数えて二つ 3
もともと橋が掛けられていた所から十町は離れた場所に鵟衆は駐屯していた。少し丘のように高くなった場所に簡単な砦が築かれており、そこから美野里川を見下ろすことができる。
「おかえりなさい」
穏やかな声は十壱のものだ。美しく手入れされた黒髪を靡かせて、十壱はゆったりと満尋の下へやって来た。
「そろそろ着く頃かと心待ちにしていましたよ。どうでした? 挟河の様子は」
「軍は直接見れなかったけど、町人の何人かは幾つか話を聞けた。まあ、それ以上の話が源さんから届いているんだろうけどな」
満尋がそう茶化すと、十壱と勘吉は笑みを零した。
「あの人はもう別格だろう。どっかの城で隠密でもしてたんじゃねぇの?」
「ふふ、本当鵟衆に居るのが不思議な人ですよねぇ」
そう二人が言うので、満尋はやっぱり忍者みたいだと感じていたのは自分だけではないのだと安心した。そして、何故そんな人と自分が共に行動することになったのか、と満尋はずっと疑問に思っている。
「さて、もう暗くなりますし、今日くらいはゆっくり過ごしても良いでしょう。夜番は二之助たちですから」
十壱は夕日色に染まっていく山々を見ながらそう言った。奥にある掘っ立て小屋のような場所が、とりあえずの休息所らしい。
「二之助もいるのか?」
「ああ、いるぜ。あと、新左衛門に与市と主膳が来てる。一応此処は伝内さんが長になって遣り繰りしてるんだ」
「全員だと二十八人ですね。それから、少し離れたところに別暮軍が一隊来ていますよ。まあ、私らとはあまり関わりはありませんけど」
ほら、あそこだ、と勘吉が指差す方向を見れば、木々の隙間から僅かに旗本が見えた。見覚えのある旗印は、確かに別暮のものである。本当だ、と三人で別暮軍の陣を眺めていると、大きな荷物を背負った年上の男が、「帰ったんならまず伝内さんとこ行けよ」と呼び掛けてきた。満尋は十壱と勘吉にまた後で、とそこで別れると、伝内が居るという櫓の方へ向かった。
梯子とも呼べない危なげな足場を上って櫓の天辺に着くと、筋骨隆々の男が遠眼鏡で挟河領の方を覗いていた。
「伝内さん。満尋です。ただ今戻りました」
満尋がそう言うと、伝内は遠眼鏡を覗いたまま「おう!」と返事をした。満尋は目を細めて伝内の見ている方を見てみたが、辺りが暗くなってきたこともあり特に目ぼしいものは見当たらなかった。
「何が見えるんですか?」
「いやぁ。良い女でも通らねぇかと思ってよ」
満尋はその仕様が無い答えに閉口して、せっかく登った梯子をまた降りようとした。そんな満尋を豪快に笑い飛ばした伝内は、まぁまぁと彼を引き止める。
「とりあえず、お勤めご苦労さん。今日はゆっくり休めよ。とは言っても、二、三日以内には撤退するけどよ」
伝内は黒い遠眼鏡をぽんぽんと放り上げて、詰まらなそうにそう言った。満尋は「えっ」と驚くと、伝内は軽い口調で答えた。
「お前らがさっき見てた別暮軍だが、俺たちに手ぇ出すなみてぇなこと言ってきたのよ。ま、俺らの本来の仕事は橋の工作で、挟河軍と遣り合うのはおまけみてぇなもんだしな。あちらさんがいいってんなら、お言葉に甘えましょ」
はぁ、と満尋は気の抜けた声を返した。てっきり挟河軍が来た場合は、鵟衆が交戦するものだと思っていたので些か拍子抜けだ。それに、情報を集めたのも、橋の工作をしたのも鵟衆だというのに、なんだか別暮軍に良いトコ取りをされたような気がする。別に、戦がしたいという訳ではないが、釈然としない。そういえば、十壱が別暮軍に対して少し棘のある言い方をしていたが、このことはもう砦に居る鵟衆には伝わっていることなのかもしれない。
「ま、俺たちの国の為にやってることだ。それが軍に花を持たせることになったって、気にするこたぁねぇ。春日部の殿様に褒められたって嬉しくもなんともねぇしな」
伝内はそう静かに言った。鵟衆はそもそも、春日部が頼りないからと人々が集まり武装した集団である。軍には端から期待などしていないのだろう。
伝内が梯子を軋らせ降りていったので、満尋も後に続いて小屋へ向かった。夜番の者たちが外に出てきて、点々と篝火を灯していく。今夜は虫も鳴かない静かな夜だった。
満尋がふと目が覚めた時、空はまだ濃紺の衣を纏っていた。なんとなくとしか言えないのだが、何か空気が動いたような、そんな気がしたのだ。
『夜、寝ている時こそ過敏になれ』は、満尋がこの世界にやって来て自ら言い聞かせてきたことである。初めの半月はそうしないと命が危なかったし、今は鵟衆という仲間は居ても身の危険は確かに存在する。この二年間、毎晩のように心がけ、そして磨き上げてきた勘を満尋は信じていた。
だんだんと夜目に慣れてくると、満尋は枕代わりにしていた着物を上に羽織り、その中に包んでいたケースから眼鏡を取り出した。足元で寝ている新左衛門を蹴飛ばさないように移動すると、静かに寝息を立てていた主膳がぱちりと目を開けた。
「……ああ、悪いな。起こして」
「小便?」
起きたばかりの割に主膳の声はしっかりとしていた。満尋は適当に頷くとそっと戸口の方へ向かう。音を立てないように気をつけて戸を横に滑らせると、外の篝火の明々とした光が室内に差し込んできた。
戸口の前には二之助と、あまり顔を合わせたことの無い若い男が立っていた。満尋は二之助に「ちょっと厠」と小声で話すと、
「さっき、誰か出てったか?」
と聞いてみた。二之助はちょっと首を傾げて、
「ああ。伝内のおっさん。何も言わなかったけど、厠じゃねーの?」
と、答えた。この間、少し遅い変声期を終えた二之助は、低くて少し掠れた大人っぽい声になった。身長もぐっと伸び、今は丁度満尋の肩を越した辺りだ。以前はすぐに寝入ってしまった夜番も、一年ほど前からしっかり起きられるようになり、体も心も成長しているようだ。
「あ? なんだ。お前も小便か?」
暗闇の中から太い濁声が聞こえてくる。暗闇からぬっと現れたのは伝内だった。
「あ……まあ。はい」
さっきまで彼のことを話していたものだから、三人ともどこか気まずいまま返事をする。厠にしては随分と早いと思ったが、伝内は「ご苦労さん」と戸口に立つ二人に声を掛け、二之助の頭をがしがしと力強く撫でると小屋の中へ入っていった。
翌日の朝。
伝内の指示で鵟衆はこの砦から完全に撤退した。若い者たちは不満を少々漏らしていたが、それ以外は仕方が無いといった様子であっさりとしている。
さらにその翌日には迂回してきた挟河軍と別暮軍がぶつかった様だが、事が大きくなる前に決着も着き、負けた挟河軍は蜻蛉返りのように早々に退却したらしい。橋を落としたり、挟河軍の情報をいち早く入手したりといった鵟衆の働きは、そのまま別暮軍の手柄となり、伝内の言っていた通り彼らに花を持たせることになった。その時、別暮軍を率いていたのは、最近隊長職に就任したばかりのまだ若い男だという。
これにて、「数えて二つ」は完結です。お付き合いありがとうございます。
次回からの更新は伊月編の「水面の月」に戻りますので、よろしければそちらもご覧下さい。
それでは、ありがとうございました。