朔月
大変お待たせしました。
遅くなりましたが第二部開始です。
歴史の中には必ず転換期というものが存在する。それが良い方になるにせよ、悪い方に転がるにせよ、とにかくその転換期が終るまでの“現在”というのは混沌とした不安定な状態だ。幸か不幸か、丁度“現在”に自分はぶち当たってしまったのではないか。満尋が考えるに今がまさにその転換期。鵟衆の拠点だった明鵠寺と真田町で起きた大火が、その始まりだったと今なら分かる。
満尋は肩まで伸びた髪を適当に後ろで一括りに纏めると、昨日の内に用意していた荷物を持つ。正直髪の毛は邪魔なのでさっさと切りたいのだが、後ろが短いのはワケありさんだと思われるから邪魔でも伸ばせと、お節介な友人の一人に止められたのだ。
部屋を出て屋外に出れば、ようやく暖かくなり始めた風が満尋の頬を擽った。眼鏡は外しているので視界は酷くぼやけているが、それでも満尋の足取りはしっかりしている。早く仲間の下へ帰りたい。朝から晩まで騒がしい鵟衆の面々が懐かしかった。ここ数日は身の周りが静か過ぎて調子が狂いそうだ。
今日は市が開かれる日であるから、満尋は町に出て露天商が密集している地域へ足を運んだ。しかし、市はお世辞にも活気があるとは言えなかった。本来なら豆売りやら、魚売り、野菜売りなどで賑わっているはずなのに、閑散とした市には店を開く者も買う者もぽつぽつとしか見当たらない。満尋は直ぐ横で饅頭を売っていた女から饅頭を一つ買うと、世間話のつもりで「ところで」と話しかけた。
「ところで、なんで今日はこんなに人が少ないんだい? 市なんだからもっと賑わったっていいだろう?」
満尋はなるべく市井の者たちが使っているような砕けた口調を心がけて話した。そうしないと、満尋がどんなに薄汚い衣を身に纏っていても、どこぞの偉いお役人かと勘違いされて悪目立ちしてしまうのだ。
女は満尋の問い掛けに怪訝な顔をした。
「あんたどっから来たんだい? 旅の人? ご苦労だねぇ」
中年の恰幅のいい女は満尋を見て呆れたように言った。満尋はそれに曖昧に笑って返事を誤魔化す。おしゃべり好きの女は、こちらが黙っていても勝手に会話を続けてくれるものである。
「ほら、あんたも知ってんでしょ。別暮との小競り合い。あれの所為で米も野菜も全部持ってかれっちゃうのさ。おかげで何処も品薄だよぉ」
満尋は「そりゃ大変だぁ」と相槌を打って、買ったばかりの饅頭を口に運んだ。中には餡子ではなく野菜や豆が入っている。中華まんに近いかもしれない。
「おとついもねぇ、すぐ側を挟河の軍が行軍したのを見たって奴がいてね。結構な数だもんだから、こりゃあ挟河の勝ちで決まりに違いないよ!」
そう言って女はあっはっはと豪快に笑った。満尋はきゅっと目を細めたが、すぐに「いけね」と人懐っこい表情に変えて、「饅頭うまかったよ」と金を渡してその場を後にした。
饅頭売りの女が言った通り、今別暮と挟河は戦の真っ最中である。しかも、不穏なのはこの二国だけでなく、その周辺諸国も緊迫した状態が続いているのだから、どこへ行ってもぴりりとした嫌な空気が流れていた。
「満」
落ち着いた低い声が何処からともなく聞こえてきた。自分を「満」と呼ぶのは一人しかいない。ぐるりと辺りを見渡すと、二メートル程先に思った通りの人物が居た。
「源さん」
戸の閉まった店先の前で静かに佇む男に小走りで近づくと、彼は視線だけで満尋についてくる様に促した。
この男、源助が満尋をこの町に連れ出した張本人である。彼とは伝内に誘われ皆で飲みに行った時に初めて出会ったわけだが、その後何故か一緒に鵟衆の仕事を組まされることが多くなっていた。彼と仕事を組む時は大抵情報収集が主で、共に別暮の国を出て各国の情勢や戦の様子などを探るのだ。寡黙な彼とはほぼ必要最低限の話(それも仕事に関することのみ)しかしないのだが、一緒に行動して分かったことはこの男がとかく神出鬼没であるということである。今だって、おそらく源助は声を掛ける前からずっとそこに居たのだろうが、彼が名を呼ばなければ満尋は彼に気付くことはなかっただろう。色々な経歴を持つ個性豊かな鵟衆の中でも、この源助は一際異彩を放っていた。
薬箱を背負い薬売りに扮した源助は、満尋を連れ町外れの小さなお堂にやって来た。すぐ横にある五輪塔が倒れているのでもしやと思ったが、やはり予想通りお堂の中は随分と草臥れていた。薄暗いお堂の中はがらんとしており、大人が三人入れば窮屈に感じる広さだ。天井のあちらこちらにに蜘蛛の巣が張っていて、その奥に鎮座している木彫りの仏像が仄かに笑みを浮かべているのだが、顔が半分砕けていては有り難さは半減。代わりに不気味さが増していた。源助が扉をピタリと閉めると、僅かな明かりも無くなり中は真っ暗になった。お堂の中央近くで源助が腰を下ろした気配がし、満尋もそれに習って彼の正面に座る。
「どうだ」
主語述語を大幅に省略して告げられる言葉に初めは苦労したものだが、今では慣れたものだ。
「はい。一昨日あたり、挟河軍がこの辺りを通って行ったそうです。どうやらかなりの数を引き連れていたそうで、町は挟河が勝つともっぱらの噂です。正確な数は分かりませんでしたが、だいたい五百くらいじゃないかと」
満尋がここ二、三日で集めた情報を整理して話すと、源助はうむと頷いて「五百と四十だ」と数を訂正した。源助とは基本別行動を取っている為、彼のソースが何処なのか満尋には知るよしも無いが、いつだって彼の仕事は正確でそして迅速だ。満尋の調べたことなど、とうに確認済みなのだろう。
「宇木衛門に美野里川付近で準備をするよう使いを出した」
「ではそこで粗方減らせれば問題ないですね」
源助は既に行動を起こしていたらしい。挟河軍の情報は頭の宇木衛門に伝わり、それは鵟衆を通して別暮軍にも伝わるはずだ。美野里川は国境付近を流れる比較的大きな川だ。さほど深くはない川だが、流れが速いので歩いて渡ることはできない。橋に細工をするなりなんなりすれば、挟河の進軍を大きく阻むことができる。
満尋と減助は手短にお互いの話を交換し合い、今後の動きについて軽く打ち合わせをしておく。といっても満尋のすることはもう特になく、あとは無事に別暮の明鵠寺に帰還するだけだ。
「源さんは……?」
「……俺は別に用がある。一人で帰れるな」
子どもに言い聞かせるように源助が言うので、満尋はむっとして「帰れますよ」と語気を強めて言った。町までは源助と二人で来たが、帰りは一人でも平気なはずだ。
満尋の言葉に「そうか」と源助は呟いて、刹那音もなくその気配はお堂の中から消え去った。その鮮やかさに、満尋は嘆息する。いつも思うのだが、この男は忍者だったのではないか、と満尋は本気で疑っていた。