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未来への咆哮⑵

 七回裏、二死満塁。二年前の夏だった。

 マウンドから聞こえる空気の抜けるような奇妙な呼吸音が、激しい蝉時雨の中空しく聞こえていた。鉄板の上で炙られているかのようなグラウンドで、灼熱の太陽に焼かれながら橘シニアは地元の強豪チームと練習試合を行っていた。

 前半戦は、誰もが橘シニアの勝利を確信する程、優位に進んでいた筈だった。その均衡が崩れたのは六回裏。橘シニアの勝利は投手の崩れと共に砂上の楼閣となった。連日続く猛暑と練習試合。グラウンドにいるだけで体力を削られるのに、その中でも最も高い位置で、たった一人で打者に向き合う投手の疲弊が並大抵のものではない筈だった。

 例え表情一つ崩さなくても、泣き言一つ言わなくても、黙って背中を向け続ける赤嶺の苦痛を解ってやらなければならなかった。

 ピッチャー交代の伝令がやって来た。赤嶺は死刑宣告を待つ囚人のような心地でその足音を聞いていた。このまま交代すれば、きっと抑えの投手は見事に無得点のままこの回を終わらせることが出来るだろう。そして、赤嶺はベンチで休んで回復出来る。そして、そして――?

 赤嶺は、自分の弱さを責めるのだろう。不甲斐無い自分を呪うのだろう。無力な自分を戒めるのだろう。たった一人で苦しむのだろう。それは、この試合の勝利よりも軽いものなのだろうか。

 赤嶺は俯いている。頬を伝った汗が顎に到達し、落下する。乾いたグラウンドに染みが残った。交代だ。鉛のように重い両腕をぶら下げ、赤嶺は唇を噛み締めた。けれど、その時。



「踏ん張れ、陸!」



 試合の状況も自分の立場も忘れたかのように声を上げた少年の声を、聞き間違う筈が無かった。

 三塁手。深く被った帽子の下、大きな双眸が燃え盛る火炎のようにギラギラと輝いている。



「此処で負けんな!」



 グラウンドのどんな応援にも、激しい蝉時雨にも、灼熱の太陽にも負けない和輝の叱咤にも似た声援が、赤嶺にはどうしてか泣き出しそうな叫びに聞こえたのだ。

 試合の勝敗なんてどうでもいい。それでも、自分自身に負けるな。小さな少年の叫びが赤嶺の胸に突き刺さる。諦めに満ちた闇の中、夜明けを告げる鐘の音のように響き渡った声。他の誰の為でもなく、ただ赤嶺の矜持を守る為だけに上げられた咆哮。



(そうか、此処で負けたら)



 赤嶺は顔を上げた。

 此処で負けたら、これまで背中を守って来てくれた仲間の信頼を裏切ることになる。今まで自分を突き動かして来た信念を折り曲げることになる。だから、和輝が声を上げるのだ。



「陸!」



――否、それだけじゃない。

 和輝の上げた叫びは果たして、本当に自分だけに向けられたものなのか。そう考えた時、赤嶺は疲労で動かなくなっていた掌に力が戻って来るのを感じた。

 あの叫びは、和輝が自分自身に言い聞かせた言葉なのだ。



「うるせぇんだよ、バ和輝」



 それまでの疲労すら忘れたように、赤嶺は笑った。

 ピッチャーは孤独だ。グラウンドのどんなポジションとも違う、たった一人バッターに向き合う孤独なポジション。幾ら仲間がいると言っても、結局求められるのは自分自身の強さ。信じられるのは自分だけ。投手経験のある和輝なら、十分解っているだろう。

 ……だから、なのか。独りぼっちの辛さを知っているから、叫ぶのか、願うのか、祈るのか。独りじゃないと、何度でも声を上げるのか。

 伝令にやって来た少年に、赤嶺は掌を向けた。



「まだだ。あと一人、猶予をくれ。この打者を抑えられなかったら降板でもレギュラー落ちでも構わない。俺は負けない。負ける訳にはいかない」



 伝令が何か口籠る。だが、その話を聞いていた監督が呼び戻した。

 マウンドには赤嶺陸。打者は四番。二死満塁の窮地は変わらないのに、赤嶺は疲れ切った体に力が戻って来るのを感じていた。



「独りじゃねーもんな」



 どちらが前かも解らない闇の中で、声が聞こえた。

 お前は独りじゃない。独りになんてしてやらない。差し伸ばされた手を取ることも出来ないでいたのに、そんなことお構いなしと言わんばかりに引っ張って行こうとする。

 だから、俺達は誓ったんだ。


 何があっても、絶対にお前を独りになんかしないって――。






未来への咆哮・2







 手を放したのは、俺だ。

 学校への道を辿りながら、和輝は俯いた。相変わらず真夏の日差しが厳しく、アスファルトから上る陽炎に茹ってしまいそうだった。玄関で別れた兄は今頃、坂道だらけの起伏に富んだ通学路を自転車で、いつも通りの涼しい顔で駆け上っているのだろう。

 独りぼっちで練習に向かう和輝の足取りは重い。

 匠は、青樹は、赤嶺はもう此処にはいない。裏切ったのは自分だ。責める権利も後悔する理由もありはしない。



「――よう、和輝」



 前日の試合の疲労がまだ残っているのだろう、重そうな体を押して歩く夏川は知ってか知らずか前傾姿勢のままだ。

 声を掛けた夏川は怪訝そうに眉を寄せて和輝の顔を覗き込んだ。



「顔色が悪いな。風邪か?」

「いや、寝起きなだけだよ」



 わざとらしく大きな欠伸をすれば、夏川が呆れたように溜息を零す。和輝は笑った。



「お前は気楽でいいな」



 ぽつりと零した夏川の言葉に、和輝は笑みを返した。その時の和輝の心中など知る由も無いし、知る必要も無い。

 大きく背伸びをした夏川の関節から微かに乾いた音がした。続け様に欠伸をして、「そういえば」と思い出したように口を開く。



「昨日の試合前、キャプテンから課題を出されてな」

「課題? フォームのことか?」



 すぐに切り返した和輝の言葉に、夏川はばつが悪そうに目を背ける。昨日の試合の為のピッチング練習で、相方の捕手を務めて来たのは和輝だ。その間幾度となく夏川のフォームに口を出して来たのも和輝だった。



「違ぇよ」



 不貞腐れたように呟いた夏川の態度に、和輝は満足そうに笑った。

 随分と変わったなと、思う。出会った頃の無愛想で、傲慢無礼な振る舞いは殆ど身を潜めた。



「どうしてお前達が強くなれるのか、解るかって」



 お前達、が誰を指すのか解らず和輝は首を傾げた。だが、夏川は鼻を鳴らして歩調を速めた。



「俺は今のままじゃ、和輝や箕輪に追い越される。どうしてお前等が強くなれるのか、上手くなれるのか……解るかって」

「それで……答えは?」



 和輝は早足に先を行く夏川を小走りに追い駆ける。振り返りもしないで夏川がぶっきらぼうに答えた。



「自分の弱さを知っている。それが、答えだ」



 夏川の酷く不満そうな答えを聞き、和輝は可笑しそうに声を殺して笑った。

 高槻らしい。無愛想な高槻の仏頂面が浮かび、和輝は何度も頷いた。



「そうだな。……うん、その通りだ。俺はすごく、すごく弱いから」



 脳裏を過る嘗ての仲間。仲間を信じることも出来ず、自分の弱さに負けてたった一人で道を違った。そうして選んだ道ですらも、ただ一人で進むことが出来ず多くの人に助けられて来た。

 弱いさ。泣きたくなる程、叫びたい程、俺は弱いさ。



「だから、強くなりたいんだ。誰にも負けないくらい、誰にも頼らないで済むくらい」

「――果たして」



 突然、背後から声を掛けられた。

 振り返れば高槻が、不敵な笑みを浮かべて立っていた。



「果たして、それが本当の強さなのかな?」



 挑戦的なその問いに、和輝は答えなかった。

 片意地張っているのは強さではない。以前、和輝はそう言った。高槻はそれも一つの真実だと思っている。

 和輝は苦笑した。



「キャプテン、おはようございます」

「ああ」



 欠伸を一つ。高槻は和輝の隣に並んだ。低身長の二人の横に並んだ夏川はその身長差に瞠目する。天才と呼ばれる少年と、我らがキャプテンだ。人は見掛けによらないのだと、夏川はこの二人から教わったような気さえする。

 高槻は少し考え込むような素振りを見せ、口角を釣り上げて皮肉っぽく笑った。



「確かにそういう人間もいる。それも一つの強さだろう。でも、お前の強さってのはそういうものじゃないと思うぜ」



 彼の言おうとする言葉の意味を探ろうと和輝は目を細めた。だが、その時。

 早朝の静けさを打ち破るような高い電子音が響いた。それは睡眠から意識を呼び覚ます目覚まし時計にも似た音だ。慌てる必要も無いのに、大急ぎで和輝は音源である懐を探った。

 着信、青樹大和――。



「すみません」



 几帳面で礼儀正しいいつもの青樹なら、こんな早朝に電話などしない。何かあったのだろうか。

 携帯を握り締めて駆け出した和輝を止めるものなどいない。切羽詰まったその様子に、良からぬ状況を察したのか高槻は大きく手を振った。



「朝練は勘弁してやるが――、授業に遅刻するのは許さないからな」



 半身で振り返って、和輝は笑った。高槻が朝練のサボりを許すなんて、雪どころか槍が降るな。そんなことを思いながら返事をした。

 グラウンドのある裏山の麓、小さな寂れた公園がある。和輝は携帯を開いた。残された着信履歴を選択すれば青樹からの着信。

 ぐ、と奥歯を噛み締めて掛け直す。友達に電話を掛け直すだけなのに、どうしてこんなに勇気と覚悟がいるのだろう。そう思いつつ和輝は携帯を耳に押し当てた。

 数回の呼び出し音――。



『――もしもし、和輝?』

「ああ。どうした、大和。こんな時間に」

『朝早く悪かったな。でも、お前に伝えておこうと思って』

「何を?」



 其処で、青樹が次の言葉に力を込める為、息を吸ったのが解った。



『陸が――、帰ったぞ』



 耳を、疑った。

 赤嶺がいるのは政和学園賀川高等学校。関西にある野球の強豪校で、現在は晴海と同じく地区予選の真っただ中の筈。今朝だって全国ネットのテレビ放送で特集を組まれるくらいの将来有望選手が、こんな時期に学校を離れる訳が無い。学校だってあるだろう。

 だが、青樹の言葉に嘘は無い。



『用事があるらしくてな。昼前にはもう、新幹線に乗るって言ってたけど』

「うん――」

『会いたいか?』



 和輝は答えられなかった。その反応を見越していたのだろう。青樹はすぐに続けた。



『お前がどう思ってるのかは知らないけど、陸はきっと――』



 青樹がそう言ったと同時に、和輝の前に影が落ちた。

 大きな影だった。朝日を遮るその人影が誰のものかなど、顔など見なくともすぐに解った。長く伸びた影を見詰めている和輝に声が掛かった。



「――顔、上げろ」



 心臓が早鐘のように激しく拍動している。背筋に冷たいものが走る。携帯を握り締める手が震え、此方を心配する青樹の声がやけに遠い。

 顔を上げられない和輝の前に、一歩一歩と影が迫る。――怖い。今すぐに逃げ出したい衝動に駆られるが、目の前の壁のような影がそれを許さない。



『和輝?』



 大きな手が、携帯を取り上げた。



「よう、大和。後で掛け直す」

『え、おい、お前、陸――?』



 勝手に切られた電話への怒りは無い。俯いていた和輝は、唾を呑み込んだ。

 ゆっくりと顔を上げた和輝の目に映ったのは、記憶と少しも違わない赤嶺陸の無表情だった。




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