暁光はまだ 3
少しずつ色づき始めた原生林の山道を、荷車を引いた一行がえっちら、おっちらと登っていく。高く伸びた樹齢数百年という木々は、昼間の日光を見事に遮り、切り開かれた山道以外を薄暗く演出していた。まるで、人間はこちら側に入ってくるな、と山そのものが言っているようである。枯れた落ち葉を踏み鳴らしながら、烏帽子を被った五人の商人は、やたらと重たい荷車に息を切らしていた。
「な、んで、全員商人って、こういうことかよ」
後ろで荷車を押していた二之助が、愚痴を溢す。前で満尋と一緒に車を引いていた新左衛門が、「おいら疲れたー、交代だー」と音をあげる。
「しっ。新左衛門、気付かれる。疲れているのは、皆一緒だから、頑張ってくれ」
「満、尋の、言うとおりだ。もうすぐ、朱泪の滝が、あるから、そこまで……」
隣の新左衛門に静かにするよう声をかけると、満尋と一緒に彼を挟んでいた孫太夫も励ましにかかった。かくいう孫太夫も、息絶え絶えである。道のすぐ下方には渓流がさらさらと流れており、その流れに轟々と水の落ちる音が混ざりこんでいる。滝が近いというのは本当のようだ。
「そこまで、って言います、けどねぇ。交代なんて、ありゃしない、でしょうに」
二之助の隣で顔を赤くした主膳が、憎憎しげに恨み言を漏らす。すると、車に被せられた布がもぞもぞと動き、僅かに捲りあげられた隙間から陽気な声が飛び出してきた。
「いやー、悪いな。俺たちだけ快適でさ」
布に隠れているのは、勘吉、十壱、八弥丸、与市の四人である。採用された満尋の「全員商人」作戦は、荷物役を新たに加えることで実行に移された。実際、荷物のある方が、商人らしくなり目も付けられやすく、こちらも物騒な武器の類を隠せるので中々良案であった。そして、二日の準備期間を経て、ようやく今日決行日を迎えたのである。
とても商人には見えない八弥丸は、強制的に布の中で待機してもらい、気配に敏い満尋と主膳は外で荷を引く役目を任された。一応指揮をとる立場にある孫太夫も、同様に外の配置である。そして、残った五人で分かれてもらったのだが、これが失敗だった。公平に決めようというので、満尋が教えたジャンケンでメンバーを決める。しかし、勘吉と与市が、荷役に回ったのは間違いだと気付いたのは、山道に入ってからだった。まず、勘吉は八弥丸に次いで体格がいい。太ってはいないが、筋肉があるためかなり重量があるのだ。そして、与市は着痩せする見た目の割りに結構力がある。彼の小筒は重さが約一貫と三斥。だいたい5,6キログラムもあるのだ。それをいつも持ち歩いているのだから、九人の中でも力自慢の人間に入る。二之助か新左衛門の変わりに与市が商人側に来てくれれば、この道中も少し楽だったかもしれない。
「替わってやりたいけど、ここで俺たちが出てっても怪しいだけだろ? 頑張れ、頑張れ」
「煩い、荷物は黙ってろ」
元気の有り余っている声を聞くと、どうも苛苛してくる。とても笑顔で「応援有り難う」と言う気にはなれない。
黙々と山道を進んでいくと、ようやく朱泪の滝に辿り着いた。ここまではなんの問題も無く来ることができたが、気は抜けない。万一、賊と鉢合わせしたときに、商人役が満身創痍では大変なので、五人のためにここで充分休憩を取ることになった。
白い一本の糸のような水が、滝壺へと流れ落ちていく。腹に響く滝の音に心地よさを感じていると、年少組みの二人が水辺へ駆け出して行った。危ないからと、道中外していた眼鏡をかけると、見事な自然の雄姿が目に入る。満尋は厳かな滝の姿に思わず溜息をつくと、隣に主膳と孫太夫がやってきた。
「清らかなものですねぇ。先までの荒れた心が洗われるようです」
本当に、煩くてやたらと重たい荷物のことなど、どうでも良くなる素晴らしさだ。白い流水、苔むした緑の岩。そこに、まだ青々とした葉が紅や黄の紅葉に変わればもう言葉は出まい。乾いた岩に腰を下ろして、水でも飲もうかと水筒を探ると、筒袖の衣のどこにも見当たらない。満尋はどこかで落としてきたか、と慌てるが二人も同じだったようで、三人揃って首をひねる。すると、滝壺へ一直線の年少組みが、五つの竹筒を手に戻ってきた。
「ああ、新左衛門か」
掏りが得意だと言った彼は、おそらく気を利かしたつもりなのだろう。しかし、いつの間に持っていかれていたのやら。仲間なのだから、せめて一声かけてほしい。「水汲んできたぜ」と竹筒を差し出した新左衛門に、苦笑して礼を言うと、そのまま栓を抜いて水を飲む。汲まれたばかりの水は、ひんやりと喉を潤し満尋の疲れを癒していく。この水が、あの滝から汲まれたものだと思うと、なんだか少し恐れ多いような感慨深い気持ちになる。
「滝壺には何かあったかぃ?」
「ヤマメがいたくらいかな。仕事じゃなかったら、釣りでもしたんだけど」
「もう少し時期が遅ければ、散った紅葉が川を流れて、見事な錦が見れたんだが」
紅葉はまだまだ始まったばかり。緑の多い枝を少し残念に思いながら、満尋は辺りを見渡した。滝の周りだけ木々が開けているので、まるでここだけスポットライトを浴びているように明るい。満尋は、なんとなく嫌な予感がした。滝の音が激しいので、音が拾えない。もう少しこの景色を堪能していたいが、なるべく早く離れた方がいいだろう。
「孫太夫、そろそろ……」
「うわああああっ」
突然、満尋の声を遮って誰かの悲鳴があがった。見ると、ぼろぼろの男が覚束無い足取りでこちらへやってくる。何事かと皆で近寄ると、その男は二之助にしがみついて汚い顔を涙で濡らした。孫太夫が小さく手で合図をし、荷に隠れている四人にまだ待機しているように指示を出す。男は切れ切れの息をなんとか整えて、涙ながらに訴えた。
「助けてくれ。この先で、ぞ、賊が出たんだ! み、皆殺されっちまってよぉ。頼む。俺は死にたくねぇ! 助けてくれ!」
ものすごい力で縋られ、二之助がたたらを踏んだ。満尋がなんとかその男を引き剥がすと、今度はこちらに取り付いてきた。どうにか宥めようとするが、恐慌しているのかちっとも落ち着いてくれない。このままでは、賊に騒ぎを聞きつけられてしまう。
「あの、もしもし? 少し落ち着いてもらえないか」
孫太夫が満尋と共に男を取り押さえにかかるが、なりふり構わない男の力はすさまじく、二人掛かりでも難しい。すると、新左衛門がひゅっと息を呑んだ。
車の周りを十数人の男たちが囲んでいる。皆、毛皮の衣を身に纏い、手にはぎらぎらと光る刃が握られている。賊だ。彼らは、こちらを警戒しながら徐々に近づき、その内の一人が車の荷に手を出した。
「――みんな!!」
「八弥丸!! 賊だ!!!」
満尋と孫太夫が叫ぶと、布が大きく捲りあがった。そして、一閃。手を伸ばした賊が一人、血飛沫をあげて地面に倒れた。