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不知夜月 2

 日が沈んでからも賑やかな本堂を後にして、満尋はぼんやりと水面を眺めていた。『影映り』にいつも使うあの荒れた池である。氷の張った水面は、満尋の不安げな貌を鏡のように映し出していた。

 前日に皆で準備した甲斐あって、お迎へ鞘の行事は恙無く終わった。今日一日は物忌みとして皆一切の外出を禁止させられたが、その分いつもとは違った一日を過ごすことができた。炊事係が気合を入れて作った夕餉は少しだけ豪華で、食材の乏しい冬とは思えないほどであった。夕刻、明鵠寺の本堂で、頭の宇木衛門が『お迎へ』する朴火巳伎大神(ホオカシキノカミ)へ感謝の言葉を奉じると、あとはどんちゃん騒ぎの大宴会である。満尋にとって、このような宴会は二回目だが、前回と違うのは宇木衛門や六郎といった、鵟衆の重役が揃っていることだろうか。無礼講ではあるが、やはり彼らが中心となっているのは一目瞭然だ。満尋は控えめに下座で酒を飲みながら、同期とも呼べる友人らと話に花を咲かせていた。

 そんな満尋が席を立ったのは、宴も(たけなわ)といった頃合である。酒器を置いてふと外を見やると、朝から深深と降っていた雪が止んでいた。まるで別世界のような静寂に意識が吸い込まれそうになっていると、隣で飲んでいた十壱が「どうしました?」と声をかけた。どうやら、今回は酔い潰れないよう加減して飲んでいるらしい。

「いや。……ちょっと出てくる」

「みーつーひーろー、ここからだろー? 白けさせるなよなー」

 立ち上がる満尋に、ぐでんと二之助が枝垂れかかった。重くなった方の肩へ顔を向ければ、すぐ側で真っ赤になった少年が満尋を睨みつけていた。素面であったら絶対に許さない距離である。この酔っ払いめ、と心の中で悪態をつくと、満尋は二之助を引き離して十壱へ預けた。

「気分が悪い。吐きそうだ」

 そう言えば、尚も満尋に絡もうとしていた腕が引っ込んで十壱へと移った。十壱は一瞬だけ不愉快そうに眉を寄せたが、すぐに苦笑して「厠にでもどこにでも駆け込んできなさい」と二之助を受け取った。満尋は小声で「ありがとう」と呟くと、そのまま一人本堂を後にしたのである。

 一歩外へ出れば途端に肌に触れる空気が冷たくなって、ぶるりと体が震えた。大した暖房器具などないのに、酒の入った人間の熱は案外侮れなかった。満尋は袂に両手を入れながら、肩を縮めて長屋の裏へ回る。目指すは、『影映り』をしていた小さな池である。

 習慣とは恐ろしいもので、頭よりも体の方がよくよく覚えているようだった。ふと外が気になったのも、きっとこの体が覚えた習慣の所為だろう。今は丁度、伊月と『影映り』をしていた時間だ。

 満尋はさくさくと雪を踏みながら池の前までくると、じっと水面を見つめて反応があるのを待った。氷が張っていても『影映り』が出来るのかは分からないが、同じ水であることには変わらないのだし、大丈夫だろう、と満尋は思っている。しかし、いつまで経っても水面に伊月が現れることはなかった。また今日もか、と満尋ははぁと溜息を吐く。最近はずっとこの調子だ。ある時からぱたりと伊月が現れない。

 一体何が原因か。それはまったく分からない。しかし、九月の半ば頃を最後に、彼女が影を送ってくることは無くなった。もう、二ヶ月も伊月の顔を見ていない。自分が何か気に触るようなことを言っただろうか、と初めの頃は満尋も思い悩んでいた。或いは、『影映り』そのものの力が無くなってしまったのかもしれない、とも。あらゆる可能性を考えてはみても、それは結局満尋の頭の中でしか展開されず、本当のところは何一つ分からなかった。それでも、こうしてここに足を運ぶのは、この冷たい水面の向こうに伊月が居るのではないか、という漠然とした勘が働くからだ。

「伊月。居ないのか? 返事をしてくれ」

 我ながら、なんて切ない呼びかけだろうかとも思う。この二ヶ月、満尋は毎日のようにこの場所から『月夜里(やました)』へ伊月の名前を呼び続けてきた。諦めないのは、同じ神隠しに遭った現代人だという、不思議な繋がりを手放したくないからか。ここで手を離せば、きっともう二度と伊月と会うことは無いだろう。だからだろうか。いや、違う、と満尋は(かぶり)を振った。それもあるかもしれないが、それだけではないはずだ。自信があるのだ。まだ、自分たちは繋がっている。

今日もまた、池の僅かな変化を見つけて、満尋はにやりと口元を歪めた。

 それは、ついこの間気付いたこと。呼びかける度に、氷の下で躊躇う様に水が揺らめくのを満尋は知っている。

(さて、どう引っ張り出してやろうか……)

 漠然とした勘は今、確固たるものへと変わった。伊月はこの向こうに絶対に居る。居ながら満尋の呼びかけに応えないでいるのだ。満尋は顎に手をやり、ふむ、と考え込む。どういうつもりか知らないが、散々自分を悩ませたのだ。少しくらいの意趣返しは、許されて当然だろう。そんな時、一つ思いついたことがあって、実行してみようと満尋はほくそ笑んだ。昔から言われている諺だが、きっと効果はあるだろう。満尋は最後にもう一度だけ伊月に呼びかけると、そっと池を後にした。小さな波紋にくすりと笑みを零して。


 伊月が満尋の呼びかけに応えていないのではないか、と思い始めてから、満尋はさっそく思いつきを行動に移した。といっても、やっていることは今までと変わらない。毎夜同じ時間に伊月の名前を呼び続けるだけだ。しかし、今日は賭けに出てみようと思っていた。これで何も反応が無ければ、本当に最後の『影映り』になってしまう可能性は充分にある。それでも、このままの状態が続くよりは、と満尋は早めに池へ向かった。

 物置から借りてきた木槌で池の氷を叩き割る。意外としっかり凍っていたようで、薄いと思っていた氷は、それなりの厚さがあった。金槌の方が良かったかな、と思いながら、満尋はがんがんと木槌を打ち下ろしていく。やがて、ひび割れた所から水が染み出し、直径二十センチメートルほどの穴を開けることができた。

 約束の時間まではもう少し。小望月がゆっくりと中天へ昇るのを見ながら、満尋はそっと己の胸を押さえた。

 それは今日の昼間のことである。昼餉を済ませ、腹ごなしに少しふらふらと出歩いていると、視界に鮮やかな紅いものが映りこんできた。それは、一面真っ白になった明鵠寺の中で、一際異彩を放っていた。

「今年も見事に咲いたな」

 さく、と雪を鳴らしながら、声の主が満尋のすぐ隣に並ぶ。満尋は少し肩を跳ねさせたが、何事も無かったように「綺麗ですね」と返した。

 宇木衛門と二人きりで話した夜からは大分日が経っているが、未だに満尋はこの男と対峙すると、緊張しないではいられない。宇木衛門もそれに気付いているようだったが、特に何かを言うことはなかった。

 きらきらと光る雪の上には、花が丸ごと落ちた落椿が。首が落ちるようだと忌諱されることもある花だが、満尋は純粋に美しいと思う。一点の汚れも無い白の中に、静かに落ちていく強烈な赤は、いっそそれだけで芸術だった。

 しばらくの間、二人は黙ってこの椿の木を鑑賞していたが、不意に宇木衛門が口を開いた。

「何か、打開策でも見つけたのか」

 その問い掛けが何を指して言ったものなのか分からなくて、満尋は首をひねる。すると、宇木衛門は、ふっと表情を緩めた。

「最近何か悩んでいただろう。それが、ここ何日かは晴れ晴れとしていたからな。何か吹っ切れたのかと思っただけだ」

「あ……ええ。まあ」

 本当にこの男の観察眼には恐れ入る。満尋は曖昧に返事を返すと、気まずげに視線を逸らした。きっとそれが『月夜里』関連であることも感づいているのだろう。そういえば、宇木衛門は『月夜里』を現実のものにしたいのだと言っていた。一体それがどういったものなのかは満尋には分からないが、きっとここで一番『影映り』に詳しいのは彼だろう。

 満尋はおずおずと尋ねた。

「あの、『月夜里』の人と逢えなくなった事はありますか?」

 宇木衛門は「ん?」と、僅かに考える素振りをする。

「そうだな。月の満ち欠けで会えない日もあるが、それくらいお前も知っているだろう?」

「ええ。そうではなく。……あ、んー、その。もうふた月くらい『影映り』に応えてくれない、というか。居そうな気はするんですけれど……」

 満尋がそう言うと、宇木衛門は哀れんだ顔をして見せた。

「なんだ、満尋。お前拒まれているのか」

 確かにそうなのだが、なんとなく「はい」とは言い辛い。無意識に満尋が顔を顰めたのを見て、宇木衛門は「すまん、すまん」と笑った。

「俺は『月夜里』に行った事は無いから知らんが、向こうには色々と事情があるらしい。それに、お前は会うつもりでいるんだろう?」

「はい」

「なら、気にすることは無い。会って直接聞けば良いだけの話だからな。……そうだ、一つ良い事を教えてやる」

 そう言った宇木衛門の顔は、少年のように輝いていた。


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