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汚名

――裏切り者



 酷く冷たい眼差しで、今まで聞いた事もないような乾いた声で、そう言って背中を向けたのは、誰だっただろうか。あんな顔で、あんな言葉を言う人間、知らない。あんな人知らない。

 けれど、そう言うあの人と一緒に背中を向けたのは、生まれた時から一緒だった、幼馴染で親友の白崎匠だったから。

 その背中が小さくなるまでずっと見つめた。夕暮れの、河川敷のグラウンドには一人だけ残された。

 帰ろう。

 唐突にそう思った。

 練習後の体は酷く重たくて、歩き慣れた筈の道は、初めて見たような気がした。疲れているのか、視界がグラグラ揺らぐ。秋も終わろうとしている空は、もう寒さを感じるようになっている。指先が振るえ、歯の根が合わずにカチカチと鳴った。



「裏切り者、かぁ」



 独り呟いてみて、苦笑する。

 仕方ないのだ。全て、自分が決めた事なのだから。

 でも、本当は。

 和輝は立ち止まり、律見川に向き合った。夕日を反射した水面は、金色の光をキラキラと反射している。遠くで電車の通り過ぎる音がする。誰かの笑い声、足音が通り過ぎて行く。

 ポケットから取り出したのは、買ったばかりの、シルバーボディの携帯電話。滑らかな流線には傷一つ無く、ビニールの張り付いたままのサブディスプレイには五時四十五分と表示されている。

 和輝はふう、と息を吐き、大きく振り被った。少し齧っただけの投手だったが、そのフォームだけは唯一褒められた。携帯電話は掌から離れ、大きな弧を描いて、金色の水面に吸い込まれて行った。

 ポチャン、と微かな音が遠くでした。和輝は再び息を吐き、無理やり笑ってみた。

 あれはもう、必要の無いものなのだ。

 家に帰ったら、全部捨ててしまおう。もう、いらないものだ。あってはならない。



「ははは」



 声だけで笑ってみるけれど、頬を流れる生暖かさは止まらない。

 嗚咽を噛み殺し、目を袖でグリグリと拭い去った。それでも、そこから歩き出すことが出来ずに和輝は座り込んでしまった。

 どうして、どうして、どうして。

 俺は間違ったのだろうか。俺はそんなにも仲間に酷い事をしたのだろうか。俺は。



「ははっは、はははは……」



 蹲り、声だけで笑う。涙は一向に止まる気配を見せない。

 辛い。

 振り返らない仲間の背中、何も言わない匠の背中。一緒にグラウンドを走り回って、勝利に喜び、敗北に泣いた仲間達。もう、戻らない。

 川底に沈んだ携帯電話はもう壊れただろう。暗くなって行く中ではもう、見つけられないだろう。データは全て消えた筈だ。チームメイトのアドレスと共に。

 泣いてどうする。これから、これから始まるんだぞ。

 自分に言い聞かせて、和輝は立ち上がった。辛いのも苦しいのもこれからだ。中学の思い出とはもう、決別しよう。全部自分が決めた事だ。中途半端な覚悟で選んだ訳じゃないんだ。



「和輝」



 後ろから自分を呼ぶ声がして、振り返った。立っていたのは兄だった。

 祐輝は無表情のまま静かに歩み寄って、和輝の頭を撫でた。



「帰るぞ」



 和輝は頷いた。

 祐輝は、匠達のように言葉にはしない。けれど、心の中では和輝の選択を否定している。未だに認めていない。和輝もそれを悟っていた。

 黙って辿る家路は、酷く寂しく思えた。昨日までは仲間達と騒ぎながら(けれど、後ろめたさと共に)帰ったのに。



――裏切り者





 和輝は起き上がった。

 見慣れた室内は、自分の部屋だった。頭を掻きながら、時刻を確認する。四時五分。五時からの部活には、まだ早い。

 随分と懐かしい夢を見ていた気がするけれど、と、枕元で充電中の携帯電話を確認する。使い慣れた自分の携帯電話は、まだ一年と使っていないにも関わらず傷だらけだった。

 あの時、川に投げた携帯電話は結局探していない。新しい携帯電話を買ったのは高校入学が決まってからだから、まだ半年も経っていない。高校に入って随分とアドレス帳は埋まったけれど、中学のフォルダは殆ど空のままだった。

 あの日、匠と一緒にいたのは誰だっただろうか。靄がかかったようで顔がはっきりしない。中学の卒業アルバムを見れば思い出せるだろうが、何処にあるか解らない。



「……裏切り者……」



 呟いてみて、溜息を零す。

 携帯電話を開けば、匠からのメールが来ていた。



『明日、抽選会なんだぜ』



 匠からのメールを確認し、和輝は返信しないまま携帯電話を閉じた。

 朝練が終わったら返信しよう。そう決めて、仕度を始める。匠と同じく、和輝も抽選会に行かなければならない。

 夏服に変わった制服を着て、一階に下りれば既に兄が朝食を作り始めていた。居間では父が欠伸をしながら新聞を読んでいる。



「おう、和輝おはよう」



 祐輝はお玉を片手に、振り返って言った。居間には味噌汁のいい匂いが立ち込めている。



「おはよう……」



 顔を洗おうと洗面所へ向かう。その背中に、父と兄の会話が聞こえていた。



「今日、抽選会なんだよね」

「ほー、お前がクジ引くの?」

「まあね。今年優勝したら三連覇だから、緊張するぜ」

「そりゃ、いいところを引かなきゃなぁ」



 何処だって同じ事さ。

 祐輝が軽く笑った。和輝は溜息混じりに顔を洗い出した。

 自分達に、何処を引いてもいいなんて言える余裕は無い。出来れば始めは楽な山に入って、それから勝ち進む間に実力を付ける、その時間が欲しい。

 再び居間に戻れば、今度はテレビが報道する議員の汚職事件について討論していた。








汚名・1









「暑ィ」



 頬を伝う汗を拭い、高槻が言った。

 抽選会会場は、地区内の高校の体育館だった。クーラー完備の晴海高校で日々過ごしている自分達にとっては酷い拷問だ。

 どの高校も少人数で来ているが、流石にメンバーはキャプテン、副キャプテン、マネージャーだろう。三人目が和輝のような一年なのは、晴海高校だけだろう。

 その意味だけでなくても、晴海高校は目を引く。三人が歩くとざわりと空気が揺れた。高槻も桜橋もうんざりして、知らん顔をしている。



「やっぱり、連れて来るんじゃなかったな」



 和輝は、目立つ。その顔立ち、そして、蜂谷祐輝の弟というブランド。

 ざわりと空気が揺れて、出来上がった道からは囁き合う声がする。和輝は前だけを見て、なるべく聞かぬように神経を集中させていた。高槻は体育館の一角に落ち着き、溜息を零す。



「なあ、和輝。いい加減、顔上げろよ」



 高槻は壁に寄り掛かりながら、隣で何時の間にか俯いてしまっている和輝を見た。未だに周囲は野次馬に取り囲まれてしまっているけれど、桜橋はもう慣れたとでも言うように欠伸をしている。



「そろそろ、抽選が始まるからな」



 桜橋は舞台に設置された机を顎でしゃくった。長机の上には、この夏大会のトーナメントを決める籤が入っている。勝ち進むには、より有利な山に入らなければならない。

 和輝は始めて見るこの抽選会の様子に夢中になっていた。端と端が視界に入り切らない程巨大なトーナメント表、集まる各高校のキャプテン達、賑わう取材陣。

 その中、空気がざわりと揺れ動いた。

 体育館の入り口に、先程と同じような人の動きがあった。まるで何かを取り囲むかのように、人々はそこにいるものを見て囁き合う。



「おいでなすった」



 高槻がぽつりと呟いた。

 背の低い和輝には入り口の様子は伺えない。一体何が起こっているのだろうかと、背伸びして様子を知ろうとするけれど、人間の衝立は隙間無く並び、一切を隠している。

 和輝が不満げに唇を尖らすと、桜橋が言った。



「すぐに見えるようになるさ。……すぐにな」



 意味深に笑った桜橋。そして、突然、その人込みが割れた。

 現れたのは三人の男。皆、揃って背が高い。先頭を歩く男は面倒臭いとでも言うかのように、人込みに一瞥くれて、ふっと此方を見た。



「――高槻」



 和輝は高槻を見た。高槻は先頭の男に軽く手を上げて合図をし、男は口元に笑みを浮かべたまま、大股で歩み寄った。



「久しぶりだな、高槻」



 高槻の前に立ち、巨大な影を落とす。速水は、やはり笑っていた。



「相変わらず、小せぇな」

「余計なお世話だ」



 大きな身長差を感じさせない、強気の高槻の口調に速水は笑った。

 速水の後ろで、春樹と夏樹は和輝を見た。自然と見下ろす形にはなるが、その目は酷く冷たく、凍て付くかのようで和輝は身震いした。



「君が、弟クンか」



 春樹が言った。



「兄貴に宜しく言っておいてくれよ」

「……はぁ」



 気の無い声を返したのは、二人の目が余りにも冷たかったからだ。思わず一歩下がると、桜橋が庇うように前に出て、そっと言った。



「三鷹学園は、二年連続、翔央に負けてる」



 なるほど、と思った。



(目の仇にされてるのか)



 桜橋の声が聞こえていたらしく、春樹は揃って睨み付けて来た。

 和輝にとっては全く見に覚えの無い恨みだが、こういう正面切った態度は嫌いじゃない。むしろ、黙って笑顔のまま、裏でこそこそしているよりは百倍マシだ。

 そのまま桜橋の後ろにそっと隠れた時、抽選会は始まりを告げた。

 舞台に立つスーツの男。抽選の説明はマイクで拡張され、体育館中に響き渡る。始めに名を呼ばれたのは、神奈川無敗の王者、三鷹学園だった。



「じゃあ、行って来るよ」



 軽く笑い、速水は舞台へ上がって行った。

 速水が舞台に上がると、どよめきのようなものが体育館中に広がった。そんな様子を興味無さそうに見る高槻。和輝が訳も解らず首を傾げると、桜橋が言った。



「高槻と速水君は、中学の同級生なんだって」



 そう言った瞬間、拡張された音声が響いた。



『私立三鷹学園、一番です』



 けっ、と高槻が悪態吐く。昨年の優勝校である彼等が一番である事くらい、わざわざ抽選しなくても解っているのだ。

 高槻は姿勢を直し、舞台のトーナメント表を眺める。



(これで、あいつとは逆山を引かなきゃならなくなったって訳だな)



 三鷹学園の名前が表示された山とは違う山を見て、高槻は軽く咳き込む。

 次々と他校が呼ばれて行くが、去年の夏の成績では中堅高校といったところの晴海高校ではまだ、呼ばれる気配すらない。

 高槻は去年の夏をふと思い出した。去年の夏の大会、投手は袴田だった。プロ確実だと言われていた彼の実力は本物だった。高槻は彼が投げられない時に投げるだけの投手であったが、それも利に敵っているのだから認めていた。

 身長の低い自分には、彼の投げる球が持つような球威を生み出す事は出来ない。だからこそ、球威で押して行く彼の投球スタイルは羨ましかったが、かと言って羨望し諦める事は無かった。球威で敵わないのなら、別の方法で戦えばいい。それだけのことだったからだ。

 そうして、試合はどうにか勝ち進んでいたが、結局試合は思った以上勝ち進むことは出来ずに終わってしまった。あれから一年。

 二度と試合に出る事はないかも知れない。そう思った時期もあった。だが、一年が入部し、彼等がこの野球部の中に新しい風を吹き込んでくれた。だから、自分はここに立っている。

 そんな風に、高槻が感傷に浸っている頃、和輝はトーナメント表を眺めながら言った。



「俺、三番がいいです」

「三番~?」



 桜橋は三番を見て、眉を寄せる。



「馬鹿、三鷹学園隣の隣じゃねぇか。二回戦で当たる」



 小声で桜橋が言った。だが、和輝は笑う。



「俺、三鷹学園と戦ってみたいです」

「言うじゃねぇか」



 聞いていた速水が笑った。和輝も子供っぽく笑う。



「だって、後が楽だし」



 その瞬間、沈黙が流れた。速水も、双子も、桜橋も動きを停止して、その意味を考えた。それはつまり、三鷹学園に勝てると思っているという事だ。

 感傷に浸っていた高槻は彼等の様子を見て、怪訝そうに首を傾げたが、深く問い掛けはしなかった。



「なあ、和輝」



 和輝は顔を向けた。高槻は相変わらずトーナメント表を眺めたまま、問い掛けた。



「お前、運は良い方か?」

「悪くはないっすね」

「そうか……。じゃあ、お前引いてみるか?」



 誰もが瞠目した。言葉も出ないというように桜橋は口をパクパクしている。

 和輝は自分を指差し、聞き返した。



「い、いいんですか?」

「いい。その代わり、ばっちり決めて来いよ」



 高槻は無表情だった。この抽選に夏の大会が掛かっているのだから、当然だ。

 酷く残念な事だが、高槻は籤運が良くない。特に重要な時の籤運の悪さは最低で、いつも余りの結果の悪さに周囲では有名になっていた。桜橋はそれを知っているからか、困ったように笑った。



「ほら、行け」



 桜橋は和輝の背中を押した。戸惑いながら、和輝は舞台へ上がる。その時もまた、ざわりと空気が揺れた。

 彼等のやり取りを見ていた速水は苦笑した。



「高槻、お前相変わらず籤運悪ィのか」

「……ああ」



 生徒会長だって、所詮は貧乏籤だ。

 そう言おうとして、高槻は黙った。和輝が籤箱の前に立ったからだ。報道陣がざわめく、皆が視線を向けた。彼方此方で、『蜂谷祐輝の弟』という言葉が飛び交う。

 桜橋ははっとした。



「なあ、高槻」

「なんだ」

「お前また、籤引きは負けたな」

「……?」



 舞台の上の和輝は何処か楽しそうに、右手を突っ込んで何かを探しているようだった。当然、中は見えないのに、彼の目には何が見えるのか、高槻は目を見張った。

 そして、和輝は腕を引き抜いた。

 一枚の小さな札が彼の手の中に納まっている。係員は、その札を受け取り、息を呑んだ。



『三番――、県立晴海高校、三番です――』



 高槻は目を丸くし、桜橋はやっぱりとでも言いたげに苦笑する。舞台上の和輝は誇らしげに、ピースなんて向けて来ているけれど、彼方此方ではお礼の拍手が鳴り響いている。

 桜橋は言った。



「……あいつ、三鷹学園とやりたがってたから」



 高槻は舌打ちした。どうやらまた、自分は本当に失敗したらしい。人選という、籤引きを。

 舞台を降りる和輝を報道陣が待ち構えている。高槻は、本当はそれを読んで、早々に退散しようと思っていたのだが、お灸を据える事にした。



「……これで、晴海の未来は無くなったな」

「ほざけ。うかうかしてる場合じゃねぇだろ」



 速水の言葉に高槻は笑った。



「あいつは馬鹿だが、勝算も無くあんな事しねぇよ」



 高槻の覚悟はもう、決まった。和輝が勝てると思って引いたのなら、それを信じるしかない。もちろん、学校に帰ってからは皆に殴られるだろうけども。



「……さて、帰るか」



 桜橋は荷物を纏め、高槻は和自分と輝の鞄を肩に担いだ。未だ報道陣に囲まれる和輝は押し寄せる質問に戸惑って、一つも答えられていないようだったので、余計な事を言う前に帰った方がいいだろう。

 高槻は報道陣を掻き分け、和輝の首根っこを引っ掴むと引き摺るようにして体育館から歩き出した。

 最後に、速水が和輝を見て言った。



「じゃあな、弟君。夏に、会おう」

「……はい」

「高槻も、桜橋君も、またな」



 桜橋は軽く会釈し、高槻は無言のまま歩き出した。

 外は初夏の太陽がギラギラと照り付けている。眩しさに目を細め、高槻は引き摺っていた和輝を放した。

 和輝は黙って睨む高槻から目を逸らし、蚊トンボのような微かな声で言った。



「何ですか」



 文句を言われる筋合いは……あるけれど。

 怒られて当然だ。和輝はそう思って目を伏せた。だが、高槻は言った。



「お前が勝てると思ってやった事なら、責めたりしねぇよ」



 和輝ははっと顔を上げた。無表情だった高槻は、微かに笑っている。



「俺は、お前を信じる」



 その高槻の声に、あの声が重なった。



――裏切り者



 だが、その声と違って高槻は責めない。

 あの声の主が誰なのか、和輝には未だに思い出せないけれど、目の前にいる高槻も、桜橋も責めずにただ、信じてくれる。



「信じていいんだろ」



 桜橋が言った。和輝はくすぐったそうに笑い、頷いた。





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