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雨もしたたる良い河童  作者: 卯ノ花実華子
第二章 ひとつ屋根の下の河童
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 一心不乱に走りながら、いつ何どき出島に追いつかれたり見つかったりするかわからないと思い、できるだけいつものルートとは違う道を使ったり脇道や裏道を走って走って走り続けて、ようやく家にたどり着いたとき、うららは1年分の体育で使う力を使い切ったように感じていた。


 「ただいま……」

 それだけを言うだけで、喉がぜいぜいと音を鳴らす。裸足にローファーで走ったためか、かかとの上に靴擦れを起こしていた。脱ぐ際にそこが擦れて痛い。このまま玄関で倒れてしまいたかったけれど、とにかく喉が渇いた。カバンを床に落とす形で置き去りにして、引きずる足取りで台所へ向かう。


 「おかえり、うらら。どうしたの? 顔真っ赤だけど」

 「走ってきたから」

 「家まで?」

 「そう」


 目を丸くしている母に最小限の文章で答えて、冷蔵庫の扉を開ける。麦茶の入ったピッチャーを手に取ると、すぐさま母から「まだ冷えてないわよ」と声がかかったが、この際、そんなことはあまりにも小事だ。


 一番背の高いグラスを取って、なみなみと麦茶を注ぎ、一気に飲み干した。食道を通って胃に到達する感覚が気持ち良い。やっと一息つけたうららは、不思議そうに目をやりながら夕飯の用意をしている母に話しかける。


 「ちょっと、運動不足だったから」

 「だから、走ってきたの?」

 「そう」

 「こんな暑い日に?」

 「汗が出た方が、新陳代謝が良くなるとか言うから」

 「制服で?」

 「思い立ったが吉日っていうでしょ」

 「学校のカバン持って?」

 「そりゃ、学校帰りだったから」

 「それにしては遅くない? お父さん、今日は早く帰ってきてくれって言ってたじゃない」

 「ああ、ちょっと岡崎んちに寄ってたから」

 「俊くんとこに? 何してたの?」

 「ス」


 スイカくれたから、と言いかけてうららは口をつぐむ。そのスイカは今どこにあるかというと、出島に蹴りをくらわせたあの河辺にあるからだ。


 言えない。


 スイカをもらったんだけど、帰りに雨が降ってきて、雨宿りに寄ったバス停で自称河童の変態美青年と出会って、なにをどうしたらそうなってしまうのか、好きですなんて言われて、諦めてもらおうとしたら、これまたなんの因果か美青年を助ける羽目になって、助けようとしたらキスされて、でもあれはキスではありませんとか言われて、混乱しているところにやっぱりキスしようとか迫られて、初対面の男性の腹部に蹴りをかまして逃げた際にもらったスイカを置いてきちゃったんだ。


 なんて、口が裂けても言えない。


 「す?」

 「数学の、テストの話を、ね」

 「わざわざ俊くんちまで行って?」

 「お互い、数学が苦手だから、がんばろうねって」

 嘘だ。岡崎は、数学はそこまで苦手でなかったはず。

 「うらら、あんた……」

 キュウリを千切りにしていた手を止めて、母がにやにやと笑いかける。

 「なに」

 「もしかして、俊くんと付き合ってんじゃないの?」

 「はああ? 何言ってるの? 違うよ、そんなのありえない!」

 「本当に〜?」

 「本当! ていうか、岡崎に失礼だから、それ。どうやったらそんな解釈になっちゃうわけ。飛躍しすぎ」

 「なあんだ。うららにも初彼氏ができたのかなって、お母さん、喜んじゃったのに」

 「なによ、それ」


 ふくれっ面を見せると、母はまたキュウリに視線を戻す。その口元は微笑んだままだ。


 「お父さん、なんで早く帰って来いって言ったのかな?」

 もう一杯、麦茶をグラスに注ぎながらうららが尋ねた。

 「ええと、なんだったかしら。お客さんが来るとかだったと思うわ。誰だったかは忘れちゃったけど」

 「お客さん? お父さんに? 神社関係ってこと?」

 「そうじゃない?」

 適当な相槌を隠そうともせずに、母は頷いて見せる。

 水分補給をしたら、ずいぶんと気持ちはさっぱりした。が、反対に汗ばんだ自分の体が気になり始める。


 「ねえ、お母さん。夕飯の前にシャワー浴びても大丈夫? 私、すごく汗臭い気がする」

 「どれどれ」

 言いながら、母がうららの制服に鼻を近づけて、大げさに顔をしかめた。包丁を置いた手で鼻をつまんで、パタパタともう片方の手を顔の前で振る。

 「うらら、女子高生ともあろうひとが、そんな匂いじゃダメよ。夕飯までまだあと少しだから、今のうちにさっと入ってきちゃいなさい」

 「失礼な。そんなに匂ってないよ!」

 「口からにんにく臭を出すひとも、同じことを言うのよ」

 「もう! いいよ、シャワー入ってくるから。制服も、洗濯機に入れておいて良い?」

 「制服は、洗濯機じゃなくてカゴの方に入れておいてちょうだい。明日、クリーニングに出すから」

 「はーい」


 台所を後にして、脱衣所に向かう。洗面台の鏡で自分の顔をうつせば、たしかにまだ赤みのひかない顔は、全力疾走したときにしか見られないものだ。決して美しい顔ではない。なりふり構わず走ったせいで、髪の毛もボサボサだった。


 とりあえず、一難は去った。と思っても良いのかもしれない。


 毎日、いかに省エネルギーで生活しようかと考えているうららにとって、今日の1日はあまりにもイベントが多すぎた。


 今日はもう、早く寝よう。


 お客さんが来るという話だったけれど、それさえなければ、もうこのまま夕飯もスキップして布団にダイブしてしまいたい。それが叶わぬなら、せめてゆっくりとシャワーを浴びたい。


 言われた通り、制服はカゴの中に入れ、あとの衣服は洗濯機に直接放り込んで、浴室に入る。少しぬるめのシャワーを頭から浴びながら、やっと一息つけた。


 にしても、出島はやはり相当危険だ。インターンでこの村に来たと言っていたが、そのインターン期間が終わるまで、なんとしても彼と二人きりになるのだけは避けなければいけない。


 でもまあ、出島も、お腹にいきなり蹴りをくらわせるような相手に、わざわざ会いたいと思うはずもない。そもそも、あれだって正当防衛だ。出島を蹴り倒していなければ、今頃は、出島にキスを……。


 そこまで考えて、急に出島がキスではないと言い張るキスによく似たあれを思い出した。あれがキスだったのかキスでなかったのかはこの際置いておくとして、出島の舌がうららの口の中に入ってきたのだけは確かだ。出島とは、初対面だったのに。恋人でもなんでもないのに。成り行きとはいえ、あんなことをしてしまって心底恥ずかしい。この記憶は、抹消しよう。


 そうだ、なかったことにしてしまおう。人間には、そのために「忘れる」という機能がついているのではないか。


 ガシガシと頭を洗って、ゴシゴシと身体を洗って、ワシワシと顔も洗って、もう一度脱衣所に出てきたときには、出島の記憶も一緒に流されたような気分だった。


 パジャマに着替えようとして、来客のことを思い出す。さすがに、来客の前でパジャマというのもどうだろうかと思い直し、畳まれて、まだ部屋へ運ばれていなかった洗濯物の中から短パンとTシャツを出して袖を通した。


 浴室からの湯気が立ち込める脱衣所から逃げるように、タオルだけを首にかけて、うららはその場をあとにする。もう一度水分補給をしようと台所に向かって廊下を歩き始めたとき、居間の方から声が聞こえてきた。父の声だ。誰かと話しているらしい。ずいぶんと涼やかな美声の持ち主で、その声に聞き覚えはないから、きっとあれが今日の来客なのだろうと思う。


 「お母さん、お客さん到着したの?」

 「そうそう、今さっきね。あ、ちょうど良かった。これ、お父さんたちに持って行ってあげて」


 麦茶と氷の入ったグラス2つと、カットフルーツを載せた皿が2枚。母が盆を出してきて、それらを上に乗せる。うららは、自分の分の麦茶をグラスに注ぎ、一気に飲み干すと、気の抜けた返事を返した。


 「はいはーい」

 「お客さんの分から渡すのよ」

 「知ってるよ、そんなこと」


 こげ茶の木製の盆を持って、応接間の扉を開ける。


 いらっしゃいませ、とか言うべきだろうか? でもそれだと、まるでここがレストランみたいだ。どんな来客なのかも知らないし、変に子供が口出ししてはいけないかもしれない。


 「こんばんは」

 無難に挨拶だけを口にして、父を見て、そして美声の来客を見て、うっかり盆を落としそうになった。


 「おっと! うらら、大丈夫か?」

 父がとっさに立ち上がって盆を支えてくれる。「うん、大丈夫。ごめん、ちょっと、つまづいたみたい」うわ言の体で呟きつつも、うららは来客から目を離せなかった。


 「こんばんは」


 来客が立ち上がって、一礼をする。長い脚に細い腰、すらりと伸びた体躯につながっているのは、理想的な卵型の顔。さらさらと音がしそうな髪に、どこか緑がかったアーモンド形の瞳。すっと通った鼻梁に、桜色の唇。どの角度から見ても美しいその来客は、うららを見て、完全無欠の微笑みを浮かべた。


 「出島さん……?」

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