黒猫の予感
夏ホラー初参加作品です。
全ての始まりは、ここからだったんだ。
バックミラーから間接的に目を射る太陽が、鬱陶しくて仕方がない。
3年間乗り回している愛車も、がたがきてるのか、車内は蒸し風呂状態だ。助手席に座っていた永井がたまらず窓を開けた。やけに生暖かい風がべたべたと首筋に絡まる。
俺は、ペットボトルに手を伸ばし、気だるいコーラを流し込んだ。
そう、まさにその時だったんだ。猫をひいたのは。
公園から飛び出した陰が、ちょうどコーラを飲むために突き出した左肘と重なって、俺はブレーキを踏みそこなった。
バコッ、という鈍い音とともに一瞬車体が浮き上がる。ハンドルを握り締めた。タイヤが再び地面を擦った衝撃の後、ガラゴロ、と低い唸り声が上がった。
その時見た光景は、きっと一生忘れられない。
不意にバックミラーが陰り、細長い小さなパノラマから、『動く静止画』と言った感じでゆっくり、はっきりと映ったんだ…
「で、何を見たんだよ?」
「昔のコレか?」
本宮が小指をピンと立てる。
永井がちっちっと指を振るのを、俺は隣でアイスを食べながら黙って見ていた。
「その前に、こんな迷信を知ってるか?」
永井が話を切り替える。本宮と坂北の頭がぐっと近付いた。
俺は首筋の毛が逆立つのを感じた。
永井には妙な特技がある。どんな作り話も、あたかも体験したかのように語れる。実話なら尚更だ。
「黒猫が前を通ると、不吉な事が起きる。じゃあ、黒猫をひいたら、どうなるんだ?」
死ぬに決まってる。もちろん、ひかれた黒猫が。
でもアイツ、本当に死んだのか?
永井の語る『世にも奇妙な体験談』は、体験者である俺も不安にさせる。
鈍い衝撃音、一瞬浮き上がった車体――ハンドルを強く握った…。今朝の事だけに全て鮮明に覚えている。
最初、公園の前という事もあって、子供をひいたと思った。
慌てて踏んだブレーキが間に合わず、と言うよりも効かなかった。
焦った俺の前に現れたのは、バックミラーから睨む黒猫だった。
うず高く積まれたお中元の米やかつお節に囲まれた、本宮スーパーの休憩室に、新たな味噌ラーメンの香りがふわっと上がる。
そう言えばあの猫も、ふわっと宙を舞った。
バックミラーから見た映像が頭の中でコマ送りされる。
片目が潰れて泥を被っていたけれど、あれはもしかしたら脳味噌だったのかも知れない。
「坂北、まだ食うのかよ?俺んとこの店、赤字だぞ?」
「でも本宮のおばちゃんが、どうせ在庫だからって…」
坂北の口からむせるような味噌の香りが狭い空間に広がる。
半分だけの目がミラー越しにこっちを睨んで、耳や口から…
駄目だ、頭から追い出せ!
必死に言い聞かせ、ぎゅっと目を瞑る。
胃の中のアイスが迫り上がり、きゅっと喉を絞める。
「…きっ!広樹おまえ大丈夫か?」
本宮が肩を揺する。
「…大丈夫。」
唾を飲み込んで、辛うじて返事をした。
――――*
『…き…広樹…』
肩を揺すられて、はっとハンドルを握り直す。危ない危ない。
深夜の大通り。車は反対車線に行きかけていた。
ふと永井の言葉を思い出す。
黒猫をひいたら、どうなるんだ?
運転中に寝るなんて、今までなかった。もしかしたら、あれはやっぱり不幸の前ぶれなのか…?
そう思い始めると、信号や電光掲示板の赤い光が警告ランプに見えてくる。
赤い光…赤…
ぼろ雑巾のように千切れた四肢を力なく広げて宙を舞う猫。真っ赤な舌が異様に長かった。
ザラリ。
夜気に混じりこんで、湿っぽい砂のような風が首筋を舐める。
べたべたする。今日も相変わらず熱帯夜らしい。
パサリ。
俺の横で黒髪がなびく。
レイコだ。白いワンピースが闇の中で際立って、一段と白く見える。彼女は微笑みながら、2枚のチケットを眺めている。
黒地に浮かびあがるタイトルは、『タイタニック』…
あの映画って確か…
不意に沸いた疑問を口にしようと、彼女の方を向く。
「レイコッ?」
レイコの長い髪や細い腕が俺に絡む。
不意打ちの抱擁に、ハンドルが一気に右に沿れ、車は中央線をはみだした。
『…ねぇ、覚えてる?』
レイコが滑らかな肌をすり寄せる。白い腕が更にきつく首に絡まる。
「レイコッ…離し…」
黒い髪が視界を遮る。何も見えない。息もできない。ブレーキを踏んだはずなのに、車が歩道に乗り上げるのが分かる。
そんなっ、ブレーキがきかない!
『覚えてる?』
パアァァァン
大型トラックによくある、派手なクラクションとともに、強い光が目を射る。
『ねぇ、覚えてるでしょ?』
囁き声の後、長い舌のザラリとした感触が耳の中に入りこむ。
片方だけの金色の目、頭からべっとり被った泥。もう、レイコではない。
うわあぁぁぁっ!
「広樹!」
乱暴に体を揺すられた。薄目を開けると、永井がいる。床に転がったケータイから、7時を告げるファンファーレが流れている。
…なんだ、夢か。ほっと息をついて、アラームを止めようと、床に手を伸ばした。
ハラリ
長い髪が一房、空から降ってきた。
――――*
「…へぇー、ミサンガねぇ。」
「そう、願いが叶うと切れるってやつ。」
永井はそう言って、床に落ちたそれをつまみあげた。
昨日掃除した部屋に、お盆で里帰り中のレイコの髪が落ちるはずがない。それはよく編みこまれた、黒一色のなかなかシックなミサンガだった。
…コイツがこんなもの持ってるなんて、知らなかったな。
何か、願でもかけていたのか聞いてみると、
「豆腐の配達が無事終わるように。」
と、はぐらかされた。
――――*
本宮家は、元々豆腐屋だったらしく、今でも手作りの豆腐を作って配達している。昨日、猫をひいたのも、配達の帰りだった。
「上手くいってるか?彼女と。」
車内の冷房をMaxにして、永井が問う。
何となく、レイコが化け猫になる夢を思い出したが、俺とレイコとの間に危機が訪れた事はない。一度もない。
「おまえ、恋人依存症だな。それも重症の。」
「何でだよ?」
「寝言で彼女の名前連呼してた。」
寝言で恋人の名前がバレるなんて、カッコ悪い。おまけに恥ずかしい。
「遠距離してんの?」
「いや。今、沖縄に里帰りしてるだけ。」
「ふぅん。沖縄ねぇ。」
永井が意味ありげに眉を上げた、その時。
「おっと!」
公園から、小学生が飛び出した。
キキーッ
ブレーキ音が響く。それなのに、車の速度が落ちない!壊れてる!…違う、呪われてるんだっ!
猫をひいた時も、夢の中でも、ブレーキがきかなかった。だから今回も…
「広樹っ!ハンドルを切れっ!」
永井が叫びながら、ハンドルに飛び付いた。
景色が回る。スリップしている。頭がくらっとして、不意に風が…
パサリ
『ねぇ、覚えてる?』
『広樹、大丈夫か?』
すりむいた膝を擦っていると、本宮大地が駆け寄ってきた。
『…うん。』
小さく返事をして、辺りを見渡す。1台の車が電柱にぶつかっている。
『大地、どうしよう。』
『お、おれ、母ちゃん呼んでくる。』
大地はくるりと向きを変えて、本宮スーパーの方向へ走っていった。
広樹はゆっくり立ち上がると、道路脇や溝を丹念に見回した。
『…あった。』
植え込みの中に、薄汚れた野球ボールが落ちている。それと一緒に、誰かが落としたのか、タイタニックの映画チケットも落ちていた。
フロントガラスが砕け、車の骨組みがぐにゃりと曲がっている。左足がシートに挟まって身動きがとれない。俺はハンドルに頭を預けて、目を擦った。
信じられない。
たまたま膝の上に落ちたバックミラーを拾い、様子を伺うと、そこには小学生の自分がいた。
『思い出した?』
「あぁ…。」
1997年、全ての始まりはここからだったんだ。
11歳の俺は、危うく死ぬところだった。
片側一斜線の緩やかな下り坂。タイヤ痕がくっきりとついていた事から、かなりのスピードだったと推測できる。飛び出してきた俺を避けるために、車は大きく道を沿れて電柱にぶつかり大破した。
乗っていた若い夫婦のうち、妻が即死、夫も意識不明のまま3日後に亡くなったという。
「永井、ごめん。」
新聞の告別式の案内に載っていた名前は…『永井達司』。両親に連れられて、線香をあげたのも、墓を訪れたのも覚えている。
ハラリ
ミサンガが降ってきた。真っ黒いそれは、髪の毛で編まれていた。
「レイコの髪の毛…」
『彼の願いは私の願いだった。』
レイコが震えた声で呟いた。
両親からは、若い夫婦だと聞いていたが、レイコはまだ入籍していなかったらしい。両家の反対が大きく、事実婚だったという。
『両親を説得して、結婚式を挙げるのが夢だった。』
…あぁ。俺は二人の命と一緒に夢まで奪ってしまったんだ。
景色がチカチカと点滅する。割れたフロントガラスから風が入る。夏なのに、寒いと感じた。
レイコ、永井、事実婚、ミサンガ…少しずつ浮かび上がってくる10年目の真実。
きっと同じ墓に入りたかっただろう。墓?レイコの墓って…。
大事な事に気付いた。
俺、沖縄までお線香あげに行ってない。
背を這う視線に気付き、バックミラーをのぞくと、いつかの黒猫が睨んでいる。
景色がかすみ始めた。救急車のサイレンが、ぐわんぐわん響いて遠退いてゆく。
ザラリ
首筋に、猫が触れたような気がした。
ちなみに、沖縄のお盆は『旧盆』ですので、2週間近く遅れてやってきます。
最後までありがとうございました。