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未来への咆哮⑶

 ナイフのように鋭い、切れ長な目。球児らしく真っ黒に焼けた肌に浮かぶその双眸が和輝を見下ろしている。ピッチャーである彼と対峙するバッターは何時だってその威圧的な双眸に恐れ戦く。

 味方の時は頼もしかったけれど――。



(今はもう、敵か)



 諦めにも似た気持ちで和輝は悟った。赤嶺の冷たい眼差しがそう言っている。お前はもう敵だと。お前が憎くて堪らないと。だけど、それでも。



「久しぶりだな、陸」



 和輝は、笑った。だが、何時もの笑みは引き攣っていた。

 赤嶺は苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちした。



「ああ、顔見るのは卒業以来か。……まともに話をするのは、引退試合以来か」

「そうだ、ったね」

「そうだよ。なあ、和輝。何で、俺の顔を見ない」



 和輝は言葉を失くした。知らず知らずの内に和輝は目を背けていたことに気付いたと同時に、目の前の赤嶺に底知れぬ恐怖を感じていたことを理解した。

 怖いのだ。嘗てのチームメイトである友達が。



――裏切り者



 はっきりとそう罵った赤嶺を、和輝は一度だって忘れたことはない。あの言葉は和輝にとって心臓に巻き付いた茨だ。過去を振り返ると同時に胸に食い込み傷付ける。

 責める権利も、弁解する意味も無い。だけど、傷付かない訳じゃない。幾ら自分が悪いと解っていても、そう言われるのも仕方が無いと知っていても、胸に突き刺さった無数の棘を無かったみたいに笑うことなんて、出来ない。



「なあ、何で?」



 そんなことを、訊かないでくれ。これ以上、俺を惨めにしないでくれ。

 和輝は固く目を閉ざした。だが、赤嶺は食い下がる。



「なあ、答えろよ。和輝」

「――もう、止めてくれよ……!」



 絞り出すように零した和輝の言葉の真意が、赤嶺には解っただろうか。細い肩に伸ばし掛けた掌は虚空を掴み、暫しの逡巡の後に引込められた。

 目頭が熱い。このまま何かが零れ落ちてしまわないようにと、和輝は拳を握った。けれど、赤嶺は言った。



「嫌だね。俺は訊きたい。お前が顔を上げられない理由も、俺の顔を見ない訳も、……晴海を選んだお前の覚悟も」



 握られていた拳が軋む。

 また、否定される。お前がいけない、間違ってる、許されない。誰かの望む天才の弟以外の自分は許されない。俺が殺されていく。

 俺に、死ねって?



「言わないなら、それでもいい。そうやって全部抱え込んで、勝手に苦しんで傷付いてりゃいい」



 突き放すように言い放った赤嶺の顔は見えない。



「だが、そうすれば自分以外の誰も傷付かないで済むと思ってるなら、一年前から全く成長していないことになるな」



 ぶっきらぼうな言い方も、何の感情も窺わせない仏頂面も昔と何も変わらないのに、目の前の嘗てのチームメイトが恐ろしくて和輝は顔を上げられない。蛇に睨まれた蛙はこんな気分なのだろうと、そう思うと自分がより惨めに感じられた。

 赤嶺にそんなことを言われなくとも、和輝は既に知っている。

 和輝は誰にも何も相談せず、晴海高校を選んだ。弱音や泣き言一つ零すことなく、仲間を信頼することも出来ずにたった独りの道を選んだのだ。自分を信頼してくれていた仲間は悲しかっただろうし、悔しかっただろう。裏切られることに怯えて和輝は仲間の信頼を踏み躙ったのだ。

 解ってくれ、だなんて言えなかった。信じていいか、とも訊けなかった。



(だって、俺は、ヒーローだったから)



 蜂谷祐輝の弟というネームバリューに負けないように、努力を重ねた。仲間から向けられる期待や羨望に応え続けた。何時の間にか蜂谷和輝という虚像が出来上がっていた。

 その期待に応えられないことが、彼等に対する裏切りだと思っていた。事実、そういう人間もいただろう。



(完璧なヒーローになりたかった)



 完璧なヒーローでなければ許さないという仲間もいた。その期待に応えられるだけの実力や才能も、和輝は持ち合わせていた。けれど、それは同時に和輝自身を殺すことになる。

 報われなかった努力も、届かなかった願いも、弱さも恰好悪さも全部含めて蜂谷和輝という人間であることを、知って欲しかった。成功もすれば失敗もする一人の弱い人間であることを、解って欲しかった。

 そして、和輝の最大の失敗は、「それでもいいよ」と言ってくれる仲間に気付けなかったことだ。周り全てを敵と思い込んで信頼を踏み躙った和輝を、裏切り者と蔑んだ匠や赤嶺は正しい。だから、責める権利も否定する理由も正当だ。



「俺のこと……今も恨んでいるか?」



 掠れるような声で、和輝が言った。声の震えは隠しようがない。

 そんなこと、訊かなくても解っている。恨んでいる筈だ。憎んでいる筈だ。ぎゅっと瞼を固く閉ざし、死刑宣告を待つ心地で和輝は耳を澄ました。

 赤嶺は、言った。



「どうして?」



 言葉の意味が解らず、和輝は目を開けた。俯いた視界に赤嶺の大きな影が映る。



「お前が覚悟して決めた道なんだろ。俺が口出しすることじゃない」



 終に和輝は顔を上げた。無表情の赤嶺が、背中に朝日を浴びて立っている。昔と変わらず、揺るがない。



「後悔してるのか?」



 和輝は静かに首を振った。

 それならいい、と素っ気無く言った赤嶺が引き返そうと半身になる。和輝は呼び止めた。



「陸!」



 赤嶺は不機嫌そうに目を細め、言った。



「俺はお前を認めた訳じゃねぇ。お前の選択もな」

「……うん」

「見ていてやるよ。お前が何処まで行けるのか」

「うん……!」



 頷いた和輝を一瞥し、赤嶺は自身の拳を見詰めた。

 約束だ、と。嘗て拳をぶつけ合った仲間――和輝と見比べる。だが、固く結ばれた和輝の拳は解かれることも向けられることもない。当然だ。自分達はもう仲間ではなくなった。

 知らなかった訳じゃない。この世の不幸など知らぬように明るく笑っていたこの少年が、その胸の内にどれ程の苦痛を抱えていたのか、知らなかった訳じゃない。ヒーローとしての存在を求められ、期待に応え続けた彼の重圧を知らなかった訳じゃない。

 悲しいことを悲しいとも言えず、誰のことも信頼出来なかった彼が、誰も彼のことを知らぬ場所で新たな道を選らんだ気持ちが解らない訳じゃない。仲間に裏切り者と罵られて、携帯を川に投げ捨て、思い出の品全てを目の届かぬところへ押し込んだ気持ちが、解らない訳じゃない。

 だから、約束した。

 赤嶺は背を向けた。正面の朝日が眩しく、目を細める。



「和輝」



 背を向けたまま、赤嶺は言った。



「甲子園で待つ」



 一陣の風が吹き抜けた。それは何処か懐かしい匂いがした。

 赤嶺の声が、和輝には何時かの思い出に重なって聞こえた。



――何があっても、絶対にお前を独りになんかしない



 独りになんか、しない。

 背を向けた赤嶺は歩き出す。立ち止まることも振り返ることもしないだろう。朝日に向かっていく背中に、和輝は声を張り上げ叫んだ。



「ああ! 待ってろ!」



 赤嶺の後姿が、嬉しそうに見えるのは、気のせいではないだろう。







未来への咆哮・3








 HR開始のチャイムと、和輝が教室に滑り込んだのはほぼ同時だった。出席を取る教師が見計らったように和輝の名を呼び、学校中に響き渡る程の大声で返事をしたその様にクラスメイトが揺れるように笑う。穏やかな一日の始まりだった。

 自分の席に向かう和輝に、恨めしそうな目で箕輪が声を掛けた。



「よう、サボり野郎。お前がいないお蔭で、俺がたっぷり扱かれたんだぜ」

「そいつは悪かったな」



 からりと笑って、和輝は着席した。クラスメイトが茶かすように声を掛ける。賑やかな面々を担任が一喝すると共に授業開始のチャイムが響いた。

 一時間目の数学の用意を始めると、未だに恨めしそうな箕輪がじっと見詰めていた。



「……んだよ、箕輪」

「いや~? 妙に嬉しそうな顔してやがるから」

「ああ。……久しぶりに、友達に会ったんだ」

「へえ。それってもしかして、女の」

「男に決まってんだろ」



 箕輪の言葉を切り落として、和輝は溜息を零した。

 赤嶺は今頃、新幹線に乗っているだろうか。青樹に電話を掛け直していないことを思い出して携帯を確認すると、予想通り無数の着信履歴が残っている。

 中学の頃。仕事が忙しく家を空けがちだった父が息子を心配して携帯を持たせてくれた。決して火の車という訳では無かっただろうが、家計を気にして和輝も祐輝も殆ど携帯を使わなかった。誰にも電話番号もアドレスも教えていなかった。早朝に出掛けて夜中に帰宅する父に、これ以上の負担を掛けたくなかったのだ。だが、和輝が携帯を持っていることを知った青樹は、勿体ないと言ってことあるごとに携帯に連絡をした。

 電話代がどうとか、家の電話にしろとか。そんなこと考えたのはほんの最初だけだった。

 真っ暗な家に一人帰って来ると、決まって青樹から電話が掛かって来た。大した用も無い他愛の無い話をしている内に兄が帰って来て、和輝は安心して電話を切る。そんな毎日だった。



――何があっても、絶対にお前を独りになんかしない



 何でもない顔でいつも傍にいてくれた。当たり前のようにあった優しさと温かさを、終に失うまで気付けなかった。




(馬鹿だな、俺は)



 格好付けて強がって、弱い自分を守ってばかりだった。向けられる優しさに気付こうともしないで、敵意にばかり目を向け怯えていた。彼等はずっと、手を差し伸べてくれていたのに。



(強くなろう。俺を信じてくれる人の為に)



 拳を握る。肉刺と胼胝だらけの不格好な掌だ。

 甲子園で会おう、と。赤嶺は背中を向けて言った。次に会うときは甲子園だろうか。その時は真っ直ぐ向き合って拳をぶつけ合えるように、今の自分を誇れるように。



「和輝」



 携帯を開いていた手を止め、和輝は呼び掛けに応えるように顔を上げた。箕輪が忙しなく机や鞄を漁りながら言った。教科書を忘れたようだ。



「次の試合、大西高校だってよ」

「へぇ」



 終に教科書探しは諦めたらしい箕輪が、怠そうに椅子の背凭れに体を預けて言った。今日の朝練で発表されたのだろう。

 大西高校は昨年の夏大会はベスト8だった筈。四回戦ともなれば相手が強豪揃いになるのも当然というものだ。昨年の優勝校を打ち破った自分達を思えば、どんな相手も恐れるに足りない。

 興味無さそうに和輝が相槌を打った後、箕輪はちらりと一瞥して続けた。



「お前の先輩、いるみてーだけど?」

「俺の先輩?」



 橘シニアの先輩がいるのは当然だろう。何しろ地元だし、橘シニアは名門だ。強豪校にチームメイトがいるのは当然とも思うし、そんなこと一々気にかけていたら切がない。解っているだろう箕輪だが、その目は虚ろだった。教科書を忘れたことに対する諦めだけではなさそうだ。



「廣瀬耕也って人。覚えてる?」

「廣瀬――」



 教室の扉が開き、数学教師が教壇に上る。和輝の耳に、教師の声は届かない。



――好い気になってんじゃねぇよ!



 鼻の頭がムズムズする。鼻血が出るような気がして鼻を啜るが、血はおろか水すら出ていない。

 鮮明に思い出されるのは、敵意をむき出しにした睨み付ける目だ。お前を認めないと、呪うような視線。

 箕輪が言った。



「身長190cmくらいあるらしいぜ。星川の葛西もでかかったけど、それ以上ってちょっと想像出来ないな」

「ふうん」



 あの頃は170cmそこそこだったと記憶しているが、高校に入って随分と急激に伸びたものだ。中学時代と殆ど変らない自分の身長を恨めしく思った。

 出席を取る教師に返事を返し、和輝は問い掛けた。



「キャプテンは何て言ってた?」

「特に何も。いつも通りやればいいってさ」

「流石」



 全く恐れ入る。自分と変わらない低身長で、どんな相手にも臆することなく目の前の事実を冷静に受け入れ勝つ為の手段を探す。迷ってばかりの自分とは大違いだと、皮肉っぽく思った。



「先輩相手だと、遣り難いだろ」

「別に。俺は俺に出来ることをやるだけだよ」

「言うじゃん」



 箕輪が、白い歯を見せて悪戯っぽく笑う。隣で和輝も笑った。

 教壇から、教師の一喝が響く。弾かれたように二人は一斉に背筋を伸ばし、クラスメイトが木々のざわめきのように笑った。




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