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汚名⑸

 晴海高校の攻撃は続かなかった。箕輪が三振に終わると、チェンジとなり和輝達はそれぞれグラウンドへ向かう。

 逆にベンチへ入って行く北里工業。和輝は一瞬、青樹を盗み見た。同時に、青樹も和輝を見た。

 青樹の目は酷く冷たかった。和輝の脳裏に、裏切り者と言う声が過ぎる。

 裏切った訳じゃないとか、誤解だとか、そんなものは言い訳に過ぎないのだろう。中学の頃、その結論に行き着いた和輝は弁解を止めた。解ってくれない相手にまで自分の意思を押し付けるのは、間違っているだろう。けれど、本当は、信じて欲しかった。解って欲しかった。

 その願いすら伝えぬまま、自分達は道を別った。

 人に期待するのが間違っているとは言わない。けれど、その期待通りにならなかった時に、責めてはいけない。お互い意思のある別の人間なのだから当然だ。

 だが、心の何処かで青樹なら解ってくれるんじゃないかと思っていた。匠に裏切り者と罵倒されても、青樹なら信じてくれるんじゃないかと思っていた。

 それが期待通りにならなかったからと言って、彼を責めてはいけない。



(なあ、大和)



 彼と話がしたい。そう思った。

 青樹はすぐに目を戻してしまったけれど、和輝はその背中をずっと見詰めていた。

 解ってくれとは言わない。でも、知って欲しい。あの頃、全てを諦めて話をする事さえ放棄してしまっていたけれど、今は違う。確かにもう仲間ではないけれど。



(なあ、和輝)



 青樹は背中を向け、唇を結んだ。

 二回裏は四番から始まる。すぐにバッターボックスへ向かわなければならないのに、青樹の動作は酷く緩やかだった。

 和輝のあの真っ直ぐな目の前に立つ事が、何故だかとても恐ろしい事に感じられた。自分が汚い人間だと突き付けられて、人に見せたくない心の内側を暴かれるような気分になる。昔から和輝の目は真っ直ぐ透き通っていた。あの頃は、その透明感さえ好きだったが、今は恐ろしいのだ。

 守備位置に着いた和輝はもう、青樹を見ていない。今度は様子のおかしい夏川を見ていた。

 あんなに感情的になる夏川は久しぶりに見た。夏川と出会い、野球部入部と退部を賭けた勝負をした時に以来だと思った。



(あいつも、何を考えてるんだろうな)



 浅賀と自分を比較したのだろうか。和輝は苦笑する。

 比べたって仕方ないだろう。浅賀と夏川は違う人間なのだ。周りの期待も羨望も無視して、自分自身を信じて、自分の為に野球を続けた浅賀。周囲のプレッシャーの中で野球を続け、自分自身の意思を見失い野球を止めた夏川。

 そんなもの今更どうしようもないだろう。夏川が今苦しんでいるのは、逃げた代償なのだ。いつかは必ず向き合わなければならない痛みだ。誰も代わってやる事は出来ない。

 無性に、時間が欲しいと思った。これは試合中でなければ起こらなかった葛藤だが、試合を一時中断してでも彼らと話がしたいと思った。

 それが叶わないと知っているからこその、思いかもしれないが。

 和輝はバッターボックスを見た。ついに、四番が打席に立つ。背番号二番、青樹大和。

 青樹は丁寧に頭を下げ、バッターボックスに入った。メットのツバで表情は伺えないが、和輝には一瞥もくれない。笑いもしない、睨みもしない。其処には無があるだけだ。

 グラウンドに奇妙な空気が流れた。それが緊張感だと気付くのに、高槻でさえ時間が掛かった。相手は一年なのだ。だが、この奇妙な威圧感は何だろう。これはまるで。

 一瞬、和輝の顔が脳裏を過ぎった。穏やかさに隠れた冷たさ。



(この二人は、似てる)



 才能に恵まれた二人の少年。一方は屈託無く笑い、一方は時折陰を見せる。いや、それはどちらにも言える事なのかも知れないけれど。

 確かに和輝は幼馴染だと言う白崎匠とも何か似ている。だが、青樹と和輝はまた違うのだ。

 しかし、今はそんな事どうでもいい。当事者の問題だ。高槻はそう決め込み、萩原のサインを見て頷いた。






汚名・5









 和輝と青樹が出会ったのは、中学一年の夏休みだった。遠くから引っ越して来た青樹が橘シニアに入り、小さい頃から続けて来た仲間は少し青樹を遠ざけた。所謂よそ者だ。興味はあったが、その頃はノッポだった青樹が皆怖かったのだろう。

 中々、仲間に溶け込めない青樹を監督は心配そうに見ていたが、それは難なく解決した。



「ねえ、大和君。キャッチボール一緒にしようよ」



 練習前のアップで、いつもは匠と組んでいた和輝だったが、その相方が祖母の家に行ってしまっていた為にペアを組む事が出来なかったのだ。何時の間にか固定メンバーが決まっていたので、青樹はいつも最後に残されて何処かに入れてもらうという肩身の狭さを味わっていた。偶々、匠がいなかったから声を掛けたのだが、青樹にとっては初めて誘われたのだった。

 キャッチボールをしながら、和輝は初めて青樹と話をした。青樹がそれまで住んでいた場所、中学野球の事、友達や仲間、家族の事。青樹自身の事も聞き、お返しと言わんばかりに和輝も僅かだったが自分の話をした。普段、余り自分の事を話さない和輝だったので、それは良い傾向だった。

 この橘シニアの事、匠の事、兄の事。そんな話をする内に、お互いに何だか気が合うと感じ、その日は一日中青樹と一緒にいた。

 匠が真っ黒に焼けて帰って来てからも、和輝と青樹は仲良しだった。キャッチボールのペアは何時の間にか和輝と青樹が固定になり、匠はまだ馴染めていないだろう青樹に気を使い、自分は別の仲間と組んでくれた。

 やがて青樹は少しずつ仲間に溶け込むようになり、皆と仲良くなった。中でもやはり、和輝と青樹は仲が良かった。匠は和輝を取られたような気分だったが、苦笑して見守っていた。二人は似ているのだと、気付いていたからだ。

 青樹はだんだんと力を付け、キャッチャーとして成長して行った。同じように和輝も実力を付け、二人はチームを纏める役職へ抜擢された。

 和輝は元々、上記の通り自分の事を余り話さなかった。その為、相談と言うものを殆どしなかった。幼馴染の匠には相談する事もあったが、それも「明日、寝坊したらどうしよう」とか「テスト勉強全然終わってないんだけど」なんて言う下らない些細なものだった。だから、正直言って和輝がキャプテンになるのは賛成出来なかった。

 そんな責任の重い役職に着いてしまったら、彼は誰にも相談出来ないのだから潰れてしまうんじゃないか。

 そう思っていたが、それは杞憂だった。和輝はことあるごとに青樹に相談し、協力し合った。

 だから、将来二人は同じチームで野球を続けるかも知れない。匠はそう思っていた。少なくとも、誰もが和輝は青樹か匠と同じチームで野球するだろうと考えていた。しかし、和輝は全ての予測を裏切ったのだ。

 信じられなかった。何よりもまず、「何故?」と思った。問い詰めても、和輝は答えなかった。そのまま、自分達は中学を卒業し、道を別ったまま、何も理解し合えぬまま終わったのだ。





 青樹はバットをしっかりと握り、静かに構えた。呼吸をしているのかどうかさえも解らないほど、静かに、無表情に高槻を見ている。高槻もまた、眉一つ動かさずに大きく振り被った。

 高槻の手から放たれた白球は綺麗な弧を描き、萩原のミットに納まった。審判が声を上げる。



「ボール!」



 青樹は微動だにしない。萩原が返球する隙にふっと息を吐き、素早く構え直す。

 模範にでもしたいくらい、綺麗な構えだ。何処にも力の入っていない自然体は、何処へ投げられても簡単に打ち返すだろう。

 だが、高槻に焦りは無かった。緊張すら感じず、ただ青樹を見る。そして、萩原のサインを見て頷いた。高槻がゆっくりと構えた時、不意に和輝の声が脳裏を過ぎった。



――あいつに不可能はありません。どんな球種もどんなコースもあいつには通用しない。過去には打率八割、十二打点を記録しました



 高槻はそれでも、表情を変えない。



(そんなもん、怖くも何ともねぇんだよ)



 興味も無さそうに、高槻はステップを踏んだ。そして、流れるような緩やかなサイドスロー。放たれた白球は再び、ミットに収まった。



「ストライク!」



 青樹はじっとミットを見詰めた。萩原は「ナイピー」と感情の篭らない声を掛け、ボールを返す。高槻はボールを受け取り、やはり無表情に構えた。

 その淡々とした時間の流れの中で、和輝だけが嫌な胸騒ぎと共に青樹を見詰める。その胸騒ぎは試合の結果を意味するのか、自分達を意味するのか解らない。

 高槻は振り被った。

 白球は高槻の右手を離れ、通常とは異なるコースを駆け抜ける。直球すら普通と異なる、それがサイドスローだ。だが、青樹の目が一瞬光った。

 そのバットが振られた瞬間、和輝は足に力を入れた。鈍い金属音がして、打球はグラウンドを跳ねると三塁線ギリギリを走った。青樹がバッターボックスを飛び出す。和輝が地面を蹴った。

 足のバネを生かし、横っ飛びに和輝はボールを捕まえた。そのまま着地せずに体を捻り、ショートの箕輪へ放り投げた。箕輪は一瞬驚いた顔をしたが、素早く一塁の夏川の元へ送球する。

 青樹が走り抜けた。



「――アウト!」



 嗚呼、と北里ベンチから声が漏れた。

 青樹は眉を下げて困ったように「ちぇっ」と言ってベンチへ駆けて行った。和輝はゆっくりと立ち上がり。土で茶色く染まったユニホームを叩く。箕輪が笑った。



「ナイス」



 和輝にとっては、ナイスと言われるようなプレーではなかったが、それでも箕輪に感謝を伝えた。しかし、目は箕輪を見ていなかった。ベンチに戻って行く青樹を見ていた。



(あいつ)



 青樹がボールにバットを当てる瞬間、和輝を見た。まるで睨み付けるかのように鋭い眼光だった。

 彼がわざと狙って打ったのだろうと気付いていたが、高槻は何も言わずに次の打者の為に構えた。

 ベンチに戻った青樹へ仲間が「ドンマイ」と声を揃える。青樹は苦笑しつつ、奥の暗がりでだんまりを決め込む浅賀の横に座り、グラウンドへ目を向けた。



「中々良いピッチャーだな」

「ああ。きっと、お前の情報はあちらさんにも行ってるやろうけど、緊張感も焦りもまるで無い」

「表情が無かった。ちょっと、怖かったぜ」



 悪戯っぽく青樹が笑った。しかし、浅賀はちらりと青樹を見て言う。



「……お前、一体誰と戦ってんのや」

「えっ?」

「お前の過去なんて知りとおないけどな、試合中まで、蜂谷君に拘るのやめぇ」



 拘ってなんてない。

 そう言おうとした声は、喉の奥に張り付いていた。

 その頃、グラウンドでは五番・六番が連続で打たされ、敢え無くノーヒットのままチェンジとなった。青樹は一足送れてプロテクターを装着し、グラウンドへ向かう。

 無得点で一点差で負けている。しかし、青樹には焦りも苛立ちも無い。負けるつもりなんて毛頭無いのだから、例え何点差を付けられても勝つ気でいた。

 そして、ベンチから出て、激しい明暗の変化に目が眩み、掌で日光を遮る奥で、誰かの足が見えた。青樹は白く霞んだ視界の中で、それが誰かを悟った。



「和輝……」



 和輝は何も答えず、少し悲しそうな目を向けて走って行った。

 三回表の晴海高校の攻撃は、九番の箕輪からだった。箕輪は緊張からか表情が何処と無く固かった。和輝はそんな箕輪の後姿を見ながら、ネクストに入ってグラウンドを眺める。

 今、このグラウンドには妙な空気が流れている。夏の湿気の中で、指先が冷えるような冷たさ、嫌な胸騒ぎがずっと収まらない。その原因が何であるのか、和輝はもう気付いていた。



(大和……)



 かつてのチームメイトである彼が何を考えているのか解らない。その解らないと言う事が、恐ろしくて仕方ないのだ。

 バッターボックスに立った箕輪は、正面の浅賀を見て息を呑んだ。



(こいつ、本当に同い年かよ)



 ただ身長が高い訳ではない。奇妙な威圧感に気圧されてしまう。

 浅賀がゆっくりと構える。箕輪はバットを強く握り締めた。



「堅いな」



 ベンチで高槻が零した。

 浅賀の投げた球は、恐らく全力ではないだろう。けれど、箕輪の目には一瞬で通り過ぎた閃光のように映った。振り切ったバットなんて掠りもしない。



「ストライク!」



 審判の声がして、箕輪はバットを下ろして息を吐いた。

 化け物だと思った。恐ろしいと感じた。打てる訳がないと、かつての箕輪ならば諦めただろう状況だった。数日前までならば、こんな化け物は化け物に任せておけばいいと思っただろう。けれど、今は違う。



(全力で戦うと、誓ったんだ)



 構え直した箕輪の目に恐怖は無かった。その変貌ぶりに夏川が少し、驚いたように瞠目する。和輝は口角を吊り上げ、楽しそうに笑った。



(見ろよ、夏川。これがあの、箕輪だぜ。お前が見下した箕輪だって、強くなれるんだ)



 お前の番だろう。和輝は届かぬ言葉を、背中を向けている夏川に言いたかった。

 浅賀は大きく振り被った。叩き付けるような球筋に眩暈がする。けれど、箕輪はまた、バットを振り切った。

 コツンと微かな音がして、打球は三塁方向のギリギリで転がり、止まった。箕輪はバッターボックスを飛び出した。

 浅賀が打球を広い、スッと静かに送球する。箕輪は一塁を駆け抜け、そのまま勢い余って転がった。



「セーフ!」



 起き上がった箕輪は驚いた。浅賀さえも驚いたように目を丸くし、一塁を見た。

 この回、彼は出塁しない予定だったのだ。だが、箕輪は言葉を発しないままガッツポーズをした。夏川でさえ打てなかった浅賀から、セーフを一度でも取った事が嬉しかったのだ。

 そして、打順は最初に戻って一番。和輝はバッターボックスに立った。

 浅賀は一回の和輝の打席を思い出す。確かに、彼にはただのストレートなんて通用しない。かと言って変化球ならば通じるかと言えばそうではないのだろう。走者さえいれば得点出来ると言った青樹の言葉が脳裏を過ぎり、その彼が和輝に対してどんな戦法を取るのか少し気になった。

 青樹は和輝には一瞥もくれず、サインを出した。浅賀は表情には出さず、目を疑った。しかし、青樹はまるで決定事項だとでも言うかのような冷静さで静かに立ち上がった。



「敬遠……?」



 一塁には走者がいるのに、定石では有り得ない戦法だろう。高槻はベンチからその様を見て、首を傾げた。確かに青樹は和輝とチームメイトだった。だから、その実力を知った上で敬遠を選んだと言うのか。

 浅賀には表情が無い。機械的に、立ち上がった青樹へボールを投げる。



「ボール!」



 其処からは淡々とカウントが嵩んだ。和輝も無表情を崩さず、四つ溜まるまでバッターボックスに立ち尽くし、フォアボールが確定するとバットを置いて走り出した。

 和輝は静かに一塁へ立ち、一人腑に落ちたように溜息を零した。



(嫌な予感は、これか)



 顔では何でもないかのように表情を崩さない。けれど、黙ったまま握り締めた拳は震えていた。

 頭に鮮明に甦る、あの秋の空の下。最後の試合、引退試合。



(嫌な思い出を、思い出させてくれるなよ)



 あの日から、自分達は崩れて行った。和輝は目を伏せ、唇を噛み締めた。

 唐突に、青樹の中にある感情に気付いた。彼はきっと、自分が許せないのだ。憎くて、ずっと恨んでいたのだろう。今日の試合は、その復讐するチャンスなのだ。

 バッターボックスでは、二番の桜橋が三振に終わった。続く三番の藤がすぐに、追い込まれる。だが、その試合経過も和輝の中には入って来なかった。ただ只管、表情を隠したまま淡々とサインを出す青樹が恐ろしかった。

 二死走者一・二塁。藤に続き、萩原が打席に立つ。それでも、和輝の意識は過去に回帰したままだ。

 あの秋の日、引退試合を終え、和輝は一人泣く事も無く帰宅した。あの日の和輝には、虚しさと悔しさと不甲斐無い自分への罪悪感しかなかった。すすり泣く仲間の肩を叩いて励まし、最後の最後まで笑顔を崩さずに歩き続けた帰路の長さを未だに覚えている。



(大和、お前、俺が許せなかったのか?)



 あの日以来、青樹はずっと自分を恨んでいたのだろうか。そんなの、虚し過ぎる。

 すっかり意気消沈してしまった和輝は、萩原の打ち上げたボールがライトフライに終わってチェンジとなっても、暫く動く事が出来なかった。

 そんな和輝の肩を箕輪が叩き、ベンチへと促す。



「戻ろうぜ」



 和輝は黙って頷いた。

 ベンチに戻ると、擦れ違いに夏川がグラウンドへ走って行った。高槻も何も言わず、マウンドへ向かう。ベンチはいつもの状態だったのに、和輝は視界が歪んで見えた。誰もが無言で責めているように感じた。夏川が素っ気無いのも、高槻が何も言わないのもいつもの事なのに。

 酷く動きの鈍い和輝を、箕輪が急かす。



「早く行こうぜ、和輝」



 和輝は頷き、グラブを持って走り出す。箕輪はその異変には気付いていたが、ただ首を傾げるだけで何も言う事が出来なかった。

 北里の攻撃は七番からだった。二回共に綺麗に三人で抑えた結果、今回は投手である浅賀まで回る。

 和輝は呆然と、それでも悟られまいと静かにバッターを見た。グラブを嵌めた指先が震えていた。隠すように反対の手は拳を握っている。誰も、気付かなかった。

 其処からの和輝はおかしかった。

 三塁はホットゾーンだ。打球は多く飛んで来る。和輝は今までそのポジションを難無くこなし、当たり前のようにアウトを取って来た。だが、その回から和輝の様子は狂い出し、酷く鈍間な送球と、不可思議なフィルダーズチョイスに無死走者一・二塁の状況を引き起こした。

 更に、浅賀の打席。酷く鋭いライナーが飛んで来た。二回の守備を考えれば、それは和輝にとって何てこと無い筈だった。誰もが予想した通り、和輝はライナーを受け止めた――筈なのに、ボールは足元に転がった。



(エラー!)



 高槻は驚いたように目を丸くし、フォローに入った箕輪が投げた時には既に無死満塁のピンチに陥っていた。

 皆何が原因か解っている。本人だって解っているだろう。普通なら和輝はベンチに押し込んでしまいたかったが、晴海に交代できる選手は一人もいない。ギリギリの部員なのだ。欠けた瞬間敗北となる。

 一言文句でも言ってやろうかと高槻は和輝を見た。だが、その顔色の悪さに驚き、止めた。代わりに箕輪に、和輝のフォローを頼んでマウンドに戻った。

 その三回裏は、無死満塁の中でなるべく三塁にはボールが行かないように萩原と高槻が配球を組み立てようとしたが、結局、二点を失い、どうにか四番の青樹には回さずにチェンジとなった。

 ベンチへ戻る和輝の足取りは酷く重そうだった。箕輪が声を掛けようとその姿を探した時、和輝は何処にもいなかった。

 和輝はベンチには戻らず、グラブを持ったまま水道に向かった。顔を洗って気分を落ち着けようと思ったのだが、夏の温度で水は温く、神経は愚鈍なまま変わらなかった。

 和輝は今の一回で、二つのエラーを犯した。エラーなど、野球を始めた頃以来、一度としてした事が無かったのに、体が動かなかったのだ。



「おい、和輝」



 声がしても、振り向けなかった。合わせる顔が無かった。高槻は振り返らない和輝の肩を掴んだ。



「ベンチ、戻るぞ」

「……俺、顔洗ってから行くんで」

「もう十分洗っただろ。いいから、戻るぞ」



 強く掴んだ肩が震えたのが、高槻にも解った。

 自分よりも小さい、細い肩だ。高槻は顔を向けない和輝の横で、壁に寄り掛かり、静かに言った。



「気にするな、すぐに取り戻せる」

「……はい」

「……敬遠に、何か思い出でもあるのか?」



 言うべきなのか、笑い飛ばすべきなのか、一瞬悩んだ。だが、今の和輝に後者を選択するだけの余裕は無かった。



「引退試合……」



 こんな事を高槻に言ってどうするんだ。和輝は何度も自分に問い掛けたが、高槻には、何故か話しておくべきであるような気がした。



「引退試合、俺の打席は、全部敬遠だったんです」



 そう零した時、自分が酷く惨めに感じられた。高槻は厭きれるだろうと思った。だが、高槻はポケットに手を突っ込んで空を見上げたまま、一言「そうか」とだけ言った。

 沈黙が流れた。高槻はふーっと息を吐く。



「敬遠された時、大和がお前を許さないって言っているみたいに思ったんです。俺には何も出来ない、って、突き付けられているようだった」

「……それで?」

「すみません、でした」

「謝るな。俺はお前を責めてねぇ」



 高槻は溜息を零した。



「お前の中学の仲間は、お前を許さないとでも言ったかよ」

「……いいえ」

「そうだろう。お前の何が悪かったんだ。敬遠されたのはお前のせいじゃない。お前を責める理由が、権利が何処にある」

「でも」

「お前に何が出来るかなんて、どうだっていい。出来る事をやってりゃ、その内見えて来るもんだろう」



 俯いたまま、水の溢れ続ける水道を和輝は呆然と眺めている。高槻は横から手を伸ばして水を止めて言った。



「お前は何でも背負い過ぎだ。仲間仲間って言っていながら、お前は仲間を信用してなかっただろう」

「そんな事無いです!」

「なら、何で頼らない!」



 高槻が大きな声を張り上げたので、和輝は驚き肩を跳ねさせた。



「どうせその試合中、お前は引き攣った笑顔で仲間を送り出しただけだろ。せいぜい、頑張れとかドンマイとか、次は行けるとか、その程度の事しか言えなかっただろ」

「じゃあ、俺はどうしたら良かったんですか!」



 高槻の目は鋭く、睨んでいるようだった。



「そんな事も解らないから、お前は仲間を信用出来ていないって言うんだ」



 まるで馬鹿にするように高槻が言う。



「簡単な事だろう。任せた、それだけで良かったんだ」

「でも、その言葉が重荷になったら!」

「その時はその時だ。でもな、言うのと言わないのじゃ全然違う」



 高槻は笑った。



「言えよ。ここは橘シニアじゃない。今のお前は四番でもなければ、キャプテンでもない。お前一人が背負う責任なんてちっぽけなもんだよ」

「でも、」



 ちっ、と舌打ちが聞こえた。和輝は何も言えずに俯いたままだ。高槻は面倒臭そうに溜息を零し、言った。



「俺を見てろ」



 和輝は顔を上げた。



「俺だけ、見てろ。……晴海高校のキャプテンは俺だ。お前等のエラーも下手糞も、俺が簡単にカバーしてやる」


 そう言って、高槻は背中を向けてベンチへ歩き出した。和輝は動けないまま立ち尽くしていた。

 ベンチに戻れぬまま棒立ちしていると、呼ばれたのか箕輪が和輝の元へ駆け付けた。


「おいおい、和輝。早く帰って来てくれよ。今の夏川と二人きりなんて、俺は嫌だよ」


 困ったように言う箕輪が何だか可笑しくて、和輝は笑った。

 箕輪に引っ張られてベンチに戻ると、桜橋が笑い掛けた。


「遅いぞ、馬鹿」

「あ、帰って来た」


 和輝が戻ったと知り、仲間が次々に顔を向ける。


「何、エラーしてんだ。必ず挽回しろよ」

「落ち込んだ顔してんなよ、ベンチが葬式会場になるだろ」

「まだ三回だぜ? エラーの無い野球なんてつまんねぇんだ、顔上げてろ、チビ」


 口悪く励ます先輩達の姿を見て、和輝は暫し瞠目したが、くっと可笑しそうに笑った。

 ベンチに入ると萩原が、グラウンドを顎でしゃくった。一死走者一塁。打者は高槻だった。


「見てろよ、和輝。キャプテンを」


 萩原の言葉がやけに響いた。和輝は真っ直ぐピッチャーを見詰める高槻をただ、遠くから見ていた。




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