笑う三日月 1
はっと飛び起きれば辺りはまだ薄暗く、日も出ていない早朝なのだと判断する。満尋は汗ばむ夜着を脱ぎ捨てて、紺の小袖に腕を通した。相変わらず、寝覚めの悪い朝が続いている。ぐっすり眠れたのは、三日ほど前訪れた『春宵一刻堂』で過ごした夜くらいではなかろうか。いや、あれも良く眠れた、とは言い難い。満尋はがりがりと頭を掻くと、手拭いを持って井戸へ向かった。二度寝する時間は無いので、少し早いが身支度を済ましてしまおう。
井戸の水を汲み上げて桶に水を張ると、ばしゃばしゃと顔を洗う。冷たい井戸水が満尋の体と心を一度リセットしてくれるのに一役買っていた。それから枝の先を叩いて、毛のようにしたものを歯ブラシ代わりに、歯を磨く。歯磨き粉には塩を使う。塩には浄化作用や抗菌作用があると言われているが、こんな所でも役立っている。
無言でごしごしと歯を磨いていると、手拭いを肩にかけた勘吉がやって来た。
「……はよ」
「ん……」
勘吉も水を汲んで顔を洗うと、そのまま満尋の隣で歯を磨き始めた。その間、まったく会話が無い。二人とも顔を合わせることも無く、黙々と手だけを動かす。普段、勘吉や二之助がじゃれついてくるだけに、この沈黙は中々に不気味であった。
満尋が口を漱いでさっぱりすると、まだ柳の枝を突っ込んだままの勘吉が口を開いた。満尋の方を見ることなく、視線はずっと桶に張った水へ向いている。
「……お前、魘されてたぞ」
ぺっと勘吉は地面に唾を吐き出すと、口を漱ぐ。満尋は隣に居る勘吉の顔を覗き見た。無表情だ。彼は最近こんな顔をすることが多くなった。人一倍働いていた彼の表情筋が、全て死んでしまったかのようだ。
「……それは、お前も起きてたってことだよな」
そう言い返せば、勘吉は疲れたように笑った。
「俺も眠れなくてな」
勘吉はぐっと伸びをすると、空を見上げたままポツリと呟く様に言った。
「こんなんで揺らいじまうなんてな。まだまだ覚悟が足らなかった。……そういうことなんだろうな」
覚悟か。満尋はその呟きを拾うと、そっと目を閉じた。確かに足りなかったかもしれない。与市も宇木衛門も、きっとこのことを言っていたのだろう。あの時は、大丈夫だと思っていた。それよりも、置いていかれて、放り出されることの方がよっぽど怖かった。発見ばかりである。こんなにも自分の精神は弱く、未熟だったのだ。
「そうだな……」
「……さてと、戻ろうぜ。寝ぼすけの十壱でも起こさねぇとな」
勘吉は寝ぼすけと言うが、まだ起きる時間ではないことに気付いているのだろうか。そう言えば、「どうせ、あいつも起きてるよ。布団から出ないだけだ」と歩き出した。勘吉の言葉に満尋は頷くと、桶に残った水を草木に遣り井戸を後にする。皆まだ寝ているのか、長屋の廊下は二人の足音しかしない。黒光りする縁の床板をできるだけ静かに歩いて部屋へ戻れば、勘吉の言うとおり十壱が長い髪を梳いていた。
「お帰りなさい。二人とも早いですねぇ」
「お早う。……布団片付けておいてくれたのか」
出しっぱなしだった満尋の布団が、綺麗に片付けられているのを見て礼を言うと、どういたしましてと、十壱は微笑んだ。
「では、あたしも顔を洗ってきましょうかねぇ」
丁寧な動作で箱に櫛を仕舞うと、十壱は入れ違いに部屋を出て行った。そういえば、十壱がゆっくりと髪を梳くのを見るのは、久しぶりのような気がする。彼の毎朝の日課であったのに、なんだか懐かしいような景色に思えるのは何故だろう。満尋が彼の後姿を目で追うと、同じく十壱を目で追っていた勘吉と視線がぶつかった。どうやら、勘吉も満尋と同じ気持ちで見ていたらしい。
「二之助と新左衛門もさぁ、昨日は随分と元気そうにしていたな」
「ああ。六郎も、もう普段通りにしていいと言っていた」
ずっと体調を崩していた二人も、昨日は随分と顔色も良く、何度も嘔吐を繰り返すことはなくなっていた。昨日、二之助の部屋から出てきた六郎に、二人の様子を尋ねてみれば、
「でーじょぶだ。心配しねーでも、明日っからふつーの飯食えんよ。薬も、もう飲まねぇでへーきだ」
と、言っていたから安心だ。二人ともずっと部屋で粥ばかり食べていたから、濃い味に飢えていると話していた。
「お? じゃあ、後で朝餉に誘ってみるか!」
勘吉はそう言うと、板敷きの床の上に仰向けに寝転がった。欠伸をかみ殺しているから、まだ眠いのだろう。
「布団があったらまた寝ただろ、お前」
「あ?」
満尋が腰を下ろして壁に寄りかかると、勘吉は天井を見たまま口を開いた。
「お前さぁ、ここを出たりは…………しねぇよなぁ」
一人で話し出した勘吉は、満尋に話しかけたにも拘らず、納得したのか一人頷いている。意味が分からずに、「は?」と聞き返せば、「なんでもねぇよ」と満尋に背を向けた。手持ち無沙汰になった満尋は、自分の荷物を置いている場所から本を引っ張り出して、それを読み始めることにした。京太郎から借りたものだが、早く読みきって返さねばなるまい。まだ薄暗いが、明かりを灯すほどではないだろうと、そのまま本を開く。どこまで読んでいたか、とぱらぱら頁を捲っていると勘吉がごろりと寝返りを打った。
「この間お前が上に消えてからさぁ――」
勘吉が言うこの間とはいつのことか、と満尋は頭を巡らせると、『春宵一刻堂』の時かと合点が行った。あの時、自分だけ店の集真藍に連れられて二階に行ったはずだ。その後の席の話をしているのだろう。満尋は頁を捲る手を止めて勘吉を見た。勘吉はまたごろりと寝返りを打って満尋に背を向ける。
「あの時、先輩の一人が言ってたんだよな。最初の仕事で結構止めていくヤツが多いってよ。だから、おめーらも気張れよ、みたいなこと言われた」
満尋は「そうか」とだけ言うと、そっと戸の方へ意識を向けた。そういえば、彼もその話は聞いていないはずだ。満尋は戸に向かって呼びかけた。
「入ったらどうだ。十壱」
すらり、と部屋の戸が開いて、バツの悪そうな十壱が顔を出した。勘吉は半分だけ身体を起こすと、「早いな」と目を丸くした。十壱はそれに苦笑して、「忘れ物です」と答えた。
「すみません。盗み聞きのつもりは無かったんですけどね」
「別にいいさ。秘密事って話でもないしな。……お前はあの場で耳にしていると思ってたが」
「酔い潰れていたな……」と、勘吉は苦笑いをする。満尋も釣られて口元を歪めると、十壱は眉を顰めた。彼はそのまま勘吉を跨いで自分の荷物を漁ると、忘れ物を取り出してまた彼を跨いで戻る。「おい」と零した勘吉を綺麗に無視して、
「そろそろ皆起きてきましたよ。あんまりゴロゴロしていると、逆に遅れてしまいますよ」
と、言って部屋を後にした。それを聞いて勘吉はしぶしぶ起き上がり、満尋も結局数頁も読めなかった本を置く。話が中途になってしまったが、それはまた時間のある時でいいだろう。なんとなく、朝の慌しい時間の中で語り合う様な内容では無い気がした。
勘吉は隣の二之助に突撃をかけると言って部屋を出て行った。二之助と同室の主膳が怒らなければ良いが、と思っていると、ややあって主膳が声を荒げるのが満尋の耳に聞こえてきた。少しずつ、満尋の日常が戻り始めていた。