不知夜月 4
翌日、朝餉の席で顔を合わせた宇木衛門は、全てを察したようだ。言葉は交わさなかったが、「上手くいった様だな」と目が言っている。満尋は軽く会釈をしてそれに応えると、同期の仲間たちの所へ向かった。
先に食べていた孫太夫と八弥丸の側に盆を下ろすと、二人は「お、早いな」と少し腰をずらして場所をあけてくれた。
「珍しいな。あの二人は一緒ではないのか?」
良く味が滲みた大根の煮付けを味わっていると、孫太夫が不思議そうに尋ねてきた。満尋はそれをごくんと飲み込むと、
「さあ? 部屋には居なかったな」
と、ご飯に箸を伸ばした。別に部屋が一緒だからといって、いつも三人一緒に居るわけではない。おそらく勘吉は厩に居るだろう。名馬の里出身というだけあって、やはり馬と接している時が一番生き生きしている。朝も良く馬番の手伝いに行っているようだ。十壱はよく分からないが、一人でふらっと散歩に行ったりするので、きっと今朝も何処かをぶらついているのだろう。
「それはそうと、今日は望月だ。不寝番は……新左衛門と与市だったか?」
八弥丸がそう尋ねれば、孫太夫が「ああ」と応えた。二人ともどことなく口元が引きつっている。そして、それは話を聞いていた満尋も同じであった。
「あいつら……できるか?」
誰ともなく口にして、不安げな表情で顔を見合わせる。満尋は、誰がこの二人を組み合わせたのか、と肩を落とした。
満月の日は『影映り』の力が最も強くなる日である。そこで、鵟衆では念のため、不寝番組んで真夜中の非常時に備えていた。今のところ満尋が来てから、この日に何か起きたことは無かったが、人が怪我をする事も少なくはないらしい。それは『影移り』の方の影響に因るのだが、どこで何が起きるか分からないのだから、気をつけようにも運次第である。そこで、迅速な対応の為、今晩は寝ずの番をする者を置くのだが、
「新左衛門はすぐに寝そうだしな……」
と、八弥丸が溜息を吐いた。与市はともかく、新左衛門が一晩起きていられるかどうかが問題である。パートナーがしっかり者の孫太夫や八弥丸、気遣いの出来る十壱や主膳ならば少しは安心なのだが。満尋の中で、与市は何を考えているか分からない不思議君である。天真爛漫な新左衛門と会話が成立するのか、満尋には今一想像できなかった。そして結局は、心配になったこの三人が、時々様子を見に行くということにまとまったのである。
満月の夜は『影映り』の力が最も強くなる。しかし、満尋はまだ満月の日に『影映り』をしたことは一度もなかった。いや、伊月と初めて会ったのは満月の晩だったが、それも僅かな時間だ。実際に普段とどれだけ違うのか、ということは分からなかった。だから、満尋は今夜が少しだけ楽しみなのだ。昨晩は二ヶ月振りに伊月と会い、話をした。今夜が『影映り』の力が一番強いというのなら、さらに近づくことが出来るのだろうか。
『影映り』をしに行くついでに、満尋は不寝番をしている新左衛門と与市のもとに立ち寄った。案の定新左衛門は眠そうにしていたが、与市がぱっちりと大きな目を開けているので大丈夫だろう。「寝るんじゃないぞ」と新左衛門に一声かけると、「まかせろ……」と今にも落ちそうな声が返ってきた。おいおい大丈夫か、と満尋が苦笑すると、与市が「僕は寝ない」と微動だにせぬまま答える。夜間なので、今日は愛用の銃ではなく、彼の背丈よりも長い直槍を持っていた。その様子に、新左衛門が一人寝落ちしたところで問題はないだろうと、満尋はその場を後にした。
満尋がもう何度も通った池への道は、凍ってジャリジャリとした固めの雪で覆われていた。昨日自分で付けた足跡は、明け方に降った雪によって綺麗に消されている。そこにまた新たに足跡を付けながら進んで行くと、いつもの池が見えてきた。満月の夜にしては暗いなと空を見上げると、どうやら雲が出始めたようだった。月に叢雲といったところか。雲の向こうで満月はぼんやりとしている。あまり暗いと互いに顔が見えなくなるなと、満尋は慣れた手つきで灯明皿に火を灯し、それに手を当てて暖を取りながら伊月が映るのを待った。
暫くして、水面が揺らめいて氷をたぷたぷと浮き沈みさせた。
「いつもより少し早いくらいか」
満尋は背を預けていた木から離れて池に近づくと、いつものように水面を覗き込んだ。しかし、そこに伊月の姿はなく、代わりに橙色の何かがちらついている。
「なんだ……?」
明かりを持った右手を水面に近づけて、それが何かを良く見ようとすると、目の前に真っ赤なものが迫ってきて満尋は慌てて後ろに飛びのいた。「うわっ」と声をあげて、池から数歩下がった所に尻餅をつく。目の前には真っ赤な火柱が立ち上っていた。持っていた灯明皿はあろうことか池に放り投げてしまったらしく、さらに悪いことには、その油が水に跳ねて火の粉が当たりに飛び散った。
しばし呆然とその様を見ていた満尋だったが、焦げた臭いにはっとして起き上がる。枯れ木に燃え移った炎に、雪をかけたり上着を叩き付けてみたりと消火を試み、なんとか火が消えると、満尋は深呼吸を一つした。見つめた先で衰えることの無い業火がうねりをあげる。水の上を轟々と燃え続ける炎は、なんとも奇妙でファンタスティックだが、この炎は『月夜里』から来たものだ。満尋の内を言いようの無い不安が襲う。向こうで何かあったのだろうか。
満尋が長屋の側まで戻ると、皆が慌しく動き回っているところだった。寝巻きのままの勘吉が満尋を見つけてやってくる。
「お前どこ行ってたんだよ! 探したんだぜ」
勘吉はそう言うと、「それよりも」と、すぐに表情を改めて真剣な顔を見せた。満尋もそれに合わせてすぐに意識を切り替える。
「よく分かんねぇえが、あちこちで小火が起きてる。とりあえず、書庫、武器庫、厩、方丈庵の消火が先だ。十壱は先に書庫に行ったぜ。俺たちも急ぐぞ!」
「ああ」
書庫にはたくさんの書物が保管されている。戦の兵法書が主だが御伽草子なども僅かだが置いてある。倉の中には貴重なものある為、急いで消火に向かわなければならないだろう。他の場所は大丈夫なのかと聞けば、武器庫には先輩衆徒が向かっているらしい。あそこには刀剣以外に、火薬の類も置いている。引火すれば大惨事だ。
満尋と勘吉が書庫まで駆け足で向かうと、皆が炎に向かって雪玉を投げているところだった。まだ、書庫そのものには燃え移ってはいないが、このままでは直ぐにでも火が届きそうである。
「何遊んでんだよ! 水はどうした!」
勘吉が怒声を浴びせると、主膳が困惑した顔をこちらに向けた。
「それができないんですよ。ほとんどの井戸や水場から火が出ているんです。『影移り』の所為なのかなぁ」
口調はのんびりとしているが、主膳の額には汗が滲んでいる。勘吉は「くそっ」と悪態を吐いて、皆同様雪を掴んだ。満尋も上着を使って火消しに参加する。二之助と新左衛門は孫太夫の指示で、燃え移りそうな枯れ草や植木を刈り取っていった。
そろそろ火も小さくなってきたかという時、どん、と大きな爆発音が本堂の向こう側から聞こえた。まさか火薬が爆発したんじゃないか、と皆顔を強張らせる。
「先輩たちは……!」
無事だろうか、と満尋が駆け出そうとすると、書庫に向かって二人分の人影がこちらに近づいてきた。
「皆さん、無事のようですね。先ほどの爆発は、大事無いので安心なさい」
「お、ちゃーんと消してくれたんだべな。お疲れさん」
「六郎さん! 京太郎さん!」
やって来たのは六郎と京太郎の二人であった。六郎は煤けた顔で二之助の頭をぐりぐりと撫ぜると、いつものにこにこ顔で皆を見回した。京太郎は涼やかな表情のまま、切れ長な目で辺りの状況把握をしている。その冷静さが、六郎とは正反対で少しおかしかった。
「火も大分治まっていますし、ここはもういいでしょう。どうやらここと繋がっている『月夜里』の何処かが大火のようです。こちらからではどうしようもないので、引き続き皆さんは警戒を怠らずに――」
「六郎! 京!」
切羽詰った男の声が京太郎の言葉を遮った。京太郎はその愁眉を顰めて後ろを振り向くと、息を切らせた伝内がこちらへ向かって来たところだった。
「んなにすっ飛ばして、どーした?」
「まずいぜ、源助からだ。真田町も同じ状況だとよ。ただ、小火騒ぎどころじゃねぇらしい。早くしねぇと、町全部燃えちまうってよ」
伝内の言葉に京太郎と六郎が顔を見合わせる。満尋たちも思わず「えっ」と声をあげてしまった。町の人間だけでは、もう手が追いつかないらしい。京太郎が「分かりました」と静かに言うと、こちらを振り向いた。
「皆さん、真田町に向かってください。大至急です」
こんなに長い夜はあっただろうか。満尋は焼け残った瓦礫の残骸に腰を下ろして、重たい溜息を吐いた。彼の近くには、勘吉や十壱、二之助もいる。皆疲れきった顔で、満尋と同じように腰掛けたり、地べたに座り込んだりしていた。
「朝になってしまいましたね……」
「ああ。でも、なんとか火は治まった」
「治まったはいいけど、半分も燃えちまったぜ……」
「おれ、もう動けないよ……」
町の大火は鵟衆の居た明鵠寺とは比べようも無い燃え方だった。町に到着した時点で既に何軒かは全焼し、右往左往する人々で大混乱だった。また、例によって井戸や水辺がほとんど使えない。鵟衆の者が応援で続々と駆けつけるも、消火は難航を極めたのである。結局消火は諦め、町民の避難と燃え広がらない為に家を壊すことに重点を置き、なんとか火の回りを町の半分までに食い止めたのだ。朝を迎えた今は、焼け跡で小さな火が燻る程度に治まった。それも直に消えるだろう。見上げた空は厚い雲に覆われ灰色。そして焼け焦げた大地も灰色。なんとも虚しい景色だった。
そして、満尋の心をさらに虚しくさせたのは、その日から伊月との『影映り』が完全に途絶えたことである。
『水面の月~The Reverse Of The Girl~』第一部 完結です。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
第二部開始まで少々お待ちくださいませ。