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「出島さん? 出島さん? しっかりしてください、出島さん!」
ぐったりとしたままの出島を腕で支えるには、うららには筋力が足りなかった。己の体も出島の体重に引っ張られそうになって、なけなしの力を振り絞るが、そう長くは持たないことは明白だった。とりあえず、カバンは地面に置きっぱなしにしたままで、出島のシャツの肩のあたりを掴み、なかば引きずるように元いた橋の下を目指す。
日陰に上半身が入るくらいまではなんとか引っ張ってこられた。肩を上下させて、荒い息をしながら、うららは額に浮き出てきた汗をぬぐった。出島の肌はもともと色白ではあったが、今や不健康な色白、というかゾンビのような顔色になってきている。
「出島さん? 出島さん? 聞こえますか?」
出島の頬をぺちぺちと叩きながら、声をかけてみるが、苦しそうに閉じられた瞳が開くことはない。胸の方を見ると、かすかに上下しているので、生きて呼吸はしているらしい。
「出島さん! 出島さん!」
もう一度、今度はさっきよりも強く頬を叩いてみた。
「……ん……」
顔をうんと近づけないと聞き取れないくらいの声量ではあったが、出島が反応する。吐息まじりの声が、色っぽい。具合悪いのに色っぽいって、どういうことなんだ。
「ほら、そんな色気振りまいている余裕があったら、目を開けてください。お水飲みますか?」
そういえば、カバンの中に水筒が入っていた。あらかた飲んでしまったけれど、少しだけ残っていたかもしれないと思い出し、小走りにカバンを取って戻ってくる。
ワンタッチキャップの水筒なので、出島が体を起こしてくれないと飲めない。
一度大きく息を吐いて気合を入れると、うららは片手を出島の首の下に、もう片方の手で出島の腕を掴むと、渾身の力を込めて彼の上半身を引き上げた。引き上がったその体を支えるのも、結構な重労働だ。首のすわっていない赤ちゃんでもあるまいし、頭部が後ろに倒れて首が折れるなんてことはないだろうが、頭がぐらぐらされても困る。手ではなく腕を使って出島の首を支えると、なんとか安定した。
空いている方の手を伸ばして、水筒を取ると、ボタンを押して開ける。飲み口を出島に近づけて、
「出島さん。口、開けてください。とりあえず、お水でも飲みましょう」
と声をかけた。
うららはまったく気づいていないが、手ではなく腕を使って出島の首を支えると、必然的に出島の頭を自分の体にもたれかかさせる姿勢になる。顔は、うららの胸の上だ。少年漫画などでたまに出てくる、ラッキースケベと呼ばれる体勢に酷似している。
「ほら、出島さん?」
首に回している方の手で出島の肩を叩くと、ようやくうっすらと目を開けた。
「うら……ら……さ」
「お水です。飲めますか?」
「……これ……」
「これ? ああ、水筒のことですか? 私の水筒です。もうほんと、あとちょっとしか残っていないので恐縮ですけど」
「…………つ…………ス」
「え? なんて?」
息を盛大に漏らしながら出島が話すので、その大半が聞き取れない。うららは出島の口元に耳を近づけるようにして、出島が言おうとしたことを聞き漏らすまいとした。もしかしたら、水は飲んではいけないとか、貧血のように見えるけれど貧血ではなくて、なにかの発作かもしれない。重大な情報を聞き逃しては、出島の命に関わる。
「間接……キスです……ね。へへ……」
「水筒の中身じゃなくて、水筒そのものをその口にねじ込んであげましょうか」
蚊の鳴くような声で、ごめんなさいと謝ったのを聞き届けて、うららは水筒を出島の口に差し出した。中に残っていたわずかの水分は、無事、出島の口腔を通り、喉を通り抜けていく。
「すみません……」
「いえ、それはいいですけど。大丈夫ですか? 貧血ですか?」
掠れた声ではあったものの、さっきよりもしっかりと発声した出島に、うららは内心大いに胸をなで下ろす。もしかしたら、病院に行かなくてはいけないかもしれないし、この状況だったら、救急車を呼ばないといけないかもしれない。その場合、きっとうららが出島の症状を説明しなくてはいけないだろうから、今のうちに聞いておこうという魂胆だった。
「貧血……というよりかは、熱中症に近い症状、です」
「熱中症……。えと、塩をなめると良いんでしたっけ」
テレビで得た知識を頭の中でかき集めながら言うと、出島はやんわりとかぶりを振った。
「いえ……。太陽の光にさらされて、頭の皿が乾いちゃっただけです」
「え……」
「嫌そうな顔しないでくださいよ。本当なんですから。僕たち河童には、頭の上に皿があって、それが乾くと熱中症に似た症状を引き起こし、最悪の場合は死に至ります」
「出島さん、死んじゃうんですか?」
「死にはしないと思いますが、結構干からびているので、危ないです……」
触ったら分かりますよと言うので、こわごわ、出島の頭のてっぺんに手を伸ばせば、そこには確かに、頭蓋骨とは違った感触の平たい何かがあった。そう、ちょうど皿のような。そしてそれは、出島の言う通り、干からびているみたいにカサカサとした手触りで、まるで死んだ珊瑚のような。
「このタイミングであえてもう一度聞きますが、出島さんって本当に河童なんですか?」
「……ふふ。はい。残念ながら、僕は河童ですよ」
うららは口をへの字にして、眉を下げて、大きなため息をついた。
「残念ですよ。だって、本当っぽいですもんね……」
「信じていただけて、光栄です」
「で? 頭の皿が乾いたら、どうやって対処するんですか」
言いながら、ふと、子供の頃に見た妖怪の出てくるアニメを思い出した。たしか、あのアニメにも河童が出てきて、生きるためになにかを必要としていたような。
「……尻子玉?」
「ご名答です。ただし、僕らはその名では呼んでおりません。僕たちは、洽雫と呼んでいます」
「コウダ……?」
「はい。通常、少しくらいの皿の渇きであれば、水分補給でなんとかなるのですが、このレベルになってしまうと、洽雫が必要になります」
「その、コウダっていうのは、どこで手にいれるんですか?」
「それは、うららさんさえ承諾してくだされば、うららさんが僕に与えることのできるものです」
「え? それは、私がすでに持っているものってことですか?」
「そう、ですね」
歯切れ悪く出島が答えるが、喋るのが辛くなってきたのかもしれない。
目の前に具合悪そうにしている美青年が、本当に人外の生き物だということを認めるのはまだ抵抗はあったが、物的証拠がそれを雄弁に語っている今、河童の存在について論議するのは気が引けたし、何より、白い顔のままの出島に同情を禁じ得ない。それに、元はといえば、炎天下の中立ち尽くさせたのはうららであり、その状況を招いたのはそもそも出島ではあったが、うららにも一因がなかったとはいえない。
有り体にいえば、うららは眼前に横たわる出島の不調に、責任感を感じていた。
だから、そこまで深く考えずに口に出してしまったのだ。あまり逡巡していると、また出島の容体が悪化するかもしれないと思ったから。
「わかりました。いいですよ」
「うららさん……?」
不安そうにうららを見上げる出島は、おそるおそる差し出された手のひらから餌を食べるシマリスのそれに似ていて、うららは必要以上に頼もしく頷いてみせた。
「出島さんが具合悪くなっちゃったのは、私の責任でもありますし、もし私がすでに持っているもので出島さんの体調が良くなるんだったら。いいですよ。あげます」
「ありがとうございます」
そう言って繊細な微笑みを浮かべる出島は、餌をもらったお礼にふさふさの尻尾を触らせてくれるシマリスのそれに似ていたので、うららはつい、
「お役に立てて嬉しいです」
などと口走るのだった。




