プロローグ
ずいぶんと前に「雨もしたたる良い河童」というタイトルで連載していたものを、基本設定そのままに書き直してみました。前作を読んでくださった方も、初めて読んでくださる方も、楽しんでいただけますよう。
最後の段ボール箱にガムテープで封をすると、白シャツの青年は立ち上がってそのがらんとした部屋を見回した。
白に限りなく近いベージュのパンツのポケットに両手を突っ込んで、どこか感慨深く独りごちた。
「結構広かったんですね、この部屋」
「お前の部屋がいつも散らかりすぎなんだよ」
「賢介」
「よう」
賢介と呼ばれた青年は、対照的に全身黒づくめだった。
手にはコンビニの袋をぶら下げていて、そこからコーヒーを取り出す。
「ほら」
「ありがとう。あ、挽きたてのコーヒーなんですね」
「こっちのが美味いから。匂いも良いし。缶コーヒーとは違うよな、やっぱり。食うか?」
「いただきます」
パンとおにぎり、どっちが良い?と聞かれて、片手に持ったコーヒーを見て、パンを取る。
「浩平ちゃんとは付き合い長いけどさ」
プラスチック製のコーヒーの蓋を開けて、ふうふうと冷ましながら賢介が言った。
「今回のこれは、一番びっくりしたわ」
「そうですか?」
この友人が、誰に対しても丁寧語を使い始めたのは、一体いつ頃からだったか。
長い付き合いを、ふとなつかしく思い出しつつ、賢介は、
「そりゃそうでしょ。
エリート街道まっしぐらだったのに、異動願いとか出すか? 普通。
しかも、あんな理由で」
「辞職じゃなくて、異動ですからね」
「それだって、上層部に散々しつこく言ったから受理されただけだろ」
「それと、賢介が僕の仕事を引き継ぐって上層部にかけあったからですよね」
浩平は、パンを頬張って微笑む。
「なんだ。知ってたのか。相変わらず情報通だねえ、浩平ちゃんは」
そういう細やかな気の遣い方をする男なのだと、浩平はよく知っている。
「賢介には言われたくありません。僕の異動願いだって、どこから聞きつけてきたのか」
「そりゃまあ、色々とね、俺に親切にしてくれるひとってのはいるからさ」
舌でコーヒーの温度を確かめてから、ウインクを浩平によこす。
「で、引越し先は?」
「実は、まだ決まってないんです」
「おいおい、大丈夫かよ。明日からもう勤務だろ?」
「そうなんですけど」
「ちょっと待て。じゃあお前、この荷物どうするつもりなんだ?」
「え? 賢介のところに置くつもりですけど?」
「お前なあ!」
玄関はもちろんのこと、今二人がいる部屋の隣の部屋や廊下に敷き詰められた段ボール箱を指差して、賢介が言う。
「この量の段ボール箱を俺んちに置くってか?」
「そうですけど?」
「そうですけど? じゃねえよ。嫌だよ!」
「なんでですか?」
「浩平ちゃん。俺たち長い付き合いじゃん?
だから、何度もこれ言ってるけどさ」
浩平の肩に手を回し、耳元で艶っぽく囁く。
「お前、ひとの事情を考えなさすぎ」
「でも、賢介の部屋に置いてもらえなかったら、僕はこの荷物をどうしたら良いんですか?」
同情を誘う子犬の目つきで、すでに大きい瞳をさらに見開いて、ご丁寧に涙ぐんでみせる浩平を賢介は無表情に見つめ返した。
その手には乗らないという意思表示だ。
ちっ、と小さく浩平が舌打ちする。
傍にあった携帯が震える。肩に回されたままの手を振りほどいて、浩平は通話ボタンを押した。
「ああ、女史? え? 今どこですか? そう。
いや、タイミングはばっちりです。
僕だけじゃ大変なので、賢介が荷物を下ろすのを手伝ってくれるそうです。
女史は、そこで待っていてください」
「お前ね」
言いかけて、ため息をつく。
まだ熱いコーヒーを口に含んでから、賢介が立ち上がる。
「で、女史はどこにトラック停めてるの」
「このマンションの前です。
三十分くらいなら、ご近所の方にも迷惑にならずに済むはずですので、テキパキ取り掛かりましょう」
「浩平の荷物だけどな」
「賢介のところに運ぶ荷物です」
しばし、お互いを笑顔で見つめあった。
もちろん、空気はよろしくない。
が、それもまたいつものこと。
「異動の理由は、やっぱりあのひとなのか」
段ボール箱を三つほど軽々と抱えて、賢介が聞いた。
「それもありますけど……」
浩平は、抱えていた箱を一旦おろして、玄関のドアを開けた。
夏の爽やかな風が入ってくる。リネンの白いシャツの襟がはためく。
雲ひとつない空を見て、水分補給を忘れないようにしなければと自分に戒める。
この間のような事態は回避しなくては。
「対薫に出会ってしまったから、という理由の方が大きいかもしれません」
「はあ? 対薫? それ本気で言ってる?
浩平、お前頭大丈夫か? あれは都市伝説だよ」
「出会ったことのない賢介の意見です」
「出会ったからって分かるのか?」
「分かります。というか、分かりました」
足で玄関のドアを押さえている脇を、賢介が通る。
すれ違い様、脚を蹴られた。
「ま、せいぜい頑張って〜? 浩平ちゃん」
「言われなくても頑張りますよ」
そう。だって、出会ってしまったのだから。
もう、後には戻れない。