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雨もしたたる良い河童  作者: 卯ノ花実華子
第二章 ひとつ屋根の下の河童
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 「条件?」

 きな臭いその言葉に、うららは顔をしかめて警戒した。出島はそれに気づいているのかいないのか、まるで悪気のない天使の顔で、茶目っ気たっぷりに小首を傾げて、両手を合わせた。


 「条件というのは、聞こえが悪かったですね。ごめんなさい。ちょっとしたお願いがあるんです。それを聞いていただけないかと思いまして」

 「洽雫(こうだ)をくれとかなら、断りますよ」


 先手を打ったつもりだったのに、出島はそれに対して心底傷ついたのだと潤んだ瞳で表す。


 「そんな……。あのときは、本当にありがとうございました。うららさんが僕に洽雫を分けてくださっていなかったら、僕はここでこうして、うららさんと素敵なお話をできていなかったでしょう。うららさんは、僕の命の恩人です。洽雫は、生命エネルギーそのもの。それを非常時以外でうららさんから頂戴しようなど、そんなこと、思うはずもありません」


 頭をうなだれて瞳を伏せる出島にうっかり同情しそうになる。ほだされてはいけないと強く思いながらも、先ほどよりも優しい声音でうららが尋ねた。


 「だったら良いんですけど……。それで? お願いってなんですか?」

 「僕にとっては、とっても大事なことです」

 「なんですか」

 「うららさん」


 すっと出島がその瞳をうららに向ける。吸い込まれそうな瞳。ビー玉のような両眼が、うららをダイレクトに見つめる。それから目を背けることができずに、ピンで縫いとめられた蝶の気持ちでうららは出島の言葉を静かに待った。


 「僕がうららさんを好きでいることを、許してください」

 「へ? え? そんなこと?」

 「はい」

 「それだけ、ですか? 私に、出島さんを好きになれとか、そういうことじゃなくて?」

 「うららさんのお気持ちを無理強いしたくはありません。大好きですから、うららさんのこと」

 「な、なに言ってるんですか」


 この至近距離で大好きだと囁かれれば、たとえそれがお世辞や冗談の類だとわかっていても照れてしまう。


 「もちろん、うららさんの方から僕を好きになってくださるのなら、大歓迎ですけどね」


 うららからシャツを受け取り、出島はそれに袖を通した。決して、うららの父は日本人男性として背が低いわけではなかったが、その体型は日本人離れしているわけではない。出島が袖を通したシャツはれっきとした長袖のものだったのに、なぜか7分袖のようになってしまった。丈もやや短く、バンザイをしたらへそが見えそうだ。


 「お借りしておいてなんですが、やっぱりちょっと小さいみたいです。全部閉じたら息が苦しくなりそうですので、こんな格好で失礼いたします」


 苦笑する出島の言葉通り、父よりも出島の方が胸囲があるみたいだった。身長の差を考えればごく当然のことだが、ボタンをすべて閉じようとすると背中を丸めないといけないようで、仕方なく上のいくつかを開けて羽織っていた。


 「それ以上、閉じられないんですか?」


 うららが聞いてしまったのは、ボタンから出島の胸がちらちらと見え隠れするからだった。卑猥なことこの上ない。学校の同級生がへそを見せようが、テレビに出ている芸能人がこれ見よがしにセクシーなポーズを決めようが、洋画を観ているときにハリウッド俳優が惜しげもなくその鍛え抜かれた身体を晒そうが、今までまったくなんとも思わなかったというのに。変態美青年の出島の胸板にドギマギさせられるのは、妙に悔しかった。


 「うーん。あともうひとつくらいだったら、なんとかなるかもしれないんですけど……」


 出島が再度、ボタンを閉じようと四苦八苦するが、なんとかならないことくらいは傍観しているうららにも見て取れたので、

 「無理だったら良いですよ。仕方ないですし」

 「すみません。これ以上無茶をして、お父様のシャツを破ってしまっては本末転倒ですから」

 「あの」


 出島から少し距離を置いて、うららが思い切って声をかけた。


 「なんでしょう?」

 「なんで、わざと麦茶をこぼしたんですか?」

 「そうすれば、こうやってうららさんと二人きりでお話ができるかなと思ったからです」

 「たったそれだけのために?」

 「橋の下でも、同じようなことをおっしゃってましたね」


 シャツというよりかは、深いVネックのトップスをまとった出島が、くすりと笑う。


 「同じようなこと?」

 「たったそれだけのために、とうららさんはおっしゃいました。それって、うららさんと二人きりになることの価値が、それほどないだろうと思われているから出る発言ですよね。橋の下でも、そうでした。私ていどのために、とおっしゃっていました。うららさん。ご自分を過小評価されるのは、過大評価することと同じくらい、自分にとって利益のないことですよ」

 「過小評価しているつもりは、ないですけど」

 「けど?」

 「でも、その、なんていったらいいのか……」


 頭の中ではたくさんの言葉が渦を巻いているのに、それをいざ発声しようとすると、急に滞りが悪くなる。だから、いつも優柔不断みたいに見えて、まるで自分の意思がないように見えて、歪曲されて理解されたりして、そういうのが嫌だった。中学のときの文化祭だって、ちゃんとうららが自分の意見を言えれば、巫女のコスプレなんかをせずにすんだのに。もっと上手に言葉を使えれば、変に目立たずに、人目を集めずにコミュニケーションが取れるのに。


 「なんでもおっしゃってください。急がなくても、焦らなくても結構です。待ちますから、僕」


 あっさりと、出島が言う。その言葉は、帰宅時に飲んだ麦茶と同じ、すうっと体に染み入っていく。


 「なんでだろうって、思うんです」


 ゆっくりと、足元を確かめながら、うららが言葉を紡ぎだす。ドキドキする。でも、悪い気分ではない。


 「出島さんは、その、私のことを好きとか言ってくれますけど。でも、それって、なんでなのかなって。なんで私なのかなって。私は、普通の高校生だし、別に見た目もモデルみたいにキレイなわけでもないし、性格も、きついっていうか、可愛くないし」


 少しだけ口をつぐんで、出島の表情をうかがった。自分でも何が言いたいのかわからない。呆れているかもしれない。イライラしているかもしれない。でも、出島の顔はさっきと同じ、穏やかな微笑をたたえたままだった。うららの視線を受けて、優しく目を細める。


 「だから、その、出島さんの、お願いもそうなんですけど、好きだって言われても、いまいちよくわからないというか。私のどこを? って思ってしまうし、なんか、うさんくさいなって」

 「信じられませんか?」

 「そう……ですね。信じられないんだと思います。好きって言ってもらって嬉しいとか、そういうのの前に、なんで? って思っちゃうから」

 「あのね、うららさん。これは僕個人的な意見なんですけど」


 今までで一番、落ち着いた声音で出島が話し始める。ホストみたいなシャツの空き具合でも、そうやって喋っている様は、自分よりも年上なのだとあらためて思わせる。


 「ひとの気持ちを、相手の気持ちを100%理解することなんて、できないんだと思うんです。だから、好きだとか嫌いだとか、そんな気持ちを、その本人と同じように理解するなんてことは、ありえないんです。そして、それで良いんだと思います。大事なのは、その気持ちが本人にとってどれだけの価値があるかということと、その価値が千差万別なのだと認識すること。僕は、うららさんのことが非常に可愛く見えているので、うららさんがご自分を鏡でご覧になったときにどう思われるのか、正直なところ、理解できないと思います。きっと、うららさんがボサボサ頭で起きても、泣きはらした瞼をしていても、僕はうららさんを可愛いと思うはずですから。うららさんが、僕のことを嫌いでない限りは、僕はどれだけうららさんに邪険に扱われても、好きなんです。その気持ちが有るということ、存在しているということは認めていただけますか?」

 「それは、はい。理解はしてるつもりですけど」

 「でも、納得はされていないのですよね?」


 どうなのだろう、とうららは考えた。


 理解と納得には、どういった違いがそもそもあるのだろう。


 出島が好意を向けていることは事実だし、その本意や真意がなんであれ、何度も好きだと言われているのは本当のこと。でも、何がきっかけで、うららに好意を持つことになったのかはわからない。


 ただ、今の出島の話を聞いていると、その理由を知らなくても良いのかもしれない。ただ、そうなのだと、そうらしいと認めてしまえばいいだけの話なのかもしれない。


 「わからないです」


 素直に、うららはそう答えた。出島の顔がほころぶ。


 「そう、そういうところですよ。僕が好きなのは。真剣に考えてくださるでしょう? 僕が言うことを冗談だとかなんだとか言いつつも、ちゃんと真剣に聞いてくださるんですよね、うららさんって。そういうところが好きなんです」

 「頑固で理屈っぽいところってことですか?」

 「短所のように思えば、そういう言葉選びになりますね。誠実で親切ってことだと思いますよ、僕は」

 「はあ」


 生返事をするうららを愛おしそうに見つめてから、脱いだシャツを拾うと、「これ、どうしたら良いでしょう?」と聞いてきた。たぶん、父のことだから経緯を母に話してしまっているに違いない。そして、母のことだから、洗濯して返すと言うに決まっている。


 「そこの洗濯機に入れて……」


 入れておいてください、と言いかけてはたと気づく。最後にここを使ったのはうららで、そのときに自分の着ていたものを洗濯機に放り込んだ。今、出島がシャツを入れたら、うららが着ていた服を見られてしまうかもしれない。


 「……おきます、私が。貸してください」

 「? こちらの洗濯機ですよね? 僕が自分で入れれば良いんじゃないんですか?」

 「ダメです!」

 「どうして?」

 「ダメなものは、ダメです! とにかく! 貸してください、そのシャツ」


 手を伸ばしてシャツをもらおうとすると、怪訝な顔のまま、出島がそれを渡してくれた。手渡す瞬間に、シャツごと引き寄せられる。開いた胸元に、うららの頬がくっつく。


 「うららさん。僕、目標ができました」

 「目標? なんの話ですか。ていうか、離してください」


 さっき触れた腹部の感触が、否が応でも思い出させられる。速まる鼓動が、出島に聞こえていなければ良いのにと祈りながら、うららは抗議するが、無視された。


 「僕がうららさんのことをどれだけ好きか、納得していただけるまでお伝えし続けますね。時間は、たっぷりありますから」


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