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坂道⑶

――叩き潰してやりたいって、言われない?



 見浪のあの、不気味な言葉を思い出して和輝は悪寒を感じた。そんな事を正面切って言われたのは初めてだ。生憎、マゾの気は無いから不気味で怖くて仕方が無い。

 彼は何が言いたいのだろう。叩き潰したい、だなんて。

 けれど、叩き潰されるつもりは毛頭無いのだ。例え潰されたって、立ち上がって最後まで歩き続けてやる。





「和輝!」



 呼ばれて振り返る。太陽は真上に近い。

 よく整備されたグラウンド。緑色のフェンスと得点板。時は土曜日、午後零時半、場所は東谷高校グラウンド。本日はいよいよ、新生晴海高校初の練習試合だ。

 あのグラウンドを手に入れてから晴海高校は欠片も手を抜かず、全力で練習して来た。夏の本戦まで時間が無いのだから、練習とはいえ、一試合だって無駄には出来ないのだ。

 箕輪は和輝の傍に駆け寄り、少し先の観覧席に視線を送った。



「あそこにいるのって、光陵の見浪翔平なんだろ?」

「何、知ってんの?」

「そりゃあ、有名人だから」



 顔色を悪くして、箕輪は声を潜める。



「えげつないスラッガー、だよ。俺、中学の時、あいつのチームに負けたんだ」

「そうなんだ」



 とりあえずそう答えるが、どうも和輝には箕輪や夏川の言う『えげつない』という意味が良く解らない。



「中々、胡散臭そうなやつだとは思ったけどね」



 此方に気付いた見浪が手を振って来たので、応えるように和輝は軽く手を上げた。すると、箕輪は眉を寄せてそっと言った。



「気を付けろよ。あいつ、ドSだから」



 和輝は、なるほど、と手を打った。



「そういや、叩き潰したいって言われたな」

「……笑えねーよ」



 引き攣った顔で歩き出す箕輪の後を追うようにして和輝も歩き出す。そんな二人の背中を遠くから見浪は眺め、皮肉そうに笑っていた。

 天才・蜂谷祐輝の弟がどうしてこんなところにいる。元プロ投手の息子の夏川啓がどうしてこんなところにいる。世間の表舞台に立つべきスターがこんな場所で燻っているだなんて、一体他の誰が知っているというのだろう。

 夏川の生気の失せた目を見た事はある。彼はきっと野球を捨てて、何もかも無かったみたいに逃げ出したんだろう。だけど、どうやらもう一人は何かが違うようだ。



――例え世界がどんな理不尽な見方をしたって、俺達は自分と向き合って歩き出せる



 あの裏側に存在する何かの正体、青白い光を放つ鬼火の正体を見極めてやる。そして、全て暴かれて弱音を晒す背中を蹴っ飛ばして、止めをさしてやりたい。

 自分の歪んだ性格、度を越えた加虐心はもう諦め受け入れている。最早、直そうとすら思っていない。



「さて」



 見浪は改めてグラウンドに目を向ける。晴海高校が、東谷高校が試合前の練習を始めている。



「お手並み拝見と行こうかな」



 晴海高校側ベンチには、練習を終えた和輝達が輪になって集合していた。事前に知らされていた各ポジション、打順、相手チームの詳細を再確認する。

 高槻は言った。



「これが、新生晴海高校野球部の初試合だ。東谷高校は県内で言う所謂中堅高校だ」

「……晴海高校は所謂強豪高校だった訳だが、ここ数年はさっぱり」



 隣で萩原が皮肉そうに言う。高槻は苦笑し、一度、それを肯定した。



「ああ。……でも、それは昔の話だ」



 誰もが顔を上げて高槻を見た。高槻はニヤリと笑う。



「あれから色々な事があった。大所帯だった野球部も今じゃたったの九人しかいない。これがどう言う事か解るか、箕輪」



 突然振られた箕輪は肩を跳ねさせ、慌てて考え込む。



「……とりあえず、嘗められてるって事です、か……?」



 高槻は、クスリと笑った。



「まぁ、そうだな。新しい一年も入れてたった九人しかいねぇんだ。俺なら呆れて試合も断るよ」



 和輝が頷きつつ、眉を寄せて困ったように考え込むと、隣から夏川が肘で小突いた。



「そうじゃねぇだろ」

「じゃあ?」



 不満そうに口を尖らせて言うと、夏川はわざとらしく大きな溜息を零した。見ていた高槻は苦笑する。



「つまりさ、このチームの力は未知数なんだよ」



 あっ、と箕輪は声を上げた。



「このチームの力は誰も知らない。敵も、味方もな」



 高槻は声を落とす。



「勝つか負けるかなんて、どうだっていい。全力出してみろ」



 皆の気合が入る、その場面で和輝は可笑しそうに笑った。場違いの笑い声に皆の冷たい目が向くけれど、和輝は笑いを堪え切れないように言う。



「いやいや、勝ちましょうよ、絶対に」



 皆の表情が和らぎ、高槻も笑って言った。



「……そうだな」



 笑い声が零れた。輪になっていた晴海高校は集まって円陣を組む。高槻は大きく息を吸い込んだ。



「勝つぞ」

「「ォオオッ!!」」



 そこからグラウンド向かって走り出す晴海高校。同じように東谷高校も整列に向かっていた。

 和輝はグラウンドに向かう刹那、振り返って、遠くから何処か見下すような視線を向ける見浪に目を向けた。見浪は不敵に笑っている。和輝は目を細めた。



(見てろよ)



 俺は潰されたりしない。

 和輝は同じように不敵に笑い、拳を向けた。







坂道・3










 グラウンドに両校の挨拶が響き渡った。元気の良い声を合図に早速、晴海高校はグラウンドへと駆けて行く。ここ数日の、山の中とは言えグラウンドでの練習が功を成したらしく、広いグラウンドを前にしても誰も気圧されるような様子は見せなかった。

 晴海高校は後攻。先攻である東谷高校の一番打者がバッターボックスに入る姿を、和輝は慣れた三塁手の定位置から見詰めている。

 東谷高校は高槻の言う通り、神奈川の中堅高校だ。堅実な守備には定評があり、コツコツと点を取ると言うけれど、逆に花の無いチームでもある。ここぞと言う時の一発が無いのだ。

 和輝は一番打者を観察する。相手は三年生。まだ何とも言えないけれど、何と無く、足が速そうだと思った。



(転がして来るのかな)



 勝手な独断だけど、この監督のいないチームに指示を出す人間はいない。いるとしても萩原か高槻くらいのものだから、指示が間に合わない事もあるだろう。

 和輝は恐らく、自分のところへ来るだろう打球に備えて構えた。

 マウンドには高槻、キャッチャーは当然、萩原だ。夏川は一塁で形だけは真面目に構えている。当然だろう、彼は元々ピッチャーだ。マウンドに登っているのが高槻である事が不満なのだろうが、相手がキャプテンの為に文句を言えないのだ。

 そうしている間に高槻はすっと構える。これまで、夏川も高槻の投球は何度も見て来た。だが、その力を改めて一年は目の当たりにした。


 キュ、と構える。そこからゆっくりとワインドアップ、そして、緩やかな流れるような淀みないステップ。左腕は、横方向から振り切られた。

 バッターは高槻を見て一瞬、体を強張らせた。左のサイドスローである。

 どうにかバットを振り切った打者だが、打球は詰まった。てんてんと勢いを殺された打球が転がる。図らずともバントのような打球に焦ったのは、極僅かな人間だけだ。

 和輝はそれを素早く捕球し、慣れた動きで一塁へ送った。



「ファーストー」



 乾いた音が響く。



「アウトー」



 酷く静かに試合が進む。夏川はふ、と笑った。

 左のサイドスローはきっと、体格的に恵まれなかった高槻が、他の大柄な投手と張り合う為に身に付けた投法だろう。非力故の結果だと笑えたらいいかも知れないが、この完成度の高さは圧巻だ。



「ワンナウトー」



 高槻は表情一つ変えずに言う。全てが自分の想定内とでも言いたそうだ。

 マウンドに立つと雰囲気が変わる。普段から冷静沈着で物事に動じず、何処か世界に対して諦観しているような目をしているが、今の高槻は普段のクールな印象を更に深めた。マウンドの上に凍り付くような冷たい空気が漂っている気がする。

 夏川はマウンドに目を向け、次に三塁に視線を動かした。小さな三塁手、和輝が表情一つ動かさずに其処に立っている。



(このチーム、意外と……)



 そう思ったのは夏川だけではない。遠くから見浪が糸目を更に細めてグラウンドを見渡している。

 晴海高校野球部は偶然が重なって出来上がった中途半端なチームだ。けれど――。


 高槻が振り被る、萩原が構える、野手はそれぞれのポジションで試合展開を眺めている。審判は叫んだ。



「……トラーイクッ! バッターアウト!」



 あっという間のスリーアウトだった。一回の攻撃が終わらされた東谷高校のベンチがざわりと動く。晴海高校は早々とグラウンドを後に、ベンチへと走り出していた。

 晴海高校の攻撃が早くも訪れた。バッターボックスに入ったのは最小・最速の少年、蜂谷和輝。

 和輝は挨拶をしてバッターボックスに立つと、袖を捲り上げ、無表情に構えた。乾いた風が試合用の新しいユニホームを膨らませ、短髪を揺らす。

 見浪はその様を見詰め、静かに思った。



(蜂谷祐輝に比べて蜂谷和輝の記録は殆ど残っていない。活躍も実力も殆ど知られてはいない。けれど、あいつは常にこう呼ばれて来た。……天才・蜂谷和輝と!)



 実力未知数の選手がどうして天才などと呼ばれるんだろうか。見浪はその理由がずっと、彼の兄から来るものだとばかり思っていた。けれど、どうやらそれだけでは無さそうだ。

 和輝は口を真一文字に結び、真っ直ぐ前を見据えた。

 中学の頃から四番を張って来たから一番打者なんて久しぶりだ。俊足を買われて兄がいた頃は一番打者だったが、それも今じゃ何年も昔の話。

 不慣れな打順、ちぐはぐな仲間、巨大なプレッシャー。

 和輝は、笑った。



(上等じゃねぇか)



 頑張ると約束した。負けないと誓った。

 同情も労わりも突っ撥ねて、誰の理解もいらないと独りで走り続けると決めた。けれど、そんな背中を応援してくれる人がいる。それが、こんなところで立ち止まっていられるか!

 正面のマウンド、ピッチャーが振り被る。和輝は眉一つ動かさずにその一球を見送った。



「ボーッ!」



 そして、二球目が放たれる。

 ピッチャーのモーションに合わせるように和輝の右足がふわりと持ち上がり、振り子のようにゆるりと動かされる。口元には俄かに笑みが浮かんでいる。見浪は背筋に冷たいものを感じた。

 鋭い音が響いた。

 その体に見合わない、強烈な打球が白い閃光となってグラウンドを一直線に駆け抜ける。矢のようなライナーは軽々と内野を抜け、外野の足元を潜り抜けた。

 誰も反応出来ないその場面で和輝だけがバッターボックスを発った。一塁線を駆ける小さな選手に誰もが舌を巻く。外野が捕球、同時に和輝は一塁を蹴った。

 レフトが振り被る。しかし、和輝の目には二塁を駆け抜ける自分が映っていた。送球が二塁に向かった時、和輝は二塁を蹴って三塁に向かっている。

 そして――、三塁に立った。送球は間に合っていない。



「セーフッ……!」



 審判は信じられないものを見るような目で両手を開いた。両校のベンチから不気味なざわめきが聞こえ、和輝は苦笑交じりに手袋をポケットに押し込んだ。

 この程度、と笑っているのだ。

 次の打者である桜橋は引き攣った笑みを浮かべながらバッターボックスに立つ。



(俺達はとんでもない選手引き込んじまったんじゃねぇのか……?)



 しかし、そんな桜橋も初球を三塁線ギリギリのところに転がす。絶妙なバント、和輝はスライディングも無く、あっという間に本塁まで帰って来てしまった。

 先取点――。

 ベンチに戻った和輝は呼吸一つ乱していない。箕輪は目を細めて皮肉っぽく言った。



「流石」

「何がだよ」



 和輝は笑ってベンチに入って行く。

 バッターボックスには藤が入っている。和輝は以前、藤が言っていた事を思い出しながらグラウンドを見ていた。

 ノーアウト・ランナー一塁の場面で藤はしっかりと打った。打球は二遊間を抜け、藤は俊足を見せて悠々と二塁に立つ。その間にも桜橋は本塁に帰り、追加点を入れる。

 そんな様子を見て、和輝は密かに笑う。

 自分達には甲子園は行けないだとか、散々言っておきながら藤も相当やるじゃないか。

 バッターボックスには萩原が入っている。初球のボールを見送ったところだった。そして、二球目のストレートを容赦なく無く叩き、藤が三塁、萩原が二塁に立った。

 絶好調じゃないか、と。和輝は笑いを噛み殺してバッターボックスに入った夏川に目を向けた。



(俺はいつも、仲間に恵まれてるなぁ)



 そうして密かに笑っていたが、それもすぐに阻まれた。

 青空に響く高音と、ポツリと浮かぶ白い点。誰もがその打球を見上げた。

 打球は大きな弧を描いて、ゆっくりと、ゆっくりとフェンスの向こうへと消えて行った。



「おいおい」



 肩にバットを担いでいた箕輪が言う。



「ホームランかよ」



 コーチャーが腕をぐるりと回す。ランナーは暫しの間瞠目し、動きを止めていたが、ゆっくりと走り出した。追加点だ。

 次々にホームインする仲間の中、夏川は何かキラキラした笑顔を向ける和輝の前で足を止める。暫くの間沈黙していたが、夏川は観念したようにハイタッチした。乾いた音が響く。

 ネクストサークルに向かう直前の箕輪が恨めしそうな顔をするので、仕方無さそうに夏川はハイタッチした。



「……良いチームだろ」



 ポツリと和輝は言う。



「なあ、楽しいだろ?」



 その問いに、夏川は苦笑交じりに頷くしかなかった。箕輪は仲間外れが寂しいのか横から口を出す。



「俺がいるのに、楽しくない訳がないだろ」



 和輝は笑ってそれを肯定し、箕輪は何処か誇らしげに肩を組んだ。

 キラキラした光を放つ二人の他愛の無い会話を聞きながら夏川は遠いところで佇んでいる。





 試合が終わったのは、それから数時間後の事だった。結果は晴海高校のコールド勝ち。あっという間に終わった新生晴海高校野球部の初試合。光陵学園の期待の新人、見浪翔平ばかりが興味ありげに見ていた。

 日の暮れかかった街中を歩いて駅まで向かう野球部の最後尾で和輝はだらだらと歩いている。両隣に並ぶ箕輪と夏川が何か言い争っているが、本当にどうでもいい。雑用として持たされた荷物が、小さな体には重過ぎるのだ。その巨大な荷物を背負って和輝達は帰り道を辿る。



「和輝」



 不意に呼ばれて振り返ると、そこには見浪が立っていた。勢い余ってずり落ちた荷物を背負い直し、和輝は軽く声を返す。



「よう、今日はお疲れ」

「お前もな」



 見浪は意味深な笑みを浮かべた。



「試合、見に来て良かったよ。早い内に対策が打てる」

「何言ってんだか」



 和輝は軽く笑って、そのまま先を歩き出す。箕輪がすぐ後を笑いながら追うけれど、夏川だけは立ち止まって半身振り返り、見浪を見ていた。

 見浪は苦笑する。



「何で、あいつは『天才』なんて呼ばれてるんだろうな」



 夏川は笑った。



「簡単な事さ」



 夕暮れの向こうに歩いて行く背中は振り返り、夏川を呼ぶ。夏川は軽く返事をして、見浪に目を向けた。



「あいつが天才と呼ばれるのは、馬鹿だからだよ」



 そして、夏川は歩き出した。

 和輝は確かに馬鹿なのだ。天才という言葉で片付けられるように、血反吐を吐くような努力を巧みに隠してしまう。けれど、そういう何処か歪んだ真っ直ぐさが人を惹き付ける。

 歩き出した夏川と、その向こうで待っている和輝と箕輪。三人を包む夕暮れに向かって見浪は叫んだ。



「あの言葉、覚えておけよ!」



 夏川は振り返らず、和輝と箕輪は眉を寄せる。



「必ず、お前を叩き潰してやる!」



 和輝は、笑った。



「ばーか、叩き潰されるかよ!」



 笑い声に混じってそんな言葉が返って来る。見浪もつられるように笑っていた。



(いいや、俺は必ずお前を叩き潰す)



 その強さを乗り越えてやりたいと思うから。

 見浪は、夕暮れの向こうに消えて行く三人の背中を暫くの間、ただ眺めていた。



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