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雨もしたたる良い河童  作者: 卯ノ花実華子
第三章 夏休みは猫を被って
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 「うららさん」

 「はい? って、近い近い!」


 出島の声に振り返れば、近すぎて目の焦点が合わないほどの距離に出島の顔があって、慌ててうららは数歩後ずさる。


 安全な距離を稼いで、冷静に観察してみれば、なんだか気落ちしているようにみえる。そういえば、賢介が何か言っていた。人生初のなんとか、かんとか。


 「出島さん? どうしたんですか?」


 声をかけてみるけれど、返事がない。ひょろりと長い体で佇んだまま、うなだれた首が哀愁を誘う。

 なんだろう。なんか、元気ないような。 

 そういえば、出島が久し振りに帰ってきたというのに、再会の挨拶もそこそこだった。なんせ、玄関に走って出迎えたら、出島ではなくて賢介だったのだから。それからは、すぐに引っ越しの荷物運びに解体が始まってしまって、ろくすっぽ会話らしい会話もしていない。それに、ずっと賢介が出島のそばにいたから、なんだか気恥ずかしくて、まともに出島のことを見られなかった。


 半歩だけ出島の方に歩み寄って、うららは垂れた出島の顔を覗き込むような姿勢で、勇気を振り絞って呟いた。


 「出島さん。あの。えっと……。お、おかえりなさい」


 サイエンスドキュメンタリーなんかでよくある、植物の成長を早送りで見せるシーンがある。本当は、何日もかけて芽吹くはずの花や木が、芽を出して、茎や枝を伸ばし、葉を茂らせていく様。あれを見るのが、うららは好きだった。特に、花畑のような場所で、いっせいに花が開いていくのを見るのが好きだ。


 うららの言葉に反応した出島は、あの花畑によく似ていた。


 茎が重い蕾を持ち上げて真っ直ぐに立つように、出島は顔を上げて、眼前のうららを射止める。どこか色味の薄かった肌には血色が戻り、瞳に力が宿る。寂しげに閉じられていた唇は、美しい三日月に形を変え、花びらが開く瞬間を彷彿とさせるように、ため息をついた。


 その綺麗な微笑みに、うららは圧倒される。


 そこからまるで光が漏れているようで、まぶしくて直視できない。5日ぶりに体験する出島の容姿の持つ破壊力と、5日間で出島に対する耐性をなくした自分を目の当たりにして、うららはおののいた。


 直視できないから、目を閉じて顔を背ける。その間に、すっかり本調子になったらしい出島が、うららの体を抱きすくめる。絡められる腕に、布越しに伝わる体温、それに出島の首筋からする匂いに既視感を覚えるが、同時にひどく困惑する。


 「ただいま、うららさん」

 「あの、出島さん、その、離して……」

 「ちょっとだけ」


 切ない声で囁かれれば、それ以上強く押し返せない。大事にしていたぬいぐるみを抱きしめるように愛おしそうに、ガラスの花瓶を運ぶようにそっと、うららは出島に抱きしめられるままだった。


 「賢介が言ってたこと、本当です」

 「賢介さんが言ってたこと? 人生初のなんとかってやつですか?」

 「この年でこんな思いを味わうなんて、想像もしていませんでした」

 「なんの思いですか?」

 「言わせるんですか?」


 自嘲気味に出島が言うが、まさか賢介の発言の大事なところを聞き逃していたとは言えないので、うららは沈黙をもって返答した。一呼吸あってから、出島が重い口を開く。


 「嫉妬です」

 「嫉妬? 誰が?」

 「僕が」

 「誰に?」

 「岡崎さんに」

 「出島さんが? 岡崎に? 嫉妬? なんで?」

 「いや、そうも何回も、不思議そうに尋ねられると、さすがの僕も心が折れそうになるんですけど」

 「え、出島さんの心って折れたりするものなんですか?」

 「なんか今日のうららさん、地味にひどいですね」


 純粋に意味がわからないのでこんな口調になっているのだと弁明したかったけれど、あまりに出島が情けない声を出すので、うららは励ますように明るく、

 「いやいや。久しぶりだから、そう感じるだけじゃないですか?」

 「本当に。500年くらいに感じた5日間でした」

 「それは言い過ぎでしょう」

 「仕事中に、自分のプライベートのことを考えたのなんて初めてです。何をやっても、今うららさんは何してるのかなって考えちゃって。食事の際は、うららさんは今日は何を召し上がられたのかな、朝起きたら、うららさんはもう起きていらっしゃるのかな、寝る前は、もう、うららさんは眠ってしまったのかな、お風呂の前は、うららさんの下着は」

 「それ以上言ったら、血が出るまで噛みつきますよ」

 「じゃあ、本日の下着を教えてくだされば、さっきの発言は撤回します」

 「噛みつくだけじゃなくて、殴る蹴るの暴行コースをお望みですか?」

 「すみません、僕が悪かったです」


 すぐに暴走する。すぐに調子に乗る。でも、すぐに悲観的に物事をとらえがちなうららにとって、出島のそういうところはありがたかった。死んでも言いたくないけれど。


 いつの間にか笑っていた自分が恥ずかしくて、その顔を見られたくなくて、出島の胸に額をつけて隠そうとすると、出島が片手を後ろ頭にやって撫でてくれた。気持ち良い。どうして、ひとに触られるのって気持ち良いんだろう。


 頭にあった手が滑って、頬に触れる。うつむいたうららの顔を、顎を持ち上げて視線を上に向かせる。親指が、下唇を左から右へゆっくりとなぞっていく。そのいちいちの行動に、背筋がぞわぞわする。もう片方の手が腰にあてられているから、もしかしたら気付かれるかもしれない。気付かれたくない。耐えようと、止めようとして体に力を入れると、出島がくすりと笑った。

 「だめですよ、うららさん。それじゃあ、逆効果です」

 何がだめで、何が逆効果なのかは分からなかったけれど、見透かされた気がして、また心臓がその動きを早める。


 「ああ、もう……」

 意味の通じない、そんなことを口走って、出島が残念そうに、悲しそうに、でもどこか嬉しそうに嘆息した。そして、素早くうららの鼻の頭を柔らかく噛んで、体を離す。出島の体温が離れると、自分の体温が急激に下がったような気になる。もちろん、気のせいだけれど。


 「さ、コーヒー淹れましょうか」


 くるりときびすを返すと、出島はシンクの方へ向かう。電気ケトルに水を入れて、スイッチを入れた。まだ呆然と立ちすくんでいるうららを振り返り、

 「うららさん。お父様がお飲みになられるのは、どういったコーヒーでしょうか」

 そう微笑む出島からは、さきほどの切なさはどこにも感じられずに、うららはまた心がざわつくのを感じた。


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