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雨もしたたる良い河童  作者: 卯ノ花実華子
第二章 ひとつ屋根の下の河童
19/56

 出島が微笑んでいる。よく考えれば、出島はいつも微笑んでいる気がする。うららが怒っても喚いても、イライラしてもカリカリしても、いつも。今も、半分赤面しながら半分怒っているうららに、出島はその湖の両眼をいたずらっ子のようにくりくりとさせて微笑んでいた。そこから真意を掴み取るのは難しく、どういう意味なのかと尋ねることを放棄して、うららは出島の抱擁から抜け出すことに専念する。


 麦茶に染まったシャツを洗濯機にやや乱暴に放り込んで、うららは後ろを振り返らずに、

 「出島さん。応接間に戻りますよ」

 さくさくと歩き出した。出島の足音が背後から聞こえて来る。廊下の途中で、夕飯ができたと知らせにきた父と会い、合流して3人で食卓へと向かう。


 「ちょっとしかありませんけど、お口に合うと良いですわ」


 いつもなら絶対にしない気取った口調で母が言い、いつもなら絶対に夕飯に並ばない量と豪華さの食事がところ狭しとテーブルを覆っていた。そつなく、出島は気の利いた返答をし、それを聞いた母は少女のように無邪気に喜ぶ。


 「うららったら。俊くんとこでスイカもらってたのに、出島さんに押し付けて、ひとりで先に帰ってきちゃったんだって?」


 天ぷらの衣が変なところに入って、盛大にむせ始めたうららの背中をさすりながら母が続ける。


 「一緒に帰ってくれば良かったじゃない。かわいそうに、出島さん、うちを見つけるのに難儀されたそうよ」

 「いえ、お嬢様は悪くありません。僕がきちんとこちらのご住所を伺っておかなかったから、勝手に道に迷ってしまっただけです」


 麦茶を口に含みながら、うららは考える。


 応接間での出島の発言に、今の母の発言の内容を照らし合わせると、どうやら、うららと出島はバス停で出会ったことになっているらしい。うららが岡崎の家でスイカをもらった後、というのも本当のことだ。ただし、その後が少し違う。出島は、スイカを運ぶだけの作業しかしておらず、しかも途中でうららは出島と別れたことになっている。つまり、うららの両親は、出島が河童だということも、河辺でのことも知らされていないのだろう。


 「で?」

 やっと落ち着いた咳を見て、母がうららの方へ顔を向けた。

 「え?」

 「なんで、ひとりで先に帰ってきちゃったの?」


 そこは言ってないのか!


 図らずも、両親の前で嘘をつかないといけない羽目になったうららは、つじつまの合う言い訳を考えている間に、目の前に座っている出島を思い切り睨んだ。視線に気づいた出島は、そっと眉を上げて、長いまつげに縁取られたビー玉の両眼を悪戯っぽく輝かせる。


 「えと、ほら。岡崎と数学の宿題の話をしてたって言ったじゃない? その、出島さんと話をしている最中に、岡崎に聞き忘れたことがあって。わざわざ出島さんに岡崎んちまでついてきてもらうのも、迷惑かなって思って、ひとりで行ったんだよ。そう、夏休みの宿題のことで、ちょっと」

 「うらら」


 箸を置いて、右隣に座っている母がうららをじっと見つめる。嘘がばれたのか。言い訳が下手だったのか。もういっそのこと、本当のことを話した方が良いんじゃないだろうか。ああでも、本当のことを全部話しても、きっと出島はしらばっくれるに決まっている。悔しいが、口では出島に敵わない。


 母と同じように箸を置いて、うららは次の言葉を待った。


 「あんた、やっぱり、俊くんとなんかあるんじゃないの?」

 「は?」


 想像していたのとは違った方向からの刺激に、一瞬、安堵の息をつきかけて、慌ててそれも止める。


 「なに言ってるの、お母さん。どういう意味よ。なんかって、なに」

 「だから、実は俊くんと付き合ってたりとかするんじゃないの? いいのよ、別に隠さなくても」

 「隠してないし! ていうか、ないから、そういうの」

 「本当に? そうやってすぐに否定するところが怪しいのよね〜」

 「だから、本当になにもないってば!」


 否定すればするほど、怪しく聞こえる自覚はある。しかも、さきほどの言い訳に頭を使ったからか、今になって心臓がバクバクと音を立て始めていて、頬が赤くなっている自覚もある。


 「もう、お父さんも何か言ってよ」

 困って、父に話を振ると、父は刺身を頬張りながら、

 「俊樹くんは、良いこだね。お父さんも安心だ」

とだけ言った。


 「だから! 違うってば!」

 「うららさんは、岡崎さんという方とずいぶん親しいんですね」


 前方から穏やかな声が聞こえて、うららが出島を見る。口元は非常に上品に微笑んでいて、醤油にわざびを溶かす箸使いも美しかった。ただ、目がまったく笑っていない。


 「俊くんっていうのは、あのスイカをくれた家のこなんだけどね。うららと同い年の男の子でね、とっても運動神経が良いんです。うららが今通っている高校は進学校だから、うららは去年、そりゃあもうたくさん勉強したんだけれど、俊くんは、スポーツ推薦だけで入っちゃったんですって」

 「へえ。なんのスポーツをされるんですか?」

 「サッカーだったと思うわ。ね、うらら?」

 「え? あ、うん」


 大葉で刺身を巻いて食べる仕草も絵画のようなのに、笑っていない両眼からは絶対零度の冷気が漏れているような。


 「運動神経が良いだけじゃなくて、本当に優しくて良いこでね。うららは、少し内弁慶のところがあるのだけれど、グループの中だと思うように意思表示できないこのこを、小さいときから俊くんは庇ったり守ったりしてくれてね。うららちゃんは、僕がついてるから大丈夫だよ、なんて言ってたわねえ」

 「そんな昔のこと、もう覚えてないよ岡崎だって」

 「そうかしら? 案外、覚えているかもしれないわよ? 俊くん、律儀だから。それに、今だって高校ではほとんど男友達がいないくせに、俊くんとは話してるじゃない」

 「たまにだよ、たまに。いっつも喋ってるわけじゃないよ。それに、岡崎は男友達っていうか」

 「男友達っていうか?」


 うららとは目を合わさずに、出島が言った。目も合っておらず、その振る舞いはあくまで優しげなのに、どこか青い炎を彷彿をさせる。


 「幼じみ、だから」

 「まあ、がんばってちょうだい、うらら。お母さん、朗報を待ってるわ!」

 「だから、違うってば! 本当に、何回言ったら信じてくれるの?」


 手を口にあてて、照れなくても良いのにと笑う母に、うららは絶望的なため息をついた。前方からの視線が、痛い。母の方を向いたまま食事はできないので、仕方なく出島の方に向き直ると、さらに視線を感じる。


 「連れて行ってくだされば良かったのに」

 「どこにですか」

 「岡崎さんのおうちに」

 「いやでも、出島さんは関係ないですし」

 「うららさんとご一緒できるのなら、どこへ行っても僕は楽しいですから。それに」


 一旦言葉を切ると、出島は箸を置いて、うららを真っ直ぐに見つめながら言った。


 「岡崎さんという方に、興味があります。ぜひ一度、お会いしてみたいです」


 岡崎。逃げて。もしくは籠城して。なんだったら、青春18切符で2ヶ月ほど日本国内を放浪して。


 うららの提案は岡崎に届くわけもなく、出島のアルカイックスマイルに両親が気づくわけもなく、表面的には和気藹々と夕飯は進んでいった。


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