罪と罰
「おかあさ~ん」
「う〜、う〜!」
夫と息子たちが入る風呂場から呼ぶ声が聞こえてくる。
今日も幸せいっぱいのはずの我が家。いつものように子供たちが裸でリビングに飛び込んでくる。
「こらー!!ちゃんと服着なさい!!」
と私は怒鳴るが、まるで聞こえていないかのように息子たちはオモチャに一目散。
「こらっ!」
と叱ると、長男はあわてて着替え始める。しかし、二歳になる次男は例のごとく私をガン無視だ。
「いいかげんにしなさい!」
私の声を無視する次男の手をとり、思わず怒鳴る。
その剣幕に驚いた次男は私の顔を見つめ、次の瞬間には泣き出した。普通の母親ならばこんなことでは動じないのだろう。しかし、私のことを見つめたその目に私は思わず怯んでしまった。
私には彼がこう言っているかのように思えたのだ。
「僕のこと、殺そうとしたくせに!」
あのおぞましい記憶がまた蘇える。
土曜日の朝のことだった。布団から立ち上がると目まいがし、関節も痛んだ。おそらく風邪を引いていたのだろう。あの時の私の身体、そして精神状態は普通ではなかったと思う。
そんな私の耳に夫の声が聞こえてきた。
「おいっ!聞いてるのか?」
「えっ?」
私が振り向いた先には誰もおらず、反対側を向くと怪訝そうな顔をして立っている夫が私のほうを見ていた。
右耳からゴーっと風の吹く音が響き、何も聞こえない。
初めての経験ではあったが、あぁ、これが突発性難聴というやつなのだと理解できた。
仕事でも人間関係でも毎日がストレスの連続だった。加えて、帰ってからは子供達の相手が待っている。朝6時に起きて夫と子供たちを起こし、7時前には夫を送り出し、ぐずる子供たちをせかしながら、今日の夕食の準備をし、8時半には自転車で息子たちを保育園に送り、そのまま出勤する。仕事は遅刻と欠勤だらけで同僚に合わせる顔もない。私とて出産するまでは同じ立場だったからよく分かる。針のむしろの上にいるとはこういう事なのだろう。
世間では2人目は手がかからないと言うが、そのことと母親の苦労は別物だと思う。次男が産まれたからといって、長男がいなくなるわけではない。逆に次男の存在が長男の心を傷つけ、赤ちゃん返りをおこしたりもするのだ。
少し夫に子供達を任せて休ませてもらおう。そう思っていた。
「おい。本当に大丈夫か?」
「うん。実はちょっと……」
そう言いかけて私は口をつぐんだ。
彼はスーツに身を包んでいた。
「うん。ちょっと疲れているみたい。大丈夫よ。それよりひょっとして今日も仕事なの?」
「そうなんだ。期末の追い込みでさ。それより本当に大丈夫か?」
前の日も遅かったのだろう。夫の顔には疲労の色がありありと現れていた。
「ううん。大丈夫。あまり無理しないでね」
耳が聞こえないことは言えなかった。辛いのは私だけではない。私さえ我慢すればいい。そう思っていた。
その時、リビングと私たちが寝ている和室を仕切る襖がガタガタと音を立てた。続いて襖をドンドンと叩く音。次男が目を覚ましてしまったようだ。あの天使のように可愛らしかったあの子はイヤイヤが始まってから悪魔へと変貌した。いつも眠るのが遅く、そのくせ起きるのは早い。とかく長男に突っかかり喧嘩をはじめる。お腹が空けば泣き、眠ければ泣き、自分の思う通りにいかなければ癇癪をおこして物を投げ、私を叩く。長男もこんな時期があったのだろうか。ただ単に私の神経が過敏になっているだけなのか、それともこの子の特性なのか。
「おはよう。陽介!」
夫は次男を抱き上げたが、いつものように「ママ!ママ!!」と泣かれ、少し悲しそうに、けれども少しほっとしたように私に次男を預けてきた。私は精一杯の作り笑顔を作り、小さな悪魔を抱きかかえる。今日も機嫌が悪い。早く目が覚めてしまったからまだ眠たかったのだろう。ならもう一度寝ればいい。なんてことはこの悪魔には通用しない。
やがて機嫌がすこし直り、夫が出掛けようとした時、テレビから天気予報が聞こえてきた。
「今朝はこの秋一番の冷え込みとなっています。昼間もあまり気温が上がらず、夜も寒くなることが予想されますので、厚着をしてお出かけ下さい」
「マジかよ。どおりで寒いと思ったよ」
「あっ、私コート取ってくるね」
まだしまっているコートを取りに二階への階段を昇る。次男も私の後を追いかけてヨチヨチと危なっかしく階段をのぼってくる。
「危ないから昇っちゃだめよ」
私は振り返り、声をかける。
しかし、その小さな無防備な姿を目にした時、私の心の中の悪魔が囁いた。
この手を少し突き出せば楽になれる。この子は為すすべもなく階段から落ちていくだろう。
あなたが悪いのよ!あなたがいなければ休めるのよ!落ちてしまえ!!そして死んでしまえ!!
次の瞬間、次男のバランスが崩れた。
小さな身体は、上になり、下になり、クルクル回りながら階段を落下していった。
全てがスローモーションのようだった。足を滑らせてから一階に落ちるまで一瞬の出来事だったのだろうが、私の眼には次男の怯えた目、小さな手のひら、そして足の指の爪さえも鮮明に脳裏に焼き付けられた。
そして、リビングを沈黙が支配した。
動けなかった。
私が落とした?
そんな訳はない。私は何もしていない。
でも、確かにあの瞬間、私はそれを望んでいた。愛する息子が階段から落ちることを。そして、その小さな身体が冷たくなり、動かなくなってしまうことを。
「おい!どうした!」
トイレに行っていた夫が私たちの姿を見た瞬間、何が起こったのかを理解し、次男を抱きかかえた。恐怖でマヒしていた次男が火が付いたように泣き叫ぶ。
「階段から落ちた時に口の中を切ったようだな。骨折はしていないみたいだ。歯も折れてない。多分大丈夫だろう」
夫が冷静に言った。長男が階段から落ちた時もこの冷静さに救われた。しかし、今日はこの冷静さが私の癇に障った。
医者でもないくせに!
私の気持ちなんて何も知らないくせに!!
「そんなこと言って、頭打ってたらどうするのよ!!だって……」
次男を彼の腕から奪い取り怒鳴った。いつの間にか私の眼から涙が溢れ出ていた。
だって、私は願ったのよ!落ちて死んでしまえって!!
「病院に行ってくる!!」
私は無言の夫をおいて車に乗り、脳外科に向かった。
「たんこぶはできているようですが、脳には異常はないようですね」
先生の言葉に安堵し、私は全身の力が抜けた。無事で良かった。いつもは生意気でうるさいこの小さな存在が冷たくなり、動かない姿を想像するとまた涙が出てきた。
私、やっぱりこの子を愛しているんだ。
あなたは私でいいのかな?こんなママでごめんね。
あの日からもう一週間がたつ。次男は階段から落ちたことなど忘れてしまったように以前と同じように長男とはしゃいでいる。私の右耳も少しずつ聞こえてきている。夫の仕事もようやく落ち着き、今は早く帰ってきて子供たちをお風呂にいれてくれるくらいはできるようになった。今度の日曜日は二人を連れて遊びに行ってくれるそうで、私は久しぶりに一日自由な時間を過ごす。
しかし、身体に残る小さな痣を見るたび私の心はズキズキと痛む。あの時、確かに私はこの子を押さなかった。でも、それはただ行動に移さなかっただけ。思う事と行動に起こすこと。ただ、小さなハードルを超えるだけ。その罪に一体どの程度の違いがあるというのだろう。
聖書にはこのように記されている。
マタイによる福音書
「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」
そう、たとえこの痣が消えてしまっても、私がこの子を殺そうとした事実は消えはしない。それは黒い十字架となり、いつまでも私を苦しめるだろう。
それが私の犯した罪。
そして受けるべき罰。
最後までお読み頂きありがとうございます。
ご察しの通り、実話です。まだ少し辛いですが。
子育て頑張ります!