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美しき世界⑵

 日比谷信幸は、本当に良く出来た人間だった。

 小学校の友達も、中学校の仲間も、彼に関わった人間は皆口を揃えてそう言う。そしてその後、決まって誰もが俯き口を噤む。多くは無言に立ち去り、ある者は一言零す。

 『気の毒な事だ』と――。

 雨宮にとって、日比谷は幼馴染の親友で、野球ではライバルでもあった。周りが何を言おうと、二人は互いをライバルと認めていた。

 日比谷と言えば、容姿端麗・頭脳明晰・豪放磊落で、運動神経は抜群。自分には厳しいが、誰にでも優しく礼儀正しい。非の打ち所の無い、所謂天才だった。野球でもその才能は遺憾無く発揮され、投げれば三振、打てば長打にホームラン。中学生の身でありながら、将来はプロかメジャーリーガーかと囁かれた。

 雨宮は、自分が彼の最も近い場所にいる存在である事を何より誇りに思った。そして、そんな彼が自分の親友であり、ライバルと認めてくれている事が何よりも嬉しかった。

 運命の日は中学三年の夏休み前日。良く晴れた金曜日の午後だった。

 いつものように雨宮と日比谷は一緒に下校していた。通い慣れた通学路、突っ切れば近道になる公園を抜けて、家の傍の横断歩道で信号が切り替わるのを待っていた。二人は他愛の無い話をしながら笑い合い、明日から始まる、恐らく部活漬けになるだろう中学最後の夏休みに心を躍らせた。

 二人並んで車道と向き合い、信号が赤から青に切り替わった。その時、日比谷は先に一歩踏み出し、振り返った。太陽に背中を向けた日比谷は、まるで光を背負っているかのように見えた。

 眩しさに目を細め、光の中に浮かぶ幼馴染を見た。日比谷は笑っていた。



「なぁ、シンジ」

「……何だよ」

「高校に行っても、宜しくな」

「……当たり前だろ」

「なぁ、シンジ」



 言葉遊びを楽しむように、日比谷は笑いながら言葉を綴って行く。



「甲子園、行こうな」

「……ノブ?」

「約束だぞ、約束。嘘吐いたら」

「拳骨百万発」



 日比谷は笑った。そして、それが雨宮の見た幼馴染の最後の姿だった。

 遠くから、急ブレーキの甲高い音が鳴り響いた。その方向に目を向けた雨宮に見えたのは、ハイスピードで道路を滑って来る真っ黒なトラックだった。夏の太陽光を反射する車体はまるで、鎌を持った死神に見えた。

 急ブレーキの後を追うようにパトカーのサイレンが聞こえている。雨宮は乾いたコンクリートを蹴った。大きく手を伸ばして、眼球が零れ落ちそうな程に目を見開いた親友を助けたかった。

 指先は日比谷の白いYシャツに触れ、掌は彼の体を弾き飛ばした。雨宮も同じように投げ出された。二人は反対側の車道に転がったが、雨宮は安堵の息を零す。

 地獄は次の瞬間だった。

 トラックの荷台に詰まれたものは、透き通る硝子板。日光を反射し、キラキラと輝いていた。

 降って来た。

 酷い音がした。

 誰かの悲鳴のような、雄叫びのような、断末魔のような酷い音。世界は一瞬煌き、深い闇を連れてその姿を晒す。

 目を開けた時、自分が救った筈の親友が血塗れで覆い被さっていた。そこ等中に血液を浴びた透明な破片が散らばっている。

 衝動は、一瞬遅れて訪れた。



「――無事か、シンジ」



 日比谷は笑った。彼の髪を伝って紅い雫が頬に落ちる。

 雨宮の無事を確認すると、日比谷は凭れ掛かるようにして崩れ落ちた。



「ノ、ブ……」



 そんな馬鹿な、俺は、守った筈なんだ。嘘だろう、だって、間に合ってた。俺の手は確かに届いたのに、どうしてこいつが血塗れなんだ。

 嘘だ。

 崩れ落ちた日比谷は動かない。腕には夥しい数の、硝子の破片が突き刺さっていた。全ての感覚は麻痺し、視界がチカチカと瞬く。

 何度も何度も、頭の中で事実の否定を続けた。


 俺は、届いた筈なんだ。


 遠くのサイレンの中、呆然と、右足を貫く巨大な硝子片を眺めた。それが誰の足なのかも気付かずに眺めていた。血溜りの中に沈むそれは、自分自身の足だった筈なのだ。それなのに、痛覚を何処かに落としてしまったかのように感覚が失せてしまっている。

 サイレンと、悲鳴と、ざわめき。視界が陽炎の中にいるように揺らぐ。

 全て残像だけ残して、意識はふつりと途切れた。




  その事故の後、雨宮が目を覚ましたのは近隣の大学病院だった。三日三晩眠り続けた雨宮は酷い気だるさを抱えながら、自分自身の違和感に気付く。

 最後に見たものは、夥しい数の硝子片に飾られた親友の姿と、血溜りに沈む自分の右足だった。

 真っ白な掛け布団の下で動かせる筈の右足は、既に存在していなかった。奇妙な違和感は喪失感に代わり、心の中に小さな風穴が生まれる。そして、雨宮は自分の身に振り注いだ悲劇を忘れ、代わりに、親友の事を思い出した。

 不恰好な片足でベッドから這い出るけれど、上手く歩けずに見っとも無く倒れた。音に気付いて人が駆け付けてくれたけれど、雨宮はそれでも親友の元に行こうとした。

 最後に見た親友の姿が忘れられない。嫌な予感が胸を騒がせる。

 足を引き摺って、薬臭い白い廊下を歩き続けた。家族や医者の制止は全て無視した。頭の中に蘇る親友の姿、声、約束。全て、何も無かったかのように失ってしまうのか。

 自分を包む全てを切り捨てて親友の元へ進む。吐きそうな不安も呑み込んで、手摺に縋り付きながら、何度も転びながら進んだ。そして、目の前の病室から見慣れた日比谷の母が出て来た。いつもの元気一杯な肝っ玉母さんの姿からは想像も出来ない程、その表情はこの世の終わりと言わんばかりに沈み込んでいる。

 嫌な予感が、何処か遠くで鐘を鳴らす。

 這うようにして扉を押し開けた。光が一瞬視界を包み込む、あの事故の瞬間のフラッシュバック。悲鳴は呑み込み、白い光の向こうを凝視する。白で統一された病室の中、ベッドの中の浅黒い少年だけが浮かぶように目に入った。

 ノブ。

 雨宮はつい、喜んだ。親友は生きていた。守れた。それだけで胸が一杯だった。

 顔には隠しきれない程の笑顔が浮かんだ。その、親友の姿に気付くまでは――。



「……シンジ、無事で良かった」



 力無く日比谷は言った。雨宮は言葉を失った。それ程に、日比谷の笑顔は儚かった。

 何かが可笑しかった。それまで見て来た日比谷の姿とは決定的に何かが違う。いや、今までの日比谷だけではなく、それまで見て来た人間とは全く違ったのだ。

 張りぼてのようだった。



「嘘だろ、ノブ……」



 右腕が、無かったのだ。

 剛速球を投げて三振を取り続けた、何本のヒットを重ねて得点して来たあの右手が、青い患者服の下には存在していなかった。白い光に透ける青い袖。雨宮は暫しの間、呆然と扉に凭れ掛かって立ち尽くしていた。しかし、すぐにずるずると崩れ落ちてしまった。

 涙が止まらなかった。両目から、滝のように涙が流れ出した。廊下のタイルに涙が落ちた。



「ノブ、お前」



 俺は大馬鹿だ。何も救えてない。何も守れてない。それどころか、失わせてしまった。



「何でだ」



 日比谷は苦笑するばかりで、自分の失ったものに対する後悔の念は欠片も見せようとしない。でも、辛くない筈がないのだ。それでも、笑うから。



「何で、俺なんか庇ったんだよ……」



 涙が止まらない。不恰好な片足では駆け寄る事も出来ない。

 何でだ。世界中の誰もが、自分達を天秤に掛けたって日比谷を取ったのに。何でこいつだけは自分を取ったんだ。


 何で、俺なんだ――……。







美しき世界・2









 五月の空は、突き抜けるように澄み渡っていた。白く光る太陽に透けた若葉が美しい。いつもの並木道を歩き、いつもの公園を横切って、雨宮は通い慣れた大学病院へ入った。

 あの事故から数年、雨宮は、五体満足でその廊下を歩いている。

 事故で失った筈の右足は、あるのだ。

 いつもの病室に向かう途中、擦れ違った看護婦が微笑み掛ける。軽く会釈を返せば、看護婦は思い出したように言った。



「今、先生が来てるわよ」



 雨宮はすうっと息を吸い込んだ。

 先生というのは、医者の事ではない。所謂、カウンセラーという職業の人間だ。そして、雨宮は彼の事が好きではない。

 あの事故の後、日比谷は恐るべき決断をした。右腕を失った親友の姿を目の当たりにした雨宮は崩れ落ち、まるで廃人のように世界全てを拒否してしまった。そんな親友を救う為に、彼は何を思ったのか、自分の右足を譲った。

 そんな馬鹿な決断を家族が許す筈無かった。いや、医者でさえもだ。ただ、一人を除いては。

 先生と呼ばれるそのカウンセラーだけは日比谷の背中を押した。馬鹿な決断を止めるどころか、周り全てを説得して進めてしまった。

 雨宮は、そんな男を許そうとは思わない。

 五体満足になりたかった訳じゃない。そんなものを望んだんじゃない。ただ、親友にこれ以上何かを失って欲しくなかっただけなのだ。それなのに、どうして奪わなければならないんだ。

 ガラリと乾いた音が響いて、その男は病室から顔を出した。

 カウンセラーらしかぬ茶髪、五十に手が届く年なのに若作りで、どう見たって二十代だろう。此方に気付いて、人の良さそうな笑顔で会釈する。



「こんにちは」



 雨宮は無視した。カウンセラーは苦笑し、そのまま横を通り過ぎて行く。不意に、何処かで見た事があるような気がした。

 カウンセラーの去った後の病室に体を滑り込ませると、右腕と右足を失った親友はベッドの上で此方を見て微笑んだ。



「よう、シンジ。元気だったか?」



 その昔のままの笑顔を見て、漸くふっと息を吐く事が出来た。



「当たり前だろ。お前こそ」



 傍のパイプ椅子に腰掛けると、微かな温もりがまだ残っていた。

 日比谷は笑いながら答える。



「俺ァ、いつだって元気だろうが。今まで、俺が元気じゃない時があったか?」

「へいへい」



 雨宮は適当に返事をしながら傍に溜まった荷物を片付け始める。右腕を失った彼は、一人で満足に食事も出来ない。片足を失ったせいで歩く事も出来ない。



「先生の事、まだ嫌いか?」



 一瞬、雨宮は動きを止めた。彼にしては珍しく、探るような目付きでそっと訊いて来た。



「……嫌いだよ。大嫌いだ」



 背中を向けていたが、日比谷は笑ったような気がした。



「いい人なんだよ」

「知るかよ。俺は嫌いだ。あいつは偽善者だ」



 日比谷は苦笑し、それ以上彼の事を話さなかった。

 そのカウンセラーはかなり有名で、小学校のスクールカウンセラーもすれば、病院を回る事もある。大学で講義する事もあれば、テレビで報道される事もある。だからこそ、信用出来ないのだ。

 荷物を片付けていると、大量の手紙の下から長方形の小さな名刺が落ちた。拾って見れば、それはあのカウンセラーの名刺だった。

 『蜂谷裕』

 名前を見て、色々な記憶が一気にフラッシュした。

 蜂谷、蜂谷、蜂谷。

 有り触れた苗字ではないだろう。



「蜂谷、裕」



 同じ苗字を持つ人間が傍にいる。

 蜂谷祐輝、和輝。これは偶然か、それとも。



「あの人、元高校球児らしいぜ。甲子園優勝経験があるとか言ってたけど、本当のとこは解んねぇよな」



 日比谷は悪戯っぽく白い歯を見せて笑った。だが、雨宮の頭の中にはこれまでの情報が氾濫している。日比谷はそんな様子もお構いなしに笑っていた。



「俺と一個違いの息子が野球してるらしいんだけど、『蜂谷』ってもしかしてさ」



 探るように、日比谷は意味深な笑みを浮かべた。だが、すぐに「冗談だよ」と噴出して笑った。

 そんな訳無いよな、と日比谷は笑っているが、雨宮には既に確信があった。

 何気無く窓の外に目を向ける。青空に浮かぶ綿雲が日光に透けていた。照り付けられるアスファルトを滑るシルバーボディのセダンに、あの横顔がふと見えた気がした。




 やがて、裕の乗ったセダンは病院を離れ、高速道路を越える。車内に流れるノリの良い洋楽を聴きながら、裕はぼんやりとついさっき会ったばかりの少年の事を思い出した。

 右手を失い、親友の為に右足さえも譲った悲運の名プレイヤー。彼は素晴らしい投手だったが、もう、グラウンドに立つ事は無いだろう。

 裕が彼の元に通い続けるのにも、理由はある。彼は、人が思う程に強くはないのだ。誰一人それを知らないけれど、彼は知られる事を恐れている。だから、知られてはならないのだけど、それでは彼が潰れてしまうのだ。

 故に、思う。カウンセラーである自分が通わずとも、あの親友である少年が彼を理解してやれる事が最善なのだと。

 だから、少しでも会話がしたかったのだが、どうやら、自分は彼に途轍もなく嫌われているらしい。



(世の中上手くいかねぇよな)



 溜息を零し、裕は少しだけ笑った。上手くいかないからこそ、この世界は面白い。

 そんな事は、口が裂けても彼等に言えないのだけど。

 不意に、自分の子供達を思い出した。どいつもこいつも捻くれ者で手が焼けるけれど、だからこそ面白いと思うのだ。

 その時、まるでタイミングを見計らったかのようにポケットに突っ込んだ携帯が高い電子音を車内に響かせた。出る訳にも行かず、車内に耳障りな電子音を響かせたまま放って置くと、携帯はふつりと鳴るのを止めた。

 そのまま高速を降り、目的地である職場に戻ってから携帯を確認すると、予想通り息子からの着信だった。つい笑ってしまう。



「もしもし」

『――あ、親父?』



 変声期をとっくに越えた低い声は不機嫌そうに言った。



『今日、飯当番親父なんだけど』

「ああ、知ってるよ」

『冷蔵庫の中、あんまりねぇけど?』

「買って帰るよ。……和輝は?」

『部活だろ。俺ももう出る』

「そっか、解った。行ってらっしゃい、気ィ付けてな」



 それだけ言って電話は切れた。だが、切れた次の瞬間、再び息子から電話が掛かって来た。

 ディスプレイには件の息子の名前が表示されている。裕は笑いながら電話を取った。



「はい、もしもし」

『あ、親父?』



 元気一杯のボーイソプラノ。和輝はいつもと変わらないまま、大きな声で言う。



『今日の夕飯なんだけど』

「ちゃんと材料買って帰るよ」

『良かった』

「なあ、和輝」



 裕は少しだけ笑った。どうも自分は、他の兄姉達と同じようにこの末っ子が可愛くて仕方ないらしい。和輝は電話の向こうで首を傾げた。



『何だ、親父』

「頑張ってるか?」



 和輝は一瞬、息を詰めた。



『――うん』



 裕は綻ぶようにして笑った。和輝も釣られて笑う。



『頑張ってるよ。後悔なんてしたくないから』



 父親からの質問に答え、和輝は小さく息を零した。父の質問は一見すると意味不明なのだが、何時だって胸に響く重いものだ。

 暫しの沈黙が流れた。裕は黙り込んだ後、思い出したように更に問い掛けた。



『目の前に存在する道全てが棘路でも、お前の意思は変わらないか?』



 一瞬、世界を静寂が支配した。和輝はその質問の答えを探すように脳をフル回転させ、そして、静かに目を閉じる。



「変わらないよ」



 目を開ける。春の新緑が網膜に焼き付いた。



「誰もが苦しむ道しかないなら、俺は、最後は皆で笑える道を往きたい」



 電話の向こうで父が笑ったのが解った。和輝は正面の新緑に染まる山の景色を真っ直ぐに見詰める。

 覚悟も責任も全部一人で背負って行くと誓って選んだ道なのだ。悲しいのも辛いのも、苦しいのも全部一人で十分だと思って来た。それでも、傷付くのなら、苦痛さえも笑い飛ばせるようなゴールを迎えたいのだ。そう思うのは傲慢だろうか。

 裕は静かにそっと答えた。



「十分だよ」



 和輝は、漸く笑った。

 頭の中に藤と雨宮の横顔が浮かび上がった。飛び込んで行く覚悟は、もう決まっていた。




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