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「あれ? 誰か来たよ。あれって、もしかして、居候さん?」
玲子の指摘通り、青本家に向かって小走りに駆け寄る姿が、うららの部屋の窓から見えた。本格的に降り出している雨の中、傘を持っていないそのひとは、玄関の方へと姿を消してしまう。そして、階下からかすかに人の声がし始めた。
窓辺に張り付くようにして下を見ようとしていたサナと玲子は、階下の音を聞くとすぐに、うららの部屋のドアに顔を寄せて耳をそばだてた。
「誰か、階段を上がってくるよ!」
「これはいよいよ、居候さんなんじゃないの?」
興奮した口調で、でもひそひそ声で言い合いながら、二人はじっとそのひとが二階へ到着するのを待った。階段を上がると、廊下がぐるりとある青本家では、二階へ着いてから右へ曲がろうが、左へ曲がろうか、そのうち各部屋に着ける。しかし、距離を考えれば、階段を上がってすぐ右手側にうららの部屋、左手側に両親の寝室があり、うららの部屋の隣に位置する出島の部屋へ行くためには、右に曲がるのが手っ取り早い。
案の定、足音は階段を上りきると、うららの部屋の方へと近づいてきた。
ノックが三回ほどされると、サナと玲子は飛び上がるほど驚き、電光石火の速さでローテーブルの周りに座る。まるで、今までもそうしていたかのように。スパイさながらの真剣さで、二人が無言の頷きとドアを開けても良いのサインを送ってくるのを、心底げんなり見てから、うららは観念した者にしかできない足取りでドアへと向かった。
「はい、どうぞ?」
言いながら、ドアを開ける。
目の前に立っていたのは、完全なる濡れ鼠になった出島の姿だった。足元まで濡れてしまっているからか、いつもは履いているスリッパの姿がない。これまでに見かけた仕事着——白いシャツにノーネクタイ、リネンかコットンのパンツ−−といった出で立ちではなく、グレーのスーツに身を包んでいる出島は、失神しそうになるくらい美しかった。くらりと目まいを起こしかけたものの、ローテーブルの周りで口をぽかんと開けている友人たちを目の当たりにして、瞬時に現実へと引き戻される。できるだけ冷たく聞こえないよう、かといって、妙に媚びているようにも聞こえないよう、つまり、仲が悪くはないが決して慣れ親しんでいるわけではない関係に聞こえるように細心の注意を払いながら、簡潔におかえりなさいと挨拶をした。
ポタポタと髪から雫が落ちる。それはシャツに落ちたりスーツを濡らしたりしたが、時に出島の頬を伝って首筋を流れた。長い首を雫が滑っていくさまは、どこか退廃的な魅力がある。前髪から垂れる雫を、煩わしそうに拭いながら、出島が湖の色をした瞳を細めて微笑んだ。部屋の中にいる二人にも気づいているだろうに、そちらにはまったく視線を向けない。
「ただいま戻りました、うららさん」
はあ、とか、そうですか、といったような言葉がごにょごにょと口の中で形成されるが、意味を成す音としては外へと出て行かない。幸い、二人には背を向けているので気取られていないだろうが、久しぶりに見る出島の、しかもスーツ姿はうららを赤面させるのに充分だった。スーツ姿の男性は三割り増しで格好良く見えるというが、そもそも臨界点を振り切るくらい容姿に恵まれている出島がスーツを着用しているのは、殺人的といっても過言ではない。前回、賢介と会ったときにも思ったことだが、毎日顔を合わせていれば耐性もつくものの、こうも偶にしか会えないと、毎回の再会が生きるか死ぬかの苦行のように思える。
「降られちゃいました」
前髪をかきあげて、肩をすくめる。小首を傾げてうららの肩越しに部屋を見渡し、あたかも今気づきましたと言わんばかりに、サナと玲子の方へと視線を向けると、えらく穏やかな笑顔を向けた。口元から覗く白い歯が、眩しい。
「うららさんのご友人ですか?」
「え? あ、ああ、えっと、サナちゃんと玲子ちゃんです。今日は、うちに泊まっていくんです」
「へえ。ガールズパーティーですね」
愛想よく言って、出島がネクタイに手をかけ、首元を緩めた。必然的にそちらに視線がいってしまい、うららはあまり考えもなしに感想を述べる。
「珍しいですね、スーツ」
「そうなんです。今日は、スーツ着用でないとダメな仕事場だったので。あんまり、好きじゃないんですけどね。窮屈だから」
「似合ってますよ」
サナが部屋の中央から声をかける。いわく幼稚園のときからモテていたそうで、学校の男子と喋るときも、どこかいつも優位に立っているサナが、緊張した面持ちをしている。気圧されている、という方が正しいだろう。
「うん、似合ってると思います」
普段は、社交辞令や世辞をまったく口にしないはずの玲子が、サナのコメントに同意した。しかも、「うららもそう思うでしょ?」などと聞いてくる。自分は自分、他人は他人が信条の玲子が、だ。どうやら、玲子も相当パニックに陥っているらしい。
この場面でなにも言わないのは、逆に不自然だろうと考え、渋々、うららも重い口を開いた。
「似合って、ます」
「ありがとうございます」
てっきり、うららさんに褒められるなんて光栄です!とか、うららさんに褒められるのが、僕は世界一嬉しいんです!とか、うららさんもその服可愛いですよ、ていうか、うららさんだったら何を着てても、何を着てなくても可愛いですけどね!とか、そういった変質者然とした、絡みづらいテンションのリアクションが来るかと思っていたので、肩透かしをくらった。出島の笑顔も、妙に常識人ぽくて、調子が狂う。
緩めたネクタイを外して、くるくると巻いてから手のひらに収めると、出島は会釈を一つしてからドアの前から去ってしまう。あっさりとしたその去り方に、うららは思わず部屋から一歩出て、出島の背中に声をかける。
「出島さん」
「はい」
体全部ではなく、首だけで振り返られた。顔には笑みが貼り付いているが、どこかいつもと違う。どこに違和感を覚えているのか、自分でもわからなかったけれど、とにかく、出島の態度に釈然としない思いをする。かといって、出島にかけるべき言葉を持っていたわけではないので、うららはドアを支えていた後手を離して、もう一歩、出島へと近寄った。
「えっと」
「なんでしょう?」
「最近、忙しそうですね」
無難な話題を選んだはずだったのに、気付けば、まるで出島が家にいないことを嘆いているようにもとらえられる発言で、うららはあたふたと意味もなく両手を空でばたつかせた。吹き出した出島が、体ごとうららに向き直る。
「ええ、新設部署のためのややこしい雑多業務に追われていまして。僕ひとりで決定できる事項なら、ここまで時間を割く必要もないのですが、なにぶん、色々な方の承諾や同意を得ないといけない内容が多いもので」
「そ、そうですか……」
会話が途絶えてしまう。まばたきを繰り返しながら、視線を床に向ければ、出島の濡れた靴下でできた跡がついていた。
「あとで拭いておきます。今日はもう、会社に戻らなくても大丈夫そうですから、夕食は皆さんとご一緒できるかと思います。それまでに、シャワーでも浴びておきますね」
「あ、そ、そうですね。風邪引いたらダメですもんね」
「心配してくださって、ありがとうございます」
じゃあ、と声をかけようとすれば、出島がふいに手でおいでと招く。何の用かとは思いつつ、素直に出島の方へ歩けば、急に顔が近づいてきて、頬に何かが触れた。キスをされたのだと気付き、
「!!」
「お久しぶりですね、の挨拶です」
「な、なに考えてるんですか!」
そろそろ、部屋に残してきた二人がやきもきし始める頃だろう。興味本位にドアを開けていたら、もし今のを見られていたら、どうするつもりだったのか。怒りは露わにしつつも声は抑えて、うららは出島に詰め寄るが、振り上げた手を逆に掴まれてしまう。
「だって、うららさん、僕に会えなくて寂しかったんでしょう?」
耳元でそう囁かれれば、怒りと恥ずかしさと悔しさとで身体中の血液が脳みそに集合してくるみたいだった。どこからそんな自信がやってくるのか、訳がわからない。出島が出島である限り、注意をするべきだったのに、ちょっと常識人な物言いをしていたから油断した。そして、油断した自分が情けない。少しでも、友人たちの前ではさすがの変人も、自重してくれるのだろうと、それくらいは大人なのだからしてくれるのだろうと期待したうららが馬鹿だった。愚かだった。
「出島さんって、本当に、妄想の世界でしか生きていないんですね」
「このままで終われば妄想、これから現実化させれば想像です。未来へのビジョンとでもいいましょうか。三流が真似したらパクリ、一流が真似すればそれはオマージュです」
「そのネクタイを、口に詰め込んで黙らせてやりたいです」
「そういうプレイがお好みですか?」
ダメだ。この人、全然自分を律する気がない。奈落の底に突き落とされた気分で、うららは出島の笑顔を睨みつけた。
「うらら?」
ついにドアから顔がのぞき、サナと玲子が首を出す。瞬時に出島との距離を開けたうららは、弾かれたような笑顔になった。
「ああ、ごめんごめん。今日、夜中まできっと三人で喋っちゃうから、うるさいかもしれないって警告してたんだ」
「お気遣いなく。ここはうららさんのお家ですから。僕は、しがない居候です。どうぞ、お好きになさってください。それじゃ、廊下を水浸しにする前に、シャワーを浴びてきちゃいますね」
「あ、どうぞ」
もう一度、ぺこりを頭を下げて出島が自室へと姿を消すと、うららは足早に自分も部屋に戻り、まだ様子を見たがっている友人たちを押しのけて、ドアを閉めた。




