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不知夜月 3

 満尋は懐に入っているものを、潰さないようにそっと着物の上から押さえた。願わくは、これが不要なものになりませんように。満尋はそう心で祈ると、穴の開いた池の水面を見つめた。

 いつもならば、とっくに伊月に呼びかけている時間である。特に、ここ何日かはきっかり同じ時間に『影映り』をしているから、向こうもそれは承知だろう。しかし、今日は、今日だけは、伊月に呼びかけたりしない。じっと待つのだ。相手の反応を。

 満尋が思いついたのは、『押しても駄目なら引いてみな作戦』である。物事が上手くいかない時はやり方を変えてみろ、ということだ。最も、満尋が良く聞くのは、恋の駆け引きとしてだが。恋の駆け引きはともかく、これは結構有効なのではないか、と満尋は考えていた。これで少し動揺でもしてくれれば、また『影映り』ができるチャンスに繋がる。急に自分の呼びかけが無くなって精々焦ってくれ、と意地悪なことを思う一方で、どうかこれで終わりにしないでくれと、満尋は不安な気持ちを抑えていた。


 冷たい空気を震わせて、時を告げる鐘が鳴り響く。満尋がこの池に来てから一刻が過ぎた。流石に、もう駄目か、と満尋は思った。布を敷いているとはいえ、冷たい雪の上だ。そろそろ尻の方も限界である。落胆の気持ちを全て溜息に込めて、恨めしく池を睨みつけた。とりあえず、二時間待ち続けてみたが、今まで通り水面は沈黙している。きっと伊月は、自分とは話したくは無いのだろう。これでもう、伊月とも、そして現代とも本当にお別れだ。「失敗か」と、表情を歪ませ腰を上げたその時だった。

 それまでは、まったく変化の無かった水面が、俄かに慌しく揺らぎ始める。

 聞こえてきたのは、激しく狼狽した伊月の声だった。

「ごめんね、ごめんね」

 ただただ、只管謝って満尋の名前を呼び続ける。仕舞いには子どものように泣き出す始末である。満尋は、ははっと笑ってその場にへたり込んだ。おかしい。もらい泣きだろうか。満尋は目に熱いものが込み上げて来るのを感じた。泣き声に混じって聞こえてくるのは、謝罪と後悔と、懇望。やっぱり、そこに居たじゃないか。満尋は目頭を押さえて、すん、と鼻を啜ると、気丈な声音で呼びかけた。

「まさか泣かれるとは思わなかったな」

 水鏡には、涙で目を真っ赤に腫らした彼女が映っていた。


 ぐしゃぐしゃに泣いた伊月が落ち着くのを待って、満尋は話しかけた。「酷い顔だ」なんて捻くれた言葉しか出てこなかったが、本当は、泣くほど自分との『影映り』を大事に思ってくれていた事が嬉しくてしょうがない。勝手に二ヶ月も音信不通状態になって、こちらを困らせてくれたのだからと、少し意地悪なことを口にすれば、伊月は反省しているのか、再び零れた涙を拭いながら、「もうしない」と約束した。

 それから満尋が『押して駄目なら引いてみな作戦』の種明かしをすれば、伊月は真っ赤になったり青くなったりと忙しなかった。おそらく、満尋にずっと泣きながら呼びかけていたのが恥ずかしくなったのだろう。久しぶりに見る伊月はちっとも変わっておらず、一人百面相をする彼女の姿がひどく懐かしかった。

「それで、二ヶ月も『影映り』に答えなかった理由はなんだ?」

 からかい半分の意趣返しも済んだし、そろそろ本題へ入ってもいいだろう。 満尋が一番聞きたかったことを尋ねれば、伊月は少し言い難そうにもじもじと俯いた。

「あの、ね。『月下辺(かすかべ)』ではどうだか知らないけど、こっちでは、あんまり『影映り』って良く思われてなくて……」

 眉を寄せ、悲しげにぽつりぽつりと伊月は言葉を零していく。

「『月下辺』の人と仲良くしている人を、影憑きって差別したりも、あって……。だから、その、ごめん」

「……そうか」

「この間、『影映り』をした時に、友達に満尋と話しているの見られちゃって……。その子に止めるように言われたんだ。この先、辛くなるだけだからって」

 伊月にも伊月の事情があったという訳か。確かに、と二ヶ月前の最後の『影映り』を思い出して、伊月の様子がおかしかった事を思い出す。慌てた様子の伊月は、突然何も言わずにぶつりと一方的に『影映り』を終らせたのだ。

「こっちは影憑きなんて呼ばれることは無いけどな。この間も宇木衛門が……っと、ヤベ」

「え? 浮世絵?」

 うっかり宇木衛門の恋人が『月夜里(やました)』にいることを滑らして、急いで口を噤む。幸い、伊月にははっきり聞こえなかったらしい。すぐに話を戻せば、彼女の意識はそちらに向いた。

 しかし、『月夜里』ではそのように『影映り』を捕らえていたとは、露程思わなかった。こちらの人たちは、『影映り』で『月下辺』の世界を見ることは、一種の娯楽のようなものだ。勘吉や十壱も興味津々で、中々『月下辺』の人たちに会えないのを残念がっている節があった。満月の日には、月見代わりに『影映り』を楽しむ『月夜里』と『月下辺』では、『影映り』に対する人々の気持ちに差異がありすぎる。それが今回、伊月が二ヶ月も『影映り』を絶った理由に繋がるのだろう。今度からは、そのことも考慮してこちらも気をつけよう、と満尋は心に留めた。特に何かしてあげられる訳ではないが、知っているのと知らないのとでは違ってくるはずだ。それに、もし伊月以外の人が話してもいいというのなら、会ってもいい。出来る限りのフォローはするつもりだ。だから、

「もう、二度と御免だぞ。次は無いからな」

と強く念を押せば、「はい」と静かな声が返ってきた。これでまた、いつも通りに二人で喋ることが出来る。

「そうだ」

 満尋は忘れないうちに、と懐に手を突っ込むと、紅い花を取り出した。昼間宇木衛門と一緒に見た椿である。そして、もう一つ。こちらは鮮やかな紅葉の栞だ。満尋は少し形の崩れた椿を見て刹那躊躇ったが、すぐにそれを池の中へと落とした。水面に映った伊月が怪訝な顔でこちらを見ている。満尋が、上手くいけ、と念じる前に、その椿はゆっくりと池の中へ沈んでいった。そして、すぐに「うわぁ!」と感嘆の声が上がる。どうやら上手くいったようだ。

 『影映り』をしている時に水面に物を落とせば、向こうへそれを渡すことが出来る。宇木衛門が嬉々として教えてくれたのがこの事だった。彼によれば、無生物で小さなものなら、大体のものは送れるらしい。この『影移り』は満月の日だけだと思っていた満尋には、寝耳に水の話であった。そして、図らずしも、満尋と伊月はそれを一度だけ過去に行っていた。それが、紅葉の栞である。

 二ヶ月前の最後に話した日。伊月は山へ行って紅葉を拾ってきたと満尋に話して聞かせてきた。その時に彼女が持っていたのが、今満尋の手にある紅葉である。最後、慌てた所為で落としたのだろう。それは水面を渡って満尋の許へやって来た。だから、この椿はささやかなお返しのつもりだった。花を贈るのは正直照れくさいし、柄ではないと満尋自身思う。しかし、小物などは持っていないし、本や食べ物のように、濡れてはまずい物が無事に送れるかは分からなかった。だから結局、花に落ち着いたのだった。

「嬉しい。凄く嬉しい……。ありがとう」

 何度も何度もありがとうを述べる伊月に、満尋はほっと胸を撫で下ろした。そして、照れ隠しにくるくると紅葉で手慰む。「……枯れたら捨てろよ」と、突き放すように言えば、「また、そう言って……」と嬉しそうに伊月が笑った。くすくす笑っているところを見れば、大方伊月も似合わないと思ったのだろう。こいつ、と睨め付ければ、さらに笑い声は大きくなった。


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