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十日夜月に想う 2

 久しぶりの『影映り』は丁度一刻と半分ほど、三時間くらいで終わった。いつもよりも随分話し込んでいたことに満尋はぎょっとすると、急いで伊月を帰して冷たい池の水をそっと撫でた。自分は彼女を送ることができないのだ。暗い夜道で何かあっても責任が取れない。そのことを少し歯痒く思いながら、池に何も映らないのを確認すると、満尋は自室へ戻るため踵を返した。

 長屋へ戻る帰り道、ふと満尋は人の気配を遠くに感じて立ち止まる。それはほとんど勘に近いようなものだったが、それも少し近づけば確かに、何やら話し声のようなものが満尋の元まで微かに届いていた。鋭敏な満尋だからこそ聞き取れたその声に警戒し、残りも少ない灯明皿の明かりを吹き消すと、そっとその声の元まで忍び寄る。とはいえ、流石に真っ暗な中を歩いていくのは難しく、途中壁や段差に気を取られながら近づいて行った。一つ長屋の角を曲がった先には宇木衛門の方丈庵がある。微かに聞こえる人の声は、その方丈からであった。

(なんだ。宇木衛門か……)

 満尋はそう結論付けると長屋と方丈を繋ぐ廊下へ上がり、そのまま自分の部屋へ戻ろうとした。きっと、衆徒の誰かと話をしているのであろう。こんな遅くまで仕事の話でもしているのだろうか、と満尋は宇木衛門の多忙さに舌を巻くと、低い宇木衛門の声に混じって、高い女の声がするのに足を止めた。え、と振り向くが、渡り廊下からでは当然彼らの姿を見ることはできない。この男だらけの鵟衆で何故女性の声がするのであろうか。満尋は無粋と知りつつも、話し声に惹かれるように方丈庵へ足を踏み入れた。

 縁をゆっくりと、今までにないくらいの慎重さで歩いていくと、満尋はそっと角から顔を出した。南側に引き戸がある造りなので、流石に部屋の正面を通れば気付かれると思ったからだ。しかし、宇木衛門の声はさらにその奥。もう一つ角を曲がった、東側の小口から聞こえるようだった。

 何度も報告へこの方丈庵に来ている満尋だが、東側がどうなっているのかは彼も知らない。宇木衛門はどうやら、部屋の中ではなく外で話しているようなので、引き戸の前を遠慮なく通り過ぎて、再び角から顔を覗かせた。

 縁に腰掛けた宇木衛門は、満尋同様夜着を着流していた。しかし、彼以外女はおろか、衆徒の一人もいない。自然をぎゅっと閉じ込めたような小さな日本庭園を、宇木衛門はじっと見詰めていた。

「今日はだんまりですね」

 一瞬、風の声かと疑うような囁きが静寂の中を通り過ぎていった。話し相手の女の声である。満尋は息を呑んで宇木衛門の背中を見ていると、ふっと彼が笑ったような気配がした。

「そうでもない。少し、外に気を遣っていただけだ。放ったらかして怒っているのか?」

 宇木衛門がそう揶揄して言えば、「まあ」と、女がころころと笑う。声の感じから相手はまだ若いような気がする。しかし、伊月ほど幼くはないような気がした。

 満尋はそのまま振り向かずに後退した。女が何処にいるのか分からないが、間違いなく姉や妹といった雰囲気ではない。普段の宇木衛門からは想像できないような、しっとりとした甘さが言葉に含まれているのだ。自分が聞いていて良い話ではない。

「最近妹が気を尖らせているの。貴方と話していると知れたら、きっとあの子は泣くんでしょうね」

「……妹か。紫、俺の言えた義理じゃないが、大事にしろよ。お前を心配しての諌め言だ」

 女の名は紫というらしい。それから二人は一言二言話していたが、ぱしゃんと水の跳ねる音で会話が途切れてしまった。

「ちっ。もう終わりか……」

 宇木衛門の呟きと共に、ぎし、と板の鳴る音がする。その瞬間、満尋の中ではっと全てが繋がった。姿の見えない声、水の音、そして宇木衛門が先程零した言葉。

(『影映り』だ……)

 ついさっきまで自分もしていたというのに、何故すぐに思いつかなかったのだろうか。自分以外の人間で、まさか『月夜里』と遣り取りをしている者がいるとは、考えもしなかったのだ。なるほど、とすっきり合点がいくと、すっと満尋の目の前に黒い影が覆いかぶさった。

「で、お前は何をしているんだ? 満尋?」

 すぐ後ろからどすの利いた声が掛けられると、満尋は思わず飛び上がった。口から心臓が出たのではないか。満尋がそう思うほど右の鼓動がばくばくと音を上げている。胸を押さえて振り向けば、声とは裏腹に笑みを浮かべた宇木衛門が真後ろに立っていた。しかし、その笑みは凶悪なほど意地の悪いものだったが。

「ど、して。後ろから……?」

 満尋がそう呟けば、「なんでだろうな?」と宇木衛門は口元を歪ませた。未だ煩い心臓をなんとか落ち着かせようと深呼吸すると、彼はさらに笑みを深める。満尋は後ろ、つまり少し前まで自分が覗き見ていた東の小口に顔を出すが、なんのからくりがあるわけでもない。ただ、左に折れた縁を見ると、

「……回り込んだだけ、ですね」

と、肩を落とした。くく、と宇木衛門は笑いを噛み締め、

「随分といい趣味を持っているじゃないか。俺とあいつの逢瀬を盗み見するとはな」

と、頭半分低い満尋を見下ろす。満尋はかっと顔に熱が上ったのを感じた。

「ちが……! すみませんでした」

 こっそり物陰から窺っていたのは本当である。言い訳はすまいと、満尋は正直に頭を下げれば、「構わん」とすぐに鷹揚な答えが返ってきた。宇木衛門はほっと安心する満尋を追い越して、縁側に腰を下ろした。

「どうだ。いい庭だろう」

 宇木衛門の言葉に、満尋は静かに彼の後ろへ佇むと、「そうですね」と言葉を返した。月明かりでぼんやりと影を落とす小さな庭は、まるで山奥深くに迷い込んだような、幽玄な美しさを湛えていた。きっと昼間に見れば、また違った顔を見せるのだろう。少し視線を下へ向ければ、三坪ほどの池が縁のすぐ下にある。宇木衛門はこの池を使って『影映り』をしていたのだろう。満尋はぼんやりとその池を眺めていると、宇木衛門が徐に口を開いた。

「あれとはもう、十年以上の付き合いになる」

 あれ、というのは先ほど『影映り』で話をしていた女性のことだろうか。庭を眺めていた宇木衛門は、首だけ満尋の方へ向けると、「紫。俺の、ただ一人の妻だ」と再び池に視線を落とした。

「笑うか? 『月夜里(やました)』の女が妻などと……」

 自嘲気に哂う宇木衛門に、満尋はなんと答えてよいかと黙り込んだ。確かに、普通では考えられないことだろう。現実に存在しているわけではないのだから。きっと周りの者ならば、「飯も作れて、体に触れることもできる。現世(うつしよ)の女のが、ずっと魅力的だ」とでも言うだろう。しかし、満尋は笑うことも否定することもできなかった。

「まあいい。誰がなんと言おうと、俺には紫だけだからな。他の女なぞ知らん」

 宇木衛門は一人そう言い放つと、ぴたりと満尋と目を合わせた。

「満尋、知っているか? 幻を(うつつ)にする手立てを」

「え?」

「昔ある旅の坊主が言っていた。『月夜里』を現にできる、と。あれから俺は、それについて書かれた書物も見つけた。面白いだろう? ただの坊主の法螺話、と足蹴にするには勿体無いと思わないか?」

 青い光に照らされて、宇木衛門の瞳が妖しく光る。満尋はその目に魅入られそうになりながら、彼の言葉を噛み砕こうと必死になった。

「俺は紫が欲しい。お前だってあるだろう、『月夜里』に」

 満尋は恐ろしくなって、そのまま後退りすると、「もう寝ます!」と叫んで方丈庵を後にした。自分達が使っている長屋へ入ると、部屋の戸の前でふうと力を抜いた。ずるずると重力に任せて座り込めば、一気に現実へ帰ってきたような心地だ。あの男は一体どこまで知っているというのか。この小さな明鵠寺の中のことなど、頭の宇木衛門には全てお見通しなのだろうか。そんな莫迦な。恐ろしさを感じたのは、あれはただ、場の雰囲気に呑まれただけだ、と満尋は立ち上がると、勘吉と十壱が寝ている自分の部屋に入っていった。とりあえず、月夜の晩に、宇木衛門と二人っきりで話すことは避けたいと思いながら。

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