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楕円形をした爪から伸びる指は細長く、あまり関節も節くれ立っておらず、その手が大きくなければ女性のものと間違うこともあるのかもしれない。
両手を合わせて、出島が母に軽く会釈をした。
「ごちそうさまでした。大変美味しくいただきました」
「どういたしまして。さ、スイカの出番ね」
母はにこやかに立ち上がり、あらかじめ冷蔵庫で冷やしておいたスイカを取りに台所へ向かう。途中でうららの方へ振り返ると、手招きをした。
「なに、お母さん」
「お皿、下げてきてちょうだい」
「それなら、僕が」
出島が素早く立ち上がる。母はそれをかぶりを振ることで制止すると、
「お客様にそんなことはさせられません。座っていてくださいね」
「そのことですが」
結局、立ち上がってしまった出島を、隣の席から父が見上げる。半腰で立ち上がりかけていたうららも、振り返ったままの母も、青本家全員が出島の次の行動を待っていた。
「もしかしたら、お客様ではなくなるかもしれませんし」
「どういう意味ですか?」
うららが尋ねるのと、母が小さな悲鳴を上げて、その口を手のひらで覆うのが同時だった。
「え、なに。どうしたの、お母さん」
嫌な予感を覚えて、うららがしかめっ面になる。
「もしかして。出島さん、うららのことを?」
「だから! なんでお母さんはそうやって、すぐに色恋沙汰に持っていきたがるのかなあ?」
半腰から、両手を苛立たしげにテーブルに置いて、うららはため息をつく。出島は反対にとびきりの笑顔を見せると、母に向かって、
「そうだと良いんですが……。僕、うららさんに嫌われているようで」
最後に、少しばかり寂しげな表情を見せて、母の視線が出島に向いているのを確認してから斜め下に目を伏せるのも忘れない。
この策士が! 内心、舌打ちを大きく鳴らして、うららは毅然と顔を上げた。
「そうなの、うらら? あんた、出島さんのなにが嫌なの?」
「なにって……」
現在、嫌なところというか苦手なところばかりだから、なにから言えば良いのかわからない。とりあえず、自称河童というのをなんとかしてほしい。
「本当なの? うらら。出島さんのこと、嫌いなの?」
「嫌いってわけじゃ」
それは本当のことではあったが、己の失言に言ってから気がついた。は!と手を口にやるが、もう遅い。爛々と目を輝かせた出島が両手を胸の前で組んで、今にも涙せんばかりに感動に震えていた。
「そうなんですか? 僕のこと、嫌われてはなかったんですね? ああ、安堵いたしました。僕、うららさんのこと、本当に素敵な女性だなと思っているので、嫌われていたらどうしようと悩んでいたんです。実は。だから、たとえ好かれていなくても、嫌われていないのなら、またお話していただけますか?」
「え、えっと」
そのお話とやらには、急に抱きしめられたり、洽雫を取ると称してキスのようなことをしたり、耳元で囁かれたりが含まれるのだろうか? だとしたら、ご免被りたい。
「もう! うららったら! やるじゃない! 俊くんだけじゃなくて、出島さんもだなんて!」
「は? なに言ってるの。そもそも、なんでそこに岡崎が含まれてるの。外してって言ってるでしょ」
「わかった、わかった。そうよね。出島さんがいるもんね」
「お母さん! なんでそういう思考回路になっちゃうわけ。違うってば。出島さんとは、今日会ったばっかりなんだよ? 初対面だよ? 初対面のひとに好きとか言われても、そんなの、真実味がないに決まってるじゃない」
「ばあさんは、一目惚れだったそうだぞ」
うららたちのやり取りにあまり興味を示さずに、新聞を広げていた父が、ぼそりと呟いた。
「え、そうなの?」
さきほどまでの剣幕を忘れて、うららが身を乗り出す。祖母が恋愛結婚したという話は聞いていたが、一目惚れだったとは初耳だ。
「しかも、双方一目惚れだったそうだ」
「あら〜、ロマンチックねえ。さすが、おばあちゃん」
手のひらで頬を包んだ、昔の少女漫画のヒロインみたいな仕草で、母がうっとりと言う。そんな格好はしなかったものの、うららも最後の一言には同意見だった。さすが、おばあちゃん。
「じゃあ、僕がうららさんに一目惚れしても、うららさんが僕のことを初対面で好きになっても、なんら問題はないわけですね」
いけしゃあしゃあと放つ出島に、うららは不可視の殺人ビームを放っておく。
「でも出島さん。うららのどこが気に入られたの? 母の私がいうのもなんだけど、このこ、常に目立たないように目立たないようにって、そればっかりに気をかけてる、ちょっと変わったこよ?」
「恋はするものではなく、落ちるものですから」
気障なセリフも、出島が口にするとまるで舞台役者の演説のように聞こえる。母は、シェイクスピアのスピーチでも聞いたみたいに胸を打たれ、そそくさと出島の方へ歩いて行くと、その美しい手を取った。ブンブンと熱く握りしめて、うららの方には親指をびしっと立てる。グッジョブ!と言いたいらしい。
「出島さん。うちのこを、よろしくお願いします」
「いいんですか、お母さま……?」
「やだ、お母さまだなんて!」
「ちょっと! そこ! なに勝手に話を進めてるの! 私は一言も、出島さんのことが好きだなんて言ってない!」
大声を出すと、母がやたらと殊勝な顔つきで謝る。
「ごめんなさいね、出島さん。あのこ、目立ちたくない目立ちたくないって言いながら、ああやって意思表示だけはハッキリとするんですよ。困ったこでしょう?」
「いえ。ご自分の意見をハッキリとおっしゃられるうららさん、凛とされていて素敵です。それに、ご安心ください。僕、気が長いのが長所なんです。うららさんが、少しでも僕のことを好きになってくださるまで、何年でも待ちますから」
「出島さん……!」
「こらこらこら! お母さんも、出島さんの発言にいちいち感動しないでよ! 好きになるまで待つとか、重いから。ありえないから」
「それは、どうかな?」
新聞をめくりながら、父が言う。うんうんと頷く出島と母を睨んで、うららは父に情けない声を出した。
「お父さんまで、やめてよ」
「うん、そうだね。じゃあこの話は、ここまで。さ、出島さん。本題に入りましょう。ああでも、その前にスイカは必需品かな? うらら。お皿を下げるのを手伝ってあげなさい」
父の言葉に、出島は真顔になり、母はその手を離して台所へ向かう。本題がなんなのかさっぱりわからなかったが、とにかく、気まずい話題から逃げられたのが嬉しくて、台所まで皿を下げると必然的に出島の視線からも逃げられるからホッとして、うららは素直に父の提案に従った。
台所へ皿を下げてシンクの中へ置くと、母から代わりにスイカの乗った皿を渡される。これまた素直にそれを受け取り、居間に戻ると、出島と父は朗らかに歓談している最中だった。うららに気づいた出島が、バス停での自分であったら鼻血を出して卒倒していたであろう笑顔を向ける。
「はい、お父さんの分と、出島さんの分ね」
「ありがとうございます!」
この世でもらったプレゼントの中で一番嬉しいですと言わんばかりの顔で出島がスイカを見つめて、同じ濃度の視線をうららへ寄越した。少しばかり油断していたのか、気をつけていたはずなのに、出島との距離が近づいていて、うららは咄嗟に大きく後ろに下がることで赤面するのをこらえる。
「はい、これはうららの分ね。さ、みんなでいただきましょう」
母が背後から皿を出してくれて、うららの席のところにスイカを置いてくれる。全員分のスイカを載せたテーブルを囲んで、4人は示し合わせたようにその赤い果実を頬張った。
おいしいね。俊くんところも、いつもおいしいスイカをくれるわよね。どこで手に入れてるのかしら? 村のスーパーではこんな大きなものは売ってないから。きっと岡崎さんのことだ、わざわざ手に入れてくれているんだろう。
他愛もないコメントが飛び交う中、うららはそっと出島の方を伺ってみる。
なにか、言いようもない、形容しようもない悪寒のようなものがあるのだ。なんと言えば良いのか。そう、たとえて言うなら、できすぎている。
そもそも、出島がうららの家にやってきていたのが想定外だったし、父の口振りだと、まるでそれが前から決まっていたかのようなことも気になる。もしそうだとしたら、母が台所で話していた客人というのは出島のことだろうし、だとしたら、出島がうららにバス停で出会ったのは、本当に偶然だったのだろうか?
うららにとっては想定外だっただけで、実は仕組まれているのではないだろうか、というような気がしてならない。そんな予感をサポートする根拠や証拠は、まだ見つかっていないから話せないのがもどかしい。
まだある。出島は、やたらと両親の前でもいかに彼がうららのことを好いているかというような話をしていたが、それに対する両親の反応も、おかしい。出島の思考回路はうららの予想を裏切る方向にしか働いていないので、この際除外するとしても、あんな風にあからさまに好意を見せられて、すぐに納得したような両親の気持ちが不可解だ。まるで、すでに出島に対して一定の信頼を置いているような。
それに、さきほど父が言った本題という言葉がどうにも引っかかる。
なにか、良からぬこと、特に、うららにとって良からぬ、出島にとって都合の良いなにかを企んでいるのではないだろうか。
それがなにかはさっぱり見当がつかないけれど、でも、それに対しておめおめとほだされるうららではない、というようなことを出島に伝えておくべきかなと思った。先手必勝というやつだ。
うららが出島の方を見ると知っていたのか、抜群のタイミングで出島がうららと視線を合わせる。まるで人好きのする表情を浮かべてみせると、人差し指を唇の端にやった。そして、とんとん、とそこを軽く叩いてみせる。
「?」
なんのことか分からず、うららがぱちくりと瞬きをすると、出島がくすりと微笑んだ。唇の端に当てていた指を伸ばして、うららの唇の近くに触れる。
「うららさん、種、ついていますよ」
ほら、とつまんだ黒い種をうららに見せる出島からは、親切な青年然とした雰囲気しか感じられないが、触られた当の本人であるうららには分かった。出島が触れた箇所が熱い。種をつまむだけで良かったはずなのに、わざと唇そのものをなぞっていった。
「っ! ありがとうございます」
悔しい。この人の前では、一瞬たりとも気を抜いてはいけないと、肝に命じなければ。
「それでね、お母さん。まあ、どうだろう。こうして、出島さんと直接会ってみたわけだけど」
父がそう唐突に切り出して、母はスイカを食べる手を止めた。
「そうねえ。出島さんさえよければ、どうぞお使いになってください」
「よろしいんですか? ありがとうございます! これ以上の立地条件はないんです。本当に嬉しいです」
「じゃあ、そういうことで決まりだな」
「そうね。ちょうどね、おばあちゃんが住むことになったときに空けた部屋がひとつあるから、そこを使ってくださいね」
「おばあさまがいらっしゃるのですか?」
「そうなの。長い間、おじいちゃんと一緒に暮らしていたんだけど、おじいちゃんが数年前に他界しちゃってね。それで、独り身で暮らすのは不便なときもあるだろうからと思って、一緒に暮らさない?って誘ったのよ。でも、おばあちゃんたら自立心旺盛でねえ。一緒には住むけど、同じ屋根の下はイヤだって言うもんだから、結局、倉庫として使っていた離れを少しリフォームして、おばあちゃん用のお部屋にしたの。簡単なキッチンもついているから、おばあちゃんはそこで暮らしているのよ」
祖母のいる離れの方角に目を向けながら、母が簡単な説明をする。出島は大きく頷き、
「なるほど。では、おばあさまにはまた、改めてご挨拶に伺いますね」
「まあ、それはいつでも良いよ。そういうことに頓着するようなひとではないからね。それよりも、出島さんの荷物をどうするかだなあ」
「あ、それはご心配なく。会社の友人が荷物を届けてくれるそうですので、近日中に彼に連絡いたします。荷物を運び入れるときだけ、青本家のみなさまにはご迷惑をおかけすることになりますが・・・・・・」
「そんなこと、迷惑でもなんでもないですよ」
「そう言っていただけると、大変助かります」
「あの」
小学生が初めての授業で初めて挙手するようにおずおずと片手を挙げて、うららが口を挟んだ。
「まさかとは思うんだけど、出島さんって、うちに住むの? そんなわけないよね?」
「そうだよ」
と、父。
「そうよ」
と、母。
「そうですよ」
と、出島。
三者三様にあっけらかんとした物言いに、うららの堪忍袋という名の導線に火がつけられ、あっという間に爆発した。
「なんでそんなことになってるの? なんで誰も私にその話をしていないの? なんで出島さんが住むかどうか、私に意見を求めないの? 空いている部屋って、あれだよね、私の部屋の隣の部屋のことだよね。なんで未成年で女子高生の隣の部屋に、男性を住まわせようと考えているわけ? お父さんもお母さんも、おかしくない?」
一気にまくし立てて、酸欠状態になって肩で息をする。うららの突然の変貌を見ていた父が、後ろ頭を掻く音だけが響く。母はうららに麦茶を勧めながら、
「話したはずだったと思ったんだけど・・・・・・」
どこか自信なさげに父の方へ目配せをする。
「うらら。お父さん、ちゃんと話したぞ?」
「いつ?」
「うーんと、先週、だったかなあ。インターン生がこの村に来ることになって、できたら村のひとの生活を直に見たいから、ホームステイのような形で住処を探しているって」
「あ」
確かに、その話には覚えがあった。学校の友人たちと携帯でSNSのメールでやりとりをしていたから、おぼろげにしか覚えていないが。
「しかもそのインターン生のひとが、龍神について調べたいって言っているから、うちに住むのがベストだなあって言ったら、うらら、おまえがじゃあ空いている部屋に入れてあげたらって言ったんだぞ」
「え」
そんなことを言ったかも、しれない。学校の友人たちとSNSで盛り上がっていたから、できたら父から解放されたくて、適当に返事をしたことだけは覚えている。内容は、まったく覚えていないが。
「お母さんも、お父さんも、うららの隣にひとを入れるっていうのが一番ネックに感じていたんだ。インターン生さんの会社直々からの申し出もあったから、身元はちゃんと確認していたけれど、やっぱり、うららも難しい年頃だろうと思っていたから。だから、うららが快諾してくれたのを聞いて、お母さんとももう一度話し合って、それでお父さんの方から会社に連絡し直したんだ。とりあえず、今はまだ保留にして、インターン生の方と直に会わせて欲しいと」
「う」
父の言っていることは正論以外の何者でもない。うららのことを考えてくれていたことは嬉しいし、もしうららが本当に空き部屋に入ればなどと言ってしまったのだとしたら、インターン生受け入れに積極的になるのも、何ら不思議はない。
「それで、ええと、先週末だったかな? お父さん、うららに言ったんだ。例のインターン生さんが、うちに来るかもしれないから、みんなで会おうなって。そしたら、うらら、じゃあ夕飯に誘ってあげれば? そうしたらお母さんがごちそうを作ってくれるだろうし、一石二鳥だよって」
「ああ・・・・・・」
どうしよう。それは、記憶にある。直接顔を合わせるのなら、夕飯に誘えば、会って話もできるしごちそうにもありつけるし一石二鳥だと、そのときは思ったのだった。
「やだ、うらら。あんた以外と考え方がセコいわね」
「ううう」
「一度は良いって言っておいて、今更、やっぱりやめますっていうのは、出島さんに失礼だろう? お父さんは、ちゃんとうららに意見を聞いていたし、それに対して、うららは何のプレッシャーもなしに答えていたはずだ。違うか?」
「違わない・・・」
母と喧嘩をするたびに、正論をまくしたてて母を困らせるのがうららの常套手段だったが、それを父からされると、ひとつも反論できずにものすごい敗北感を味わう羽目になった。
「じゃあ、良いわね? 今日から出島さんは、うちにホームステイされるのよ」
「よろしくお願いいたします」
そう言った出島がどんな顔をしていたのかは、深々と頭を下げてしまったせいで見えなかったが、きっとこの状況を楽しんでいた違いない。自分で掘った穴に落っこちて上がれなくなってしまった悔しさと情けなさがないまぜになった気持ちで、うららは出島のつむじを見た。




