朔の日の終わり 1
春日部千次郎幸望公が第八代当主になられたそうだ。今市中を流れる噂はもっぱらこれであった。ようやく長かった跡継ぎ問題のいざこざも終わり、空いたままだった鹿角城城主の席も埋まる。しかし、それを噂する市民たちの声は暗く、表情も落胆の色が隠せなかった。この新しい殿様は先代の第五子で、母親は正室である。まだ二十代で若く、人柄が良い。ここまでなら、なんの申し分もないのだが、ただ、その人の良さが彼の最大の短所なのだ。彼の領民は、この幸望公が家臣たちのただ傀儡でしかないことを知っていた。家臣が白といえば白に、黒といえば黒という男である。もし、腹違いの第四子や、第六子ならばあの城に巣食う古狸どもと渡り合えただろうに、何故最悪の人選になったのか。領民たちは、ただ涙するばかりである。彼の評判は良くも悪くも近隣諸国に届いている。これからは厳しい時代になる、と誰もが唇をかみ締めた。
なんとか半月持った。今、満尋が思うのはそれだけである。崩れかけた空き家に身を隠しながら、獣のように生きてまだ半月。学校帰りにタイムスリップしてから、小説のようないいことなんて何もない。ただ、命だけがなんとか無事である。血と泥で汚れた制服はボロボロで、さらに雨にも降られたので全身びしょびしょだ。服の破れたところからはいくつもの傷が覗いている。碌に手当てもせず不衛生なままだったので、化膿しているところもあった。
(あいつら、もう行ったか?)
もう何度目になるのか、この間やってきたばかりのこの町でも満尋は追われていた。正直、ここの連中とは関わりたくないが、山は獣が出るし食べるものがなかった。いや、食べ物はたくさんあるのだろうが、道具も知識もない満尋には手に入れられないのだ。だから、何度追いかけられても町から離れることはできなかった。
(くそっ、俺だってホントはこんなことしたくないんだ)
満尋は適当に引っ掴んできた乾物を握り締めた。この盗んだ僅かな干し肉と魚の干物で食い繋いでいくしかないのだ。
ばしゃり、と雨音に混じって土を踏む音が耳に入ってきた。途端に満尋は緊張し、息を潜めて自身の気配を殺す。満尋は命の危険が迫ると、人間がいかに早く環境に順応するかを体感していた。この半月で、五感は鋭敏になった。もともと近眼なので視力はあまり変わっていないが、暗闇の中でも薄っすらとものを見ることができるようになった。そして、今一番頼りになるのは聴覚だ。ぱしゃ、ぱしゃ、と移動する足音に意識を集中させて自分との距離を測る。大丈夫、まだ遠い。変わったのは五感だけじゃない。あちこち逃げ回ったおかげで、身体もずいぶん軽かった。単純に不摂生で余分な肉が落ちた所為もあるが、体の使い方というものがわかった気がする。肉と魚を結んでいる縄を口にくわえて、できるだけ音を立てないように、地面を這うような低い体勢で崩れた壁まで移動する。野良猫みたいなこの姿が、受験勉強に追われているただの高校生ではなくなってしまったことの証明だ。耳は相手との距離を測り、頭の中では壁に開いた穴から逃げる計画が目まぐるしく展開している。満尋は、確かに自分が変わってしまったことを感じていた。
すぐ近くでピタリと止んだ足音に満尋は警戒を強めた。今身を隠しているところは、ちょっと覗いたくらいでは見えないはずだが、中に入ってこられれば間違いなく見つかる。この時代の人々が盗人にどんな罰を与えるか分からないが、死ぬ可能性も考えておかなくてはならない。自分は一度、彼らに化け物といわれて追われたこともあるのだ。絶対に捕まるわけにはいかない。
足音はしばらく家の前をうろうろした後遠ざかっていった。
満尋は溜め込んでいた息を吐き出すと、壁に背を預けて脱力した。危なかった、危機一髪である。今まで緊張していた分、開放感は大きい。ゆっくり目を閉じて、このまま今日は寝てしまおうと思っていると、
「やはり、いたか」
壁の穴から男が顔を覗かせて言った。
完全に油断していたため反応が遅れた。すぐに駆け出そうとするが、男が壁から手を伸ばして満尋の腕を掴むのが先だった。今まで出会った町人達と違い、男は鍛えられた締まった身体をしていて、とても振りほどくことができなかった。
「こら、逃げるな。別に捕まえに来たわけじゃない」
「現に今捕まえてるだろ」
男はそのまま身をかがめて空き家の中へ入ってきた。何とか逃げようとする満尋が言い返すと、笑って「そうだな」と腕を放した。放された腕をさすり男を観察すると、意外と若かった。声が落ち着いていたので結構歳がいっていると思っていたが、たぶんまだ二十代だろう。もしかしたら、自分と二、三しか違わないかもしれない。小袖に括袴という姿は町人達と変わらないが、袴の上から褐色の帯を巻き、腰には太刀を差している。重心のぶれない真っ直ぐな立ち姿は、剣道をずっと続けていた現代の友人にそっくりだ。もちろん、この男の方がずっと完成されていて、隙がないが。こいつからは逃げない方がいいだろう、と判断した満尋は、警戒態勢を崩さぬまま男と話をしてみることにした。
「捕まえに来たわけじゃないなら、何の用で来たんだ?」
「何、化け物退治を請け負ってきたんだが、どうやら依頼主の勘違いのようだな」
「あんたは、俺が人に見えるのか?」
「違うのか」
まっすぐこちらを射る視線は真剣で、満尋がこちらに来て初めて受けるものだった。
「……違わない」
搾り出した声は、満尋の中にすとん、と落ちてきた。そして、自分はずっとこれが言いたかったんだと悟る。静かになった満尋を見て、男はまたふっと笑った。ああ、あれは人に向けてする表情だ。そのままぐらりと体が傾いて、満尋は意識を失った。