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雨もしたたる良い河童  作者: 卯ノ花実華子
第一部 第一章 その出会いは運命か?
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 手をこめかみにやって頭痛をこらえながら、うららは出島の真意を考える。


 今のがキスではないなら、いったいなんだと?


 「意味がわからないんですけど」


 それだけは言えたけれど、それ以上はもう言葉にできなくて、うららは出島の顔を見据えたまま口を閉ざした。依然として怪訝な表情だった出島だが、うららの頬に添えた手を滑らせて、指で唇をなぞる。


 ぞわぞわとした寒気に似た何かが、また腰の方から背骨を這い上がろうとする。こらえなければと思って、うららは体に力を入れた。


 「ああ、そうか。なるほど……」

 今度は意識的に指で唇の感触を味わいながら、出島が人の悪い笑みを浮かべた。


 「僕たちが必要としている洽雫(こうだ)を摂取するには様々な方法があるのですが、最も効率が良い方法がさきほどのものです。偶然ですね。キス、に似ていますから」

 「似てる?」


 じゃあ、さっきのは? やっぱりキスではなかったのか? じゃあ、キスって本来どういうものなのだ?


 うららの脳内を盗み見したのか、出島が答える。うららの下唇を引っ張って、軽く口を開かせながら。


 「試してみますか?」

 「っ、結構です!」

 「残念。僕は、試してみたいですよ? うららさんと、キス」


 指を唇から首筋へと下ろしながら、出島が耳元で囁く。こらえたはずだった寒気に似た何かが、またしても背筋を徘徊するのを感じて、うららは必死にもがいた。


 「あ、あの! そろそろ立ち上がりませんか?」


 話を強引に逸らせば、出島は嫌がる風でもなく、

 「そうですね」

と、すんなりと立ち上がってしまう。その足取りにも不安げなところはなく、とにかく出島が元気になったことだけは確かなようだと思って、うららは己の置かれた状況も鑑みずに安心した。今まで、出島の体温に触れていた場所がその熱を失って、寂しいような感覚に陥ったが、それはきっと扇風機の風が当たらなくなると途端に暑さを感じるのと同じことだ。同じことに違いない。


 「どうぞ」

 差し伸べられた手をおずおずと握って、うららも立ち上がる。出島の手のひらは相変わらずどこかじめっとしていたけれど、それに指が触れるとホッとした。


 「大丈夫ですか? 初めて洽雫を取られた方は、一時的に貧血症状のようなものが出るんですが、頭がくらくらしたり、吐き気がしたり、頭が痛くなったりする場合もあります」


 心配そうにうららを気遣う出島は、この瞬間さえ切り取れば、うららが理想と掲げる王子のような立ち居振る舞いだったからこそ、そうではないと知ってしまった今、ひどく残念な気持ちを抑えられない。


 どうしてこのひと、変態なんだろう。変態って、先天的なものなのかな。後天的なものなのかな。治るものなのかな。


 「どうしました? そんなに見つめられたら、キスしても良いというサインかと思っちゃいますよ」

 「ち、違いますよ! 出島さんは、どうしてそんなに救いようのない変態なのかなって悲しく思ってただけです」

 「お褒めにあずかり光栄です」

 「褒めてません。ていうか、会話が噛み合っていません」


 雑草の上に転がっていた水筒を拾って、出島がうららに手渡してくれる。お礼を言ってカバンの方まで向かい、出島を振り返った。少しシワがついてしまったパンツに、雑草がところどころついた白いシャツ。そこから伸びるうなじは涼やかで、立っているだけなのに、しかもここはど田舎の河辺なのに、一流ブランドのカタログ写真のよう。


 つくづく、残念なひとだな、出島さんって。


 パンツとシャツにくっついた草を払っていた出島だが、背中はやはり見えにくいらしい。


 「取ってあげましょうか?」

 「ありがとうございます」


 夕暮れ時の家に灯りがともるように、顔を輝かせて出島がくるりと背を向けた。細身に見えるのに、こうしてみると意外とその面積が広くて、男女の体の違いを実感させられる。うららよりも15センチは高いであろう出島の背中の上の方についた草を払うには、手をしっかりと伸ばさなくてはいけなかった。


 「はい。終わりました」

 「ありがとうございます、うららさん。お優しいですね、うららさんは」


 背中越しに頭だけをうららに向けて、出島が言った。


 「は? いや、別に。普通だと思いますけど」

 「そんなことないです! うららさんは、お優しくて可愛くて、健気で誠実で、親切で色っぽいです」

 「え、なんか最後の一言、おかしくありません?」

 「おかしくないです。真実ですから。ご自分でお気づきになっていないのが不幸中の幸いというか、僕としては気が気じゃないというか。うららさんがお気づきでないからこそ、今こうやってその色気を垂れ流してくださっているので、僕はその恩恵にあずかっているわけですが、それは逆にいうと、他の男性の方の前でもそうやって過ごされているということですからね。僕以外の男性が、うららさんの色気に気づくだなんて、そんなこと。全世界の男性を抹消したい気持ちになります」

 「怖いです。怖すぎます。私ていどのためにそんな大それた希望を抱かないでください。迷惑です」


 出島にはさっき、大丈夫だと伝えたけれど、やっぱり少し頭が痛い。それが洽雫を取られたせいなのか、出島からくるストレスのせいなのかは定かではないが。こめかみに手をやってため息をつくと、なぜか出島の両目が細められる。


 「そう、そういう仕草です」

 「へ? なんの話ですか?」


 電光石火の動きで、出島がうららを抱きすくめる。腰にしっかりとあてられた手は、抱きしめるというよりも離さないといった意思表示のようだ。またしても指でうららの唇をなぞりながら、出島が熱っぽく囁いた。


 「やっぱり、試してみませんか?」

 「な、なにを……?」

 「キス」

 「は? ちょ、え、ちょ、ちょっと! 出島さん!」


 動物ドキュメンタリーでやっていた、獲物を草陰から狙う大型ネコ科の目をしている出島に、うららは本能的な恐怖を覚える。きっと自分は、サバンナを駆けて逃げ惑う草食動物の目をしているのだろう。


 力では敵わないことなど、わかりきっている。だからといって、このままにしていれば出島の思う壺なのも、明白。


 やらなければ、やられる。


 渾身の力を込めて、うららは右足を出島の下腹部に当てて、そのまま足を突き出した。まさか攻撃されるとは思っていなかったのか、出島の体のバランスが崩れ、腰に当てられていた手が離れる。蹴りをしたその反動と、腰から手が離れた瞬間を使って、うららは出島から大きく距離を開けることに成功する。


 少し斜面になっていた場所でバランスを崩したために、出島はたたらを踏むことになった。


 「そのまま倒れちゃえ、この変態河童!」


 捨て台詞を残して、脱兎のごとくうららは走り去る。カバンだけはかろうじて回収できたが、スイカを忘れてきたことに気づいたのは、河から離れて数分経ってからだった。

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