り、廊下にも人声がしないことを確認すると、やや切羽詰まった声音で、


 「だから、その。あの、出島さんが、変態でストーカー気質で、すぐに私のことをからかう万年発情河童だってことは分かってます。それが、出島さんの個性というか、性格だってことも、承知しています。でも、サナちゃんと玲子ちゃんたちには、そういうところを見せないでほしいというか、私と出島さんは、あくまでも」

 「僕は居候で、うららさんは、僕の滞在先のお嬢さま、という関係ということですか?」

 「そう、そうです! そういう風に接してほしいというか……。ダメですか?」


 知ってか知らずか、うららは距離を取った出島に数歩、近付いてくる。本人も意識しないうちに、自然に甘えるような目つきになっているのが、いじらしい。


 「別に、仲が悪いように演技してほしいってことじゃないんです。ただ、夕食のときだけでも、友達みたいな感じで接してくれれば、それでいいんです。変な誤解を招かないように……」


 これまでのうららの発言、二階でのうららの友人の言動、それにこの脱衣所までやってきた緊迫感。いつものうららでは考えられない行動。普段の彼女なら、出島がタオル一枚だけしか身につけていないと知れば、たとえ状況がどうであれ、羞恥に顔を染めて逃げ出しそうなものなのに、それをしない。つまり、それほどまでに、うらら自身が焦っているということだろう。


 以上の情報から、うららの魂胆を見抜くのは、さほど難しいことではなかった。想定内といえる。


 「いいですよ」


頷いて、微笑みかければ、うららも顔を輝かせる。出島がタオル一丁なことも忘れて近寄り、あろうことか、うらら本人から出島の両手を取った。まったく邪気のない瞳をキラキラとさせ、下唇を噛んで、両手に力を込めた。


 「ありがとうございます、出島さん! すごい嬉しい。ありがとうございます!」


 あのバス停の日から、早や一ヶ月が経ったが、こんなに屈託のない笑顔を向けられたのは、今が初めてかもしれない。うららの笑顔をまじまじと見つめ、握られた手の感触を堪能しながら、出島は感動に咽び泣きたい気持ちでいっぱいになる。が、目の前にこうも警戒心のないうららがいると、それよりも、もっと他のことを試したくなるのが、自然の成り行きというものだ。


 「こちらこそ。うららさんが、そんなに喜んでくださって、僕も嬉しいです」


 そんな、私が勝手なことを言ってるだけですから、と謙遜しているうららの手を、するりと外して、上から彼女の手を握る。


 「いえいえ。どんな内容でも、うららさんの方からお願いをしてくださったなんて、感激します」


 目をしっかりと合わせて、うららが出島の顔以外を見ないようにしながら、握った手を少しずつ自分の体へ近付ける。慎重に、少しずつ。


 「お礼は、キスでいかがでしょう?」


 最後に、力を込めて引っ張ると、うららは簡単に出島の胸に倒れこんでくる。離れられないように、片手で両手首をつかみ、もう片方の手で腰をしっかりと抱きかかえる。うららの首筋を舌で舐めれば、鼻腔から甘い香りが入ってくる。うっとりと目を閉じながら、舌でさらに首筋を味わい、徐々に顎へ向かって上がっていく。


 「お願いであって、契約じゃないんですからね!」


 体をねじって、出島の抱擁から抜け出すと、うららはドアノブに飛びついた。入ってきたときと同様に、少しだけ開いて、隙間から体を滑り出させると、眦を釣り上げて言い捨てる。


 「そこのお盆! あとで私が台所に持って行くので、置いておいてくださいね!」

 「うららさんのグラスは、どれですか?」

 「右端のですけど」

 「舐めてもいいですか?」

 「ダメに決まってるでしょ、この変態!」


 グラスを手にして、舐めるふりをすれば、顔を真っ赤にしてうららが吠えた。しかも、台所にいる母を気遣って声は抑えて。そのせいで、普段の彼女からは聞けないハスキーな声が出て、出島は満足そうに微笑む。


 どうやら、新たなグラスに入れることにしたのか、足音が台所の方へと向かうのを聞きながら、出島は独りごちた。


 「タダより怖いものはない、って言いますからね、うららさん」


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