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数えて二つ 1

 源助には一人で帰れると強気に出てみたものの、いざ帰路に立つと時間配分に失敗したと、満尋は傾き始めた日を見ながら思った。欲を出さずに、先ほど通り過ぎた村で一夜の宿を借りれば良かった。今夜は野宿で決まりである。

 満尋は田んぼしか見えない景色に誰も居ないのを確認して、肩に斜め掛けにした布から眼鏡ケースを取り出した。軽い木のケースは器用な八弥丸お手製のものだ。眼鏡が壊れないような入れ物が欲しいと言ったら、彼は快く簡単なものを作ってくれた。細長い長方形の引き出しのような作りになっていて、これがなかなか使い易く気に入っている。満尋はそのケースから眼鏡を取り出して掛けると、今晩の寝床探しを始めた。本格的に暗くなる前にどこか良い場所を見つけたい。空き家などがあれば、丁度良いのだが。

 満尋はしばらく歩き続けていたが、これといって休めそうな小屋もなく、仕方なしに土の上で寝ることに決めた。道を外れて適当な場所を探していると遠くで水の音がする。満尋は行きの時に見た地図を頭の中に浮かべると、この辺りに小さな川が流れていたことを思い出した。北に向かって歩いているから、おそらく右手にあるはずだと草や枝を掻き分けていく。ややあって、前方にさらさらと流れる川が見えてきた。その頃には、日は山の陰にその姿のほとんどを隠していた。

 

 川辺で火を起こし携帯していた簡素な夕食を取った後、満尋は顔を洗いに川面を覗いた。澄んだ水で顔を洗うと、春の夜風が当たって一層ひんやりとする。満尋は水の滴る前髪を鬱陶しそうに掻きあげると、真っ暗な水面を見つめて顔を歪めた。

 目の前の川面は本当にただの水でしかなく、月の細い今夜は満尋の姿すら映さなかった。その事実が満尋には厭わしいばかりである。

 水面の向こうにある『月夜里(やました)』という世界。そこに居るらしい伊月という少女とはもう二年ばかり逢っていない。こうして何も映らない黒い水面を見ていると、こっそり二人で語り合ったあのささやかな時間が懐かしくなり、そして同時に悲しくもなって、満尋の心はいつもぐしゃぐしゃと乱され苦しくなるのだ。それもこれも全てはあの大火の日からだと、満尋は瞳を怒りの色に染め水面を睨みつけた。

 二年前、明鵠寺と真田(しんた)町を襲った火事の火元は『月夜里』であるというのは、鵟衆の誰もが知っていることである。それは、本来ならありえない水元から出火するという事象を多くの人間が目にしているからだ。もちろん満尋もその目でしっかりと、池が燃え上がるのを見ている。あの日は丁度満月だった。『影映り』の力が最も強くなり、『影移り』を起こす日である。しかし、『月夜里』の炎がこっちの世界まで影響を与えるなど誰が思おうか。夜中あちこちで突然起こる火事に、町中がパニックに陥った。そして、満尋があの時感じた不安は本当になったのである。

 その日を境に、ぱたりと現れなくなった伊月。二ヶ月ほど伊月は自分の意思で満尋の『影映り』に応じなかった時があったが、それとは違うと満尋ははっきりと感じていた。呼びかけても呼びかけても返ってこない返事。いつも『影映り』に使っていた池には、それ以降、どんなに月が満ちても彼女が映ることはなかった。

 それから満尋は場所を変え時間を変え『影映り』を試してみたが、伊月はおろか誰一人『月夜里』の人間が映ることはなかった。ただ水面に映るのは黒く燻った、おそらく家だったもの。そして、まっさらになった焼け焦げた大地。水面に映るその悲惨な光景に、満尋は『月夜里』の被害がこちらの比ではないということを知ったのである。

 それに気づいた時の満尋は、正に放心状態だったと言ってもいい。なにしろ、伊月の生存はほぼ絶望的だと思っていたからである。町が火の海になり、人々が恐慌状態に陥っている中で果たして無事に逃げおおせることができたのか。伊月が頼っていた家族と一緒ならまだいいだろう。しかし、池が燃え上がった時間はいつも満尋と『影映り』の約束をしていた時間だ。一人で外に出ていた可能性が高かった。満尋が考えれば考えるほど、伊月の安否は彼の中で不確かなものとなっていく。自分がもっと楽観的に物事を捕らえることができたなら。それならば彼女の無事を信じることができただろうに。この時ばかりは自分の冷静さが煩わしかった。何故自分は『月下辺(かすかべ)』に居るのか。何故伊月は『月下辺(ここ)』に居ないのか。どうしようもない悔しさで一杯だった。

 しかし、事態は伊月のことばかりに気を取らせてはくれない。

 真田町での火事がどういうわけか挟河の国の奇襲ではないか、という噂が実しやかに流れ始めた為である。もちろん真田町の人間はそれが事実無根の嘘であると知っているのだが、町から離れた城下では噂の方が信憑性は高いらしい。しかも、挟河の兵士が町に火を放つのをこの目で見た、という者まで出てくる始末である。そして、悪いことにこれを信じたのが別暮の領主春日部(かすかべ)千次郎(せんじろう)幸望(ゆきもち)だった。

 幸望は事実確認も碌にせず、これは挟河の宣戦布告であると熱り立ち、すぐに挟河との戦を指示した。おそらく彼の側に侍る佞臣共の甘言の所為でもあろうが、一国の領主としては浅慮が過ぎた。当然挟河は覚えがない話と別暮に不信を抱くこととなり、結果この二国の間で戦の火蓋が切られたのである。


 鵟衆も雇われの傭兵集団として別暮軍につく、と聞かされたのはそれからしばらく経っての事である。正直、当時の満尋には伊月と『月夜里(やました)』以外のことなどどうでも良く、魂が抜けたような日々を鬱々と過ごしていた。満尋にはその間の記憶がさっぱり無いのだが、勘吉や十壱によれば稽古も仕事もきちんとこなしていたし、食事も三食残さず食べていたという。話しかければ返事もするが、どこか抜け殻のようで薄気味悪かったと二之助も言っていた。

 そんな満尋に生気を取り戻させたのは宇木衛門である。宇木衛門は鵟衆を全員本堂に集めると、今後について話し始めた。その彼の姿を見て、満尋は霞みがかった脳内が一気に晴れ渡るのを感じた。

 濃い隈の落ちた憔悴しきった顔。そこに今までの溌剌とした姿は見当たらなかった。それは彼が始めて部下達に見せた弱さかもしれない。それなのに気丈にも彼のその足はしっかりと地面に立ち、色の無い顔の中で目だけが爛々と妖しく輝いている。それは余分なものをとことんまで削ぎ落とした、ある種の狂気であった。

 宇木衛門のその異様で苛烈極まりない雰囲気に、その場の誰もが息を飲んだ。その空気に当てられて満尋は急に視界に色が戻ったような不思議な感覚に陥った。そして、ぞわりと背筋を駆け巡る冷たいもの。全身の毛が逆立ち、体が危険信号を発する。

 背筋の凍る鋭い視線は宇木衛門からのものだった。ぎらぎらとした血走った目と合えば、その瞳は口ほどにものを言う。

「お前だけだと思うな」

 いつ殴られてもおかしくないような凄みを利かされ、満尋はその場でぶるりと身震いした。彼もまた『月夜里』に想う(ひと)が居る身だ。本気で妻にと思った女の為に何もできない無力さを彼は人一倍強く感じ、そして悔しく思っているのだろう。それでも彼は鵟衆を率いる頭として、皆の前に立たなくてはならない。満尋は自分のこの数日間の記憶が酷く曖昧なことに気がついて、宇木衛門と自分とを比べると途端に情けなくなった。

 それから鵟衆は本格的に戦に向けて動き始めた。この二年間では小規模な小競り合いが三度程。満尋はその全てに参加していた。

 満尋が驚いたのは戦と言っても殺し合いが主ではない事であった。両国共に、軍の半分以上は徴兵で集められた農民たちで、満尋にとっては賊を相手にしている方がよっぽど身の危険を感じる。もっと大きな戦になれば飛び道具もばんばん飛び交い、それこそ生死を彷徨う事になるかもしれないが、今のところその心配はなかった。今回も源助によって出された使いによって、橋の工作部隊が編成されるだろう。上手くいけば軍がぶつかり合う前に、相手側の撤退があるかもしれないと満尋は思った。

 満尋は乾いた岩の上にごろりと横になると、そっと目だけを瞑って体を休める。朝日が昇ったらすぐに出発しよう。一人の夜はどこか寂しい。


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