朔の日の終わり 2
ヒグラシの鳴く声が頭の中に響いてくる。身体は温かいものに包まれていて、目を閉じたまま無意識に頬擦りした。だんだんはっきりしてくる意識に、それが布団だと分かると、満尋は勢い良く身体を起こした。
夕暮れの時の西日が部屋の中をオレンジ色に染め上げていた。視界がぼやけているが、ここがあのぼろい空き家ではないことは分かる。つるつるの板敷きの床には埃っぽさがなく、天井からは雨漏り一つしていない。布団から抜け出して立ち上がると、自分が制服ではなく白い浴衣を着ているのに気が付いた。そのまま開けっ放しの戸口へ行くと、部屋の外には縁側のような長い廊下があり、その向こうは塀に囲まれた庭だった。隣にも戸は閉まっているが同じような部屋があるようだ。なぜ自分がこんな所にいるのか理解できなくて、満尋は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
しばらくすると、満尋の耳がみしみしと床の鳴る音を拾った。それが複数人の足音で、こちらに近づいていることを悟ると、よく見えない目で音のする方を睨み付けた。角を曲がって現れたのは二人の男だった。顔は判断できないが、彼らは一瞬立ち止まると手前を歩いていた男が声をあげた。
「お、もう起きたのか。調子はどうだ」
その声には聞き覚えがあった。あの空き家で自分を捕まえた人間と同じ声だ。それから、目覚める前の記憶が次々と蘇ってきて、自分が途中で気を失ったことまで思い出す。
「ここは……。俺をどうするつもりだ」
「まあ、待て。悪いようにはせん。部屋の中で話そう」
睨み付ける満尋を軽くいなして、男はそのまま部屋の中に入っていった。後ろを付いてきた別の男が、微笑を浮かべて中へ入るよう促したので、満尋はしかたなく二人に従った。さらに男は布団に入るよう勧め、満尋もまだ体がだるかったので大人しくまた布団に戻った。
「話の前に俺の眼鏡を返せ」
かなりのド近眼なので無いと不便だ。枕元には置かれていなかったから、彼らが持っているのだろう。
「めがね? なんだそれは」
「……レンズ、じゃない。透明な、とにかく俺が顔に掛けていたものだ」
なるべく外来語を使わないようにしたら、うまく説明できなかった。身振り手振りで伝えたら、
「ああ、あの変わった玻璃細工か」
と思い当たったのか、懐から丁寧に布で包まれたものを取り出した。玻璃が何なのか分からないが、それを受け取り布を開くと、見慣れた細い緑のフレームの眼鏡が出てきた。すぐにそれを掛けるとぼやけた輪郭がはっきりし、自分を捕まえた精悍な顔の男と、見知らぬ狐目の男が目の前に現れた。
「その〈めがね〉という精巧な細工をどこで手に入れたのか。いろいろ聞きたいことはあるが、先にお前の名を聞いておこう」
二人の男は布団の横に腰を下ろした。狐目の方は喋らないのか、話せないのか、話はもう一人に任せてにこにこしている。
「人に名前を聞くときは、まず自分から。じゃないのか?」
悠然と構える男たちの態度が気に食わなくて、素直に答えることはしなかった。向こうに話の主導権を握られたくない、というのもある。
あばら家で会った男は、くっと口の端をあげて笑った。
「威勢がいいのは悪くない」
ヒタリ、冷たい何かが満尋の首筋に当たる。
「だが、時には従順になることも必要だ」
殺気とでもいうのだろうか。男からびりびりとした鋭利な空気が発せられた。男の横に置かれていた太刀が、いつの間にか抜かれ満尋に当てられている。項の毛がぞわりと逆立って、冷たい汗が流れた。息を呑むこともできずに固まっていると、刃は満尋のどこを傷つけることなく鞘に収められた。
「お前の名は何だ」
再び尋ねられた問いに、苦さを噛み締めながら自分の名を答えた。空き家であった男は、満尋の様子を見て満足そうにすると、自分は鴻池宇木衛門だと名乗った。狐目の男は佐久間六郎というらしい。
「ここはあの町から一里ほど離れたところだ。俺たちは鵟衆で、俺がその頭だ。ここはその拠点だな。お前を連れてきたのも、仲間になってもらおうと思ってのことだ」
一里。満尋は以前読んだ歴史小説を思い出した。細かい数字は忘れたが、だいたい四キロメートルくらいだった気がする。それが、遠いのか近いのかはいまいち分からないが。それに鵟衆というのも初めて聞く言葉だ。仲間にしたいと言っているが、一体どんな集団なのだろう。
「まぁ、今日はそこら辺にすんべ。あんましうるせーと傷に障っかんな。また明日だべりゃえーべ」
ここで初めて狐目の男、佐久間六郎が口を開いた。優男風の見た目とどこかの訛りが少しミスマッチだった。
傷と言われて改めて自分の体を見てみると、ところどころに包帯が巻かれていた。それを知覚すると、今まで忘れていた痛みがぶり返してくる。
「てーした傷はねっけど、化膿してっからな。おめー、てけとーに放ってたろ。明日また薬塗ってやっから、今日はもう寝とけ」
六郎は立ち上がると、宇木衛門とともに部屋を出た。宇木衛門はまだ話したそうだったが、六郎が有無を言わさず連れ出したので「明朝にまた来る」と言って、部屋を後にした。
遠ざかる足音を聞きながら、このまま逃げ出してしまおうかという考えが頭をよぎったが、久しぶりの柔らかい布団の感触に、自分の意思に反してまた夢の中へと落ちていった。