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うららの家の、うららの家の応接間の、うららの父と一緒にいる、うららの目の前に立つ眉目秀麗な美青年は、紛うことなき、自称河童の変態電波さん、出島その人であった。
シャワーを浴びてせっかくさっぱりしたところだというのに、毛穴から汗が噴き出す気がする。もちろん、スポーツ時の汗のような爽やかなものではなく、腹痛をこらえて満員電車に揺られる際の脂汗、もしくは調子に乗って自転車でスピードを出していたらカーブを曲がりそこねそうになった時の冷や汗と同種のものだ。
「なんだ、うらら。出島さんと知り合いなのか?」
違うの、お父さん。このひと、バス停でただ出会っただけなのに、急に好きですとか言い出した挙句、自分は河童だとか言い出して、早く離れようとしたんだけど上手くいかなくて、隙さえあればすぐにセクハラしてくる完全に変態なの。しかも、あろうことか私にキスを迫ってきたから、蹴りをかまして逃げてきたの。早く忘れた方が精神的健康に良いと思っていたところなの!
と、言えれば良いのに。
「知り合いっていうか」
うららがしどろもどろに言うと、出島がその後を引き継いでくれた。うららと二人きりで話すときよりもよそ行きの、上品な発声で淀みなく答える。
「バス停で偶然出会ったんです。まさか、青本さんのお嬢様だったとは」
「バス停で?」
「ええ。ひどい通り雨に降られまして。偶然雨宿りに入ったバス停にお嬢様がいらっしゃいまして。少しだけお話をしただけですが……。大変大きなスイカをお持ちでいらっしゃったので、あとで届けましょうかと僕から申し出たんです。初対面で会った僕に、そのようなことは頼めないと遠慮なさっていたんですが、僕が無理やり、おつかいの役を買ってでました。すみません、差し出がましいことをいたしました」
「いやいや、良いんですよ。あんな大きなスイカ、持ってきてくださっただけでもありがたいです。家内が今、冷やしているところですので、夕飯のあとにでも、みんなでいただきましょう」
「え! 出島さん、夕飯うちで食べていくの?」
「なんだ、うらら。やけにくだけた話ぶりだな。いつもは人見知りをして、初対面のひととは猫を被ったみたいにしか話さないくせに。さてはうらら、出島さんのことが気に入ったな?」
先刻の母と同じ口調で、父がうららをからかう。それにマグマのような怒りと苛立ちを覚えつつも、表面上は素知らぬ顔を続けた。
「そんなこと、あるわけないじゃない」
「そんなことが本当だったら、光栄です」
にこにこと笑って、出島が言う。目から光線が出れば、焼き尽くしてやれたのに、とうららは悔しく思う。
「ははは。とりあえず、お座りになってください。うらら、お茶をお出ししてあげて」
「……はい」
渋々、といった表情は隠せずに、うららは緩慢な動きでフルーツの皿を、出島、父の順番に置く。麦茶のグラスを手にとって、これを出島の顔にかけられたら少しは胸がすくのにと思った。
「あっ」
出島の声が上がるのと、麦茶が出島の腹部にかかるのとが同時だった。グラスに入っていた中身は、白いシャツに引越しをしてしまって、残っているのは氷のみだ。
「なにやってるんだ、うらら」
呆れつつも怒ってはいない声で、父が頭を掻いてティッシュを取りに立ち上がる。父が背を向けた瞬間に、怒気を含んだ視線を出島に向けると、あろうことか彼はそれをウインクで受け止めた。人差し指を立てて、うららの唇に当てる。出島の体温が、うららの唇から染み込んでいく。
この指を、噛みちぎってやりたい。
「出島さん、とりあえずこれを」
「ああ、ありがとうございます。でも、お気になさらないでくださいね。それよりも、ソファとカーペットを汚してしまって申し訳ありません」
「いえ、大丈夫ですよ。拭けばなんとかなると思いますから。ああ、シャツがひどく濡れてしまいましたね。よろしければ、サイズが合うかどうかわかりませんが、私のシャツを使ってください」
「いいんですか? では、失礼ながら、ご厚意に甘えたいと思います」
申し訳なさそうに、出島が眉を下げる。悪いことをした子犬が、飼い主に許されようとしているときの顔だ。父は、こういう顔に弱い。案の定、父は出島への同情を隠そうともしないで、うんうんと何度も頷いた。
「じゃあ、うらら。脱衣所へ出島さんを連れていってあげてくれるか?」
「ええ? なんで私が!」
「なんだ、その言い方は。うららがドジしてこぼした麦茶のせいで、出島さんのシャツが濡れてしまったんだろう。ほら、夏とはいえ、濡れた衣服を着ていると体に悪い。早くお連れしてあげて。その間に、お父さんはここの片付けをしておくから」
「じゃあ、私が……」
ここの片付けをするから、お父さんが出島さんを脱衣所に連れて行ってあげればいいじゃない。
と、言うはずだったのに、出島がさえぎった。
「ありがとうございます、うららさん。ご親切にしていただき、本当に感謝します」
うららと父の間に立つと、その身長のせいで父からは出島の背中しか見えない。父は、機嫌の良い声で、
「うらら、ありがとう」とだけ言って、応接間の扉を開けて台所に向かってしまう。布巾かなにかを取りに行ったらしい。
「脱衣所に連れて行ってくださるんじゃないんですか?」
「濡れたシャツで風邪でも引けば良いんですよ、出島さんなんて」
「すぐにお父様が戻ってこられますよ?」
「もう! こっちです!」
いけしゃあしゃあと言う出島に掴みかかりたいのを我慢して、うららは脱衣所に向かって先に廊下を歩き始める。すぐ後ろから出島がついてくるが、やけに距離が近い。後ろを歩くというよりも、背後にぴったりとついてくるの方が正確だ。
「近くないですか?」
「うららさんを見失わないようにと思いまして」
なんせ、少し油断したら走って逃げちゃいますもんね。背後から耳元で囁かれる。ついでに、まだ濡れたままの髪を一房、触られた。
「ひゃっ」
「お風呂、入られたんですか?」
「…………」
「シャワーですか?」
「…………」
「じゃあ、お風呂に入るうららさんと、シャワーを浴びるうららさんを、事細かに想像しますね。今から」
「…っ、この変質者! しゃ、シャワーですっ」
「そうですか」
「着きましたよ」
脱衣所のドアを顎で指し示して、うららはそこから離れようとした。が、その肩に出島の手がかけられる。
「お借りできるという、うららさんのお父様のシャツは、どちらにあるのでしょう?」
「ああ……」
そういえば、さっき脱衣所に積み上げてあった、畳まれたままの洗濯物の中に、父のシャツがあった。うららは嘆息をして、脱衣所に先に入ると、目当てのパイルの中からシャツを探し始めた。こんなときに限って、家族全員分のシャツを洗濯したみたいで、どれが父のものなのかを判別するのに少し時間がかかる。ようやく見つけて、シャツを引っ張り出して振り返ると、とんでもない光景がうららを待っていた。
「!!!!」
心臓が跳ねて、口から飛び出して、ポロリと床に落ちるんじゃないかと思った。
「どうかされました?」
婉然と笑む出島は、濡れたシャツを脱いでしまっていて、その下にはなにも着ていなかったらしく、端的に言うと上半身裸の状態でうららの目の前に立っていた。
やはりと言うべきか、その整った顔と同じくらい整った身体が艶かしい。体育の授業で男子のお腹が見えることもあったから、初めて見るものでもないのに、出島の腹部はなぜかとても蠱惑的だった。女性とは違う体つきに、きれいについた筋肉、しなやかな肌。
「な、なんて格好をしているんですか!」
「え? だって、これから着替えるんですよ。普通じゃないですか?」
「だからって、なんで私のいるところで着替えるんですか」
「ここ」
下腹部を指差して、出島が少し、ほんの少しだけ意地悪そうに微笑む。シャツを手に持ったまま仁王立ちになっているうららを引き寄せると、半ば強引に、その手を自身の腹部に触れさせた。瞬間、うららの体がびくりと震える。
「痛かったなあ」
ゆっくりと、その場面を思い出させるには充分な間を持って出島が呟く。もちろん、うららが蹴りを入れたそのときの話をしているのだと、すぐに気づく。
「あ、あれは、だって」
「だって、なんですか?」
「あれは、不可抗力です」
「そうですか。不可抗力ですか」
「だって、そうでもしなきゃ、私」
「じゃあ、僕のも不可抗力ですよね」
「え?」
魅入られたように出島の腹部を見つめていたうららが、視線を上げれば、そこには出島の顔があった。脱衣所の蛍光灯が写り込んだ瞳は、緑の色が薄まっているようにも思う。湖のように色を変える瞳は、こんな状況であっても美しかった。
「怒ってらしたでしょう? 僕がわざと麦茶をこぼさせたから」
そうだ。たしかに麦茶をかけてやれば胸がすくかと思ったが、まさかそんなことを実行に移すつもりなんて毛頭なかった。なのに、麦茶をテーブルに置くその瞬間、グラスの底に指をわざと引っ掛けてこぼさせたのは、出島自身だった。
「なんで、あんなこと」
「だって、そうでもしなくちゃ、僕は」
「僕は?」
「うららさんは、さっきなんておっしゃろうとされたんですか? だって、そうでもしなくちゃ、私?」
「言いたくありません!」
「じゃあ、僕も言いません」
「ずるい!」
「おあいこです。ずるくありませんよ」
「出島さんは、ずるいです!」
「しーっ」
応接間でやったように、出島が人差し指をうららの唇に当てる。言いながら彼の唇がすぼめられるのを見て、不覚にもドキドキししまう。
「こんなところ、お父様に見られたらなんて説明されるおつもりですか? 脱衣所で男性と二人っきり。しかも、裸の腹部に手を当てて」
「私の意思じゃありません、出島さんが」
「僕が? 僕はなにもしていませんけど?」
目を開いて、驚いた顔をしてみせる出島に殺気を覚える。しかし、悔しいことに彼の言うことは本当で、腹部に置かれた手は出島の手引きではなく、うららの意思でそこに留まっていた。そこから出島の体温が感じられるのが、心地よい。とは死んでも認めたくない。
「初対面の相手を蹴り飛ばして、いただいたスイカも放ってきたなんて知られたら、怒られちゃうんじゃないですか?」
「ちゃんと理由があれば、私の両親は理不尽に怒ったりしません」
「もちろん、そうでしょう。うららさんのご両親ですからね。でも、その理由で納得してくださるでしょうか」
「し、しますよ。きっと」
「試してみますか? 僕からも説明しますよ。僕側のお話を」
脳裏に、さきほどつらつらと能弁に嘘の説明をしていた出島の姿が浮かぶ。しどろもどろに答えた自分の姿も、思い出される。たとえ本当のことだったとしても、うららの説明はあまりに突拍子がないかもしれない。もし、言い淀んだりしたら、堂々と嘘をつく出島の方が真実味があるかもしれない。嘘をつくことを何よりも嫌う両親に、嘘つきだと思われるのは耐えられなかった。
「結構です。出島さんは、なにも言わないでください」
「いいですよ。そのかわり」
あっさりと承諾して、出島がうららの髪に触れる。声をぐっと潜めると、出島が悪魔のささやきを口にした。
「条件があります」




