暁光はまだ 5
はっと目を開けると、暗い室内が目に入る。あがった息を整えることもできずに、胸元の夜着を掴む。しばらくして、呼吸が落ち着いても、今度は涙腺の方が馬鹿になったみたいだ。はらはらと流れる涙を拭いもせずに、満尋は外へ出た。
虫の音すら聞こえない明鵠寺の静かな庭園は、どこか現ではない様な不思議な場所に変わっていた。部屋の中よりも少し明るいと感じて顔を上げると、東の空には細い暁月が昇り始めている。その形がどことなく刃のように思えて、満尋は空を見上げるのを止めた。どうしようもない不安感が満尋を襲い、また呼吸が荒くなる。今、満尋は何かを求めている。霧がかかったような頭では、それが何なのか考えることもできないが、身体は知っているようだ。満尋の足は勝手に歩き始め、もう何度も通ったあの池へと向かっていた。
「伊月、伊月」
「――――満尋? 満尋だ。良かったぁ、心配したんだよ。もう来ないかと思った」
正直、返事は来ないものと思っていた。なぜ、彼女の声が水面からするのだろう。自分は、まだ夢の中にいるのだろうか。そう言うと、伊月は不思議そうに「今日は『影映り』しようって言ってなかったっけ」と、言い出した。数日前の記憶を辿ると、確かにそう約束していたような気がする。時計が無いので定かでは無いが、おそらく夜半はとうに過ぎているはずだ。まさかこんな時間まで待っているなんて、誰が思うだろうか。普段の満尋であれば、怒ってすぐに伊月を帰しただろうが、今だけはそれができなかった。
「こんな時間まで、待っていたのか?」
「……あ、うん。そうだ、私この間のことやっぱり謝りたくて。態度悪かったと思う。ごめ――」
「いや、あれは俺が悪かった。言い方が悪かったのは俺だ。……ごめんな」
前回の話は、たぶんどちらも悪くはなかった。伊月は帰るために頑張りたいだけだし、満尋はそれがいかに難しいかを説きたかっただけだ。だが、それを伊月に謝らせてしまうと、きっと彼女はしんみりしてしまう。いつものように、明るく話してほしいのだ。
「……伊月? いるのか? 黙られちゃ分からないだろう」
今日の『影映り』は声しか届かない。水面は真っ黒な水を湛えたまま、そこに彼女の姿は無い。おそらく伊月の方もそうなっているはずだ。後、三日四日で新月になる。もしかしたら、また月が満ち始めるまで、『影映り』は今日が最後になるかもしれない。そうなると、次はいつ会えるだろうか。間が開きそうだから、ちゃんと次を決めておかないとすれ違いになってしまう。
「伊月? 返事がないと居るのか分からないだろ? 声だけなんだから」
「……居るよ。ねぇ、何かあった? 私じゃ力不足かもしれないけど、相談にのるよ?」
「いや、何もない。何も」
人を殺してきました、なんて言えるわけがない。もし、伊月が『月夜里』生粋の住人だったら、まだ打ち明けられたかもしれない。でも、満尋と同じ現代から来た伊月には、とても殺人を犯したなんて言えないのだ。怖がられて、二度と『影映り』をしてくれなくなったら、自分はどうすればいい。
「声だけってつまらないな。いつもみたいに顔が見たい」
悟られないよう努めて明るく言った。でも、これは本当だ。いつも喜怒哀楽豊かな表情を見てきただけに、声だけでは少し物足りない。伊月の顔は見たい。けれど、自分の顔は見られたくない。満尋はそんなことを考えると、これは不公平だな、と自嘲した。
「……そうだね。電話みたいだなって思ったけど、ちょっと違うよね。なんでだろ?」
「電話か……。確かにな。ただ、電話と違って『影映り』は、繋がってるって思い難いのかもな。声だけだと特に」
電話では話の途中に「ちゃんと居ますか?」なんて心配したことがない。長い沈黙が無かった所為もあるが、それでも同じ声のみのコミュニケーションなのに、大きな違いがあるような気がしてしまう。
「今日の満尋は良く喋るね」
「そうか? 声だけだからな。黙ってたら伊月が寂しいだろ?」
どの口が言うんだ、と頭の中で別の自分が呆れる。寂しいのは自分のくせに。彼女の所為にして誤魔化して、素直に不安なんだと言えればいいのに。池の方に意識を戻すと、伊月が満尋の言葉になにやら文句を言っている。それを聞いて心から安心しているなんて、自分は相当参っているらしい。
「――ねぇ、聞いてる? 返事してって言ったの満尋じゃん。自分の時だけ黙っちゃってさ。ずるいでしょ、それ」
「聞いてる、聞いてる」
「すっごい生返事。……ごめん。もう、帰って平気? 眠くなってきちゃった」
先ほど鐘が鳴ったので、はっきりとした時間が分かった。今は丑三つ時と呼ばれる時間帯だ。ずっと寝ずに待っていてくれたのだから、眠いのは分かっている。時々むにゃむにゃと舌足らずになるのも、眠気を堪えているからだろう。一生懸命起きようとしてくれている伊月には悪いが、もう少しだけ付き合ってはもらえないだろうか。
「まだ、もう少し。駄目か?」
また布団へ戻っても、見たくもない悪夢に魘されるような気がする。だから一緒に起きててくれ、なんて小さな子どもみたいな言い分だが、伊月なら「いいよ」と、言ってくれると確信していた。
「……しょうがないなぁ。今回だけね」
長い沈黙の後、苦笑交じりの返事が返ってきた。やはり、声だけというのはつまらない。顔が見たい。きっと彼女は微笑んでいるだろうから。呆れ混じりの言葉は、少しだけ震えていた。
明日、というか今日はもう休みになる満尋と違って、伊月は朝からきっと忙しいだろう。商人の一日がどんなものか、満尋は想像することしかできないが、以前に聞いた伊月の話では、家事をして、商品を作って、また家事をして、と随分大変だったように思う。それでも付き合ってくれる伊月の優しさに感謝しながら、満尋は話を続けた。
そして、数時間後。真っ暗だった夜の終わりがやってくる。次第に空が白み始めて、紺から青のグラデーションを作り上げる。眩しい白い光が明鵠寺に差しこみ、どこかで鳴いた鶏が夜明けを告げた。太陽が東の山から顔を出した時、ようやく満尋は伊月を開放したのである。