第十話
最後に夏月と図書館で会ってから二ヶ月ほど経った。 季節は真夏を越え例年より暑い残暑が日本を襲っている。
『今日もいない』
図書館に足を向け美夜子は少し肩を落とした。 今までにここまで夏月と行き会えない事が無かったわけではなかった。 だが不安が美夜子の心を支配していた。
今までだって会えるわけでも約束をしていたわけでもなかった。 でも何故か安心出来た。 別れる前の夏月の悲しそうな笑顔が気懸りで不安になったのだった。
「あんた、嶽村美夜子?」
目ぼしい本が無いか探していると凛として気の強そうな女性の声がして振り向くと黒のジャケットを着て黒いスラックスを履いて中のワイシャツは紅という、凄く派手な格好をした長身の女性が立っていた。
『え、何この人、こわっ!』
「は、はい……。 そうですけど」
女性の容貌と久しく会話という会話をしてなかった美夜子は声が震えながら頷いた。
「……夏月、知ってるわよね?」
「え? はい」
「あの馬鹿、多分もう来ないわよ」
うんざりとした顔をして女性は夏月の名前を出し女性が夏月と知り合いということで少し警戒が外れ頷くと冷たく言い放ちながら女性は美夜子を見下ろした。
「え?」
「だから、もうここには来ないって言ってんの。 あたしはそれだけ伝えに来ただけだから」
きょとんとすると深いため息交じりに言って女性はその場を立ち去ろうとした。
「あ、あの、なっちゃんに何かあったんですか?」
パシッと女性の手を掴んで問いかける美夜子に女性は少し黙ってさぁねと意地悪そうに笑って美夜子の手を振り払い図書館から出て行った。
納得出来るわけもない美夜子は走って図書館の外に行くがそこに女性の姿はなかった。
「……なんなのよ」
振り払われた手を握り締めて俯く。 夏月に何かあったのだろうか、あの女性は一体誰なのか。 そんな疑問ばかり頭を支配して空を見上げる。 残暑だというのに風が少し肌寒い日だった。
「お久し振りです。 藤爺」
駒乃が下界から帰って来て居間に行こうとするとそんな声が今から聞こえた。
「ほっほっほっ、黒や、お前はいつまで経っても堅苦しいのぉ」
おっとりとしているが芯のあるしゃがれた声も聞こえた。
「爺さん!? 何でいるの!?」
スパーンと障子を開けて声の主が自分が思っていた人物だと言う事を確認して駒乃は驚きながら問いかけた。
「駒乃! 藤爺になんて口のきき方だ!」
「いいんじゃよ、黒。 お主らはわしにとっては孫同然じゃからな。 駒乃久し振りじゃな、わしがここに居たら何か不都合でもあるのかの?」
駒乃に怒鳴る黒陽と黒陽を止めて笑いかけてその細くなった目が少し開き藤色の目が鋭く駒乃を射抜きながら問いかけた。
「っ……。 別に不都合なんかないわよ!」
『不味い、爺さんに夏月の事知られたら……。 夏月っ、早く帰ってきなさいよ』
まるで狐のような藤を目の前にして駒乃は歯噛みをした。 今は何処にいるのか分からない末の弟のような存在へと。
「あれぇ? 藤爺さんじゃん~。 お久し振りぃ」
正午を過ぎ日が傾いてきた時に寝起きなのか寝癖を付けた甚蔵が今に入って来て黒陽と将棋をする藤を見て笑う。 勿論甚蔵も夏月の事は知っている。 だがそれを微塵も感じさせない甚蔵は流石と言うべきか。
「甚蔵、お前はまたこんな時間まで寝ていたのか」
パチンと景気のいい音を立て将棋盤の上に駒を置きながら甚蔵を見て黒陽が言うとほっほっほっ、と笑う藤。
「寝る子は育つというからのぉ。 のぉ? 甚蔵」
「それ、人間だけじゃないのぉ? 鈴姉~、なんかある~?」
ふむと考えながら藤は甚蔵に言うと半分寝ていながら甚蔵は俺らには関係ないでしょと言いたげに吐き捨てて台所へ向かいながら言う。
「鈴はおらぬよ?」
「……マジかァ……。 なんか食べていいのある?」
楽しそうに笑いながら藤が言うとため息交じりに甚蔵がぼやき黒陽に問いかける。
「俺に聞くな。 適当に食べろ。 鈴にはちゃんと伝えておけよ」
「はぁい」
黒陽は悩んでる様に顎に手をやりながら答えるとやる気のない声が帰ってきてごそごそと台所の棚を漁る音が聞こえる。
「相も変らぬなぁ。 お主らは」
パチンと悩んでた黒陽が駒を動かすのを見ながら藤は薄く笑顔を浮かべて言った。 それは慈しみのような色を映していた。
「藤爺、それは褒めているのか?」
ずずっとお茶を啜りつつ問いかける黒陽に藤は勿論じゃと答える。
「褒めてるようには聞こえんかったがな」
棘のある言い方で黒陽は呟く。 聞こえるか聞こえないかの声だったが藤には聞こえていたようで藤は聞こえておるよ、と垂れ下がっている瞼の奥で鋭く黒陽を射抜いた。 黒陽は悪いと言った。
「ほっほっほっ。 構わぬ構わぬ」
上機嫌で笑う藤はこう続けた。
「して、夏月はどこかのぉ?」
ニコリと笑う藤だが黒陽たちの心はざわついた。 下手なことを言えば藤に夏月が“禁忌の存在”になり兼ねないという事がバレてしまう可能性が高かった――というよりその可能性しかなかった――。
「夏月なら少し山奥に籠ってるよ。 藤爺さん」
握り飯を食らいながら甚蔵が台所から出てきて言う。
「こら、甚蔵、行儀が悪い」
「……ほう? 何故夏月は山奥に籠っておるのじゃ?」
黒陽が注意して甚蔵がその場に座ると藤が更に問いかける。 人知れず黒陽は冷や汗を流していた。
「夏月だって一人になりたい時ってあるんじゃない? あいつ一番人間に近いし」
じょーちょふあんてーって奴? と笑う甚蔵に藤はそうかそうかと笑った。
その藤の反応に黒陽は少し安堵をしたような息を漏らした。
だがそれを見逃す藤でもないが藤はあえて聞こえないふりをした。
「甚蔵が情緒不安定という言葉を知っているとはなぁ……。 真に成長が早いよのぉ」
嬉しそうに呟く藤に黒陽は人知れず少し眉をひそめた――黒陽を深く知る者でなければその変化にすら気づかないほどだが――。
藤と甚蔵が楽しそうに話していると川の神などから差し入れを貰って帰ってきた鈴が暮れはじめる日を見てあらあらと食事の支度をはじめ藤はその日、泊まることになった。
甚蔵以外は気が気ではなかった。 黒陽さえも。 だが黒陽、鈴の二人はそんな心を一切見せなかったが駒乃達は黒陽が頭を抱えたくなるぐらいあからさまに動揺していた。