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雨もしたたる良い河童  作者: 卯ノ花実華子
第一部 第一章 その出会いは運命か?
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 出島が、柔らかく微笑んだ。少し話ができるようになったとはいえ、まだ辛そうだ。それを押し殺して、弱々しく口を斜めにする出島は、健気で不憫で、憐憫の情を大いに誘う。うららもご多分に漏れず、心中でなんとかして出島の症状を緩和しなくてはと決意を新たにした。


 「で、私はどうしたら良いんですか?」


 尋ねると、出島が片手を伸ばしてきた。ちょうど、ひそひそ話をするときのような仕草だったので、何も考えずにうららはそちらの方へ誘われるように顔を近づける。


 と。


 あんなに弱っていたように見えた出島は、うららの後ろ頭にその片手をかけて、ぐいと自分の方へ引き寄せた。


  何が起こっているのか、出島が何をしようとしているのか理解する暇もないままに、うららは胸元に出島の頭を抱えたまま、そこにある形良く鎮座している唇に自分のそれを押し付けることになっていた。


 人間、あまりに突拍子もない出来事が起こると、反応できなくなるらしい。

 どれくらいの間、出島の唇に自分のそれが触れていたのかわからない。ただ、案外と冷たいその感触や、おおよそ普通の生活では見られないくらいの近距離で見る出島の肌の質感に、ようやくうららの脳が現場を把握したようだった。


 ついで襲ってくるのは、パニックの波。


 「!」


 まずは出島の頭を抱えた腕を離した。出島の頭を落としてやろうという魂胆ではもちろんなく、ただ、反射反応ともいうべきか、急に眼前にあらわれた虫から身を逸らすように目をつむるのと、同じ。ただ、抱き上げたときとは違って、出島の頭はその意思でそこに留まることを選択している。引き離せない。離した腕を、出島の肩にやってひっぺ剥がそうとしたら、出島の手がその手首を掴む。


 「出島、さ……」


 そのあと、何を言おうとしたのだろう? 離して? 何をしているんですか? 自分が何を言いたかったのかはわからないけれど、結局、それを口にすることも叶わなかったのだから、同じことなのかもしれない。


 一瞬だけ出島の唇が離れた隙に、それだけを言ったけれど、また出島にそれを塞がれてしまう。そして、あろうことか、言葉を紡ごうとうっすらと開いた口から、何か柔らかい、唇とは違う何かが侵入しようとしてくる。


 それが何なのか、わかった方が良いのか悪いのか。そんな判断も出来ないまま、その侵入者は優しく、でもある種の頑固さを持って、うららの口腔への道を諦めていないようだった。


 歯をしっかりと噛み合わせて、ぎゅっと目を瞑る。見えていることが怖いだなんて、想像もしていなかった。あまりにも近くにある出島の瞳と、万が一見つめ合うようなことがあったら。なんだか、自分が自分でなくなってしまうんじゃないかと怖くなって目を閉じた。


 誤算だったのは、目を閉じて出島の瞳から逃れれば、唇に与えられている刺激がより敏感に感じられることだった。うららの頭を抱きかかえる出島の手のひらは大きく、すっぽりとそれを包み込んでいて、後ろに動くことは叶わない。


 噛み合わせた歯列を、侵入者がそっとなぞる。それは初めて体験する感覚で、背中からぞわぞわと何かが這っていくように思えた。侵入者は、丁寧に、でも執拗にうららの歯の表面をなぞり続ける。あくまで優しく。あくまで繊細に。


 背筋を行き来する感覚に、耐えられない。眉根を寄せて、閉じられた目をもっとしっかりと閉じて、うららはぴったりと閉ざしていた上下の歯をリラックスさせた。侵入者は、先ほどまでと同じ優しさと柔らかさで、開いた扉からその身を滑り込ませる。うららの口腔にある柔らかいそれに、侵入者は挨拶をする。そっと、そっと。


 真っ暗闇の中で、侵入者が与える刺激だけが、どんどんと肥大していく。背筋の粟立ちは依然収まる気配もなく、こんなことなら歯で侵入者を噛んでやれば良かったと、うららは後悔した。


 出島さんといると、こんなのばっかりだ。

 出会ってまだ数時間しか経っていないのに、このひとは、私を振り回す。


 バス停で挨拶をしたときも、スイカを運ぼうと提案されたときも、自分は河童だなどと言われたときも、橋の下で休もうと言われたときも、うららが持っているもので出島の症状を軽くできると教えられたときも、みんな同じ。うららのまだ短い人生の中で思いもよらないような言動なのに、よく考えれば怪しいだけなのに、なぜか断れない。今だって、そう。もっと、力いっぱい抵抗すれば良いだけの話なのかもしれない。でも、どうしてかそれができない。


 振り回されて、流されて、翻弄されて、悔しくて嫌なのに、逃げようという気が強く起こらない。


 私、頭おかしくなっちゃったのかもしれない。


 そう思う間も、出島は決して無理強いをしない強引さで、うららの頭を抱えたままだった。侵入者と同じくらい繊細な手つきで、髪を弄われる。頭皮には触れない程度の動きで、指で髪を掬われると、全身の力が抜けていくようだった。


 気持ち良い。


 決して言葉にして思ったわけではなかったけれど、そのとき、うららが感じていたのは紛れもない心地よさだった。脳に霧が舞込める。花びらのごとくひらひらと、それは、うららの判断能力を鈍らせる。眠りに落ちる半瞬前のような、気だるさと安心感。


 そんな微睡みに、身を委ねてしまった方が楽なのかもしれない。ふとそんなことを思っていたから、侵入者がいなくなっていたことにも気がつかなかった。


 「…………?」


 まだうららが小さかったころ、縁側で、祖母に膝枕されて眠ったことがあった。眠ったつもりなどなかったのに、気づいたら夢の国に行っていて、祖母に優しく揺り動かされた目を覚ましたとき、そこがどこなのかわからなくて、わからないから不安で、不安なところに祖母の手があって、ひどく泣いたことがあった。何を泣くことがあるんだい、と笑う祖母に、うららは散々泣きじゃくった。


 本当は、言いたかったのだ。おばあちゃんがいてくれて嬉しい、と。幼いうららには、それを正確に伝えることもできず、涙が止まるまで、祖母はうららの頭を撫で続けてくれた。


 「で、じま、さん?」


 だんだんと明瞭になる視界に、出島の顔があった。さらさらと音がしそうな髪に、どこか緑がかったアーモンド形の瞳。すっと通った鼻梁に、桜色の唇。それらすべてが、うららを一心に見つめていて、うららと目が合うと痛みをこらえるように出島が微笑んだ。


 「ごちそうさまでした」

書きながら、「うららちゃん、気持ち良いんだ。へえ…。気持ち良いんだ…。へえええええ……」と思っておりました。(おっさんか)

少しでも、悶えていただければ幸いです。

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