更待月の陰 4
「そうか、ご苦労だったな。一応今回のことは紙に認めておいてくれ」
宇木衛門は孫太夫の報告を聞くと、まず皆に労いの言葉を掛けた。初めて入る宇木衛門の自室は、満尋が三人で使っている六畳一間よりも少し広々としている。離れにある彼の部屋は、元は住職が住んでいた方丈庵という建物だ。四畳半の建物ということから付いた名だが、それは元がという話である。実際この方丈は八畳と六畳の二間の構成だ。流石に全員は入る必要がないので、まとめ役の孫太夫と洞に入った満尋、主膳、新左衛門が部屋に入る。整理の行き届いた室内には、難しそうな兵法書や、どこかの地図など戦関連のものが積まれていたが、机の隅には小さな紫色の実が鈴なりについた枝を、一輪挿しに飾っていたりもする。花や実を愛でるような人だとは思っていなかったので、満尋にはそれが少し以外だった。
報告が終わり四人で退室すると、宇木衛門は満尋を引きとめた。三人には先に帰ってもらい、一人残る。何事かを書き留めていた宇木衛門は、筆を置くと満尋にもう一度座るよう促し、本人は楽な体勢になり机に頬杖をついた。
「どうだ、満尋。初めての仕事は。……顔色が随分と悪いな。六郎を呼ぶか?」
「……いえ。どこが悪いというわけではないので、大丈夫です」
「仏でも見たか?」
宇木衛門は口元をにやり、と持ち上げる。満尋は正座した膝の上で、両手を固く握り締めた。満尋にはまだ、あの異臭を放つ無残な骸達が人間の成れの果てには思えなかった。人は、死んだら丁重に弔われて、燃えて、灰となって、消えて逝くものではないのか。では、自分が見たあれはなんだ。
宇木衛門は膝を立てて満尋へ向き直ると、「どうする?」と問うてきた。質問の意味が分からず宇木衛門の顔を見ると、彼は笑いもせずただ無表情で満尋を見ていた。
「どうする。まだこの程度は温い方だ。お前はその先にいけるか?」
射るような視線に、満尋は瞬きもできずに固まった。似たような質問を与市にもされた。与市には「いく」と答えたが、何故か宇木衛門にそう答えるのは躊躇われた。
「お前は俺が無理やり連れてきて、強引に入れたに等しいが、ここで立ち止まった人間を抱えるほどの余裕は鵟衆には無い。お前は付いてこられるか。この先に」
宇木衛門の静かな気迫は、満尋を圧倒した。彼の言っていることはつまり、死体で怖気づくくらいなら鵟衆を出て行け、ということだろうか。
「俺はこれから六郎と話すことがある。悪いがもう出るぞ」
机の上の書類をいくつか手にして、宇木衛門は部屋を出て行った。
満尋は、先ほどまで宇木衛門の座っていた所に目を向けたまま、動けなかった。ここを出て自分に一体なにが出来る。まだ知らないことも沢山あって、ここには満尋を守ってくれる法律も無い。大人もいない。鵟衆を出て一体どう生きるのだ、自分は。
机の上に飾られていた紫の実が一粒ぽとり、と落ちた。
満尋は弾かれたように立ち上がると、部屋を出て宇木衛門の背中に叫んだ。
「俺は! ここで頑張ります! 何があっても、付いていきます!!」
宇木衛門は一寸立ち止まったが、振り返ることなくすぐに歩き出した。
「消去法で決めると後悔するぞ」
そう呟いた彼の声は、満尋には届かなかった。
ほとんど手付かずの夕餉を終えて、満尋は早めに池の辺に来ていた。昨日は会えなかったが、今日は伊月と話せるはずだ。約束の時間までは、話の話題を考えることに充ててみたが、あまりいいネタは思いつかなかった。時折ちらつく今日の出来事が、ほのぼのとした話題を考える邪魔をした。
そうこうしていると、水面が揺らめき伊月の影が現れる。伊月は満尋の顔を見るなり、「昨日はごめん!」と猛烈な勢いで謝ってきた。なんのことか、心当たりの無い満尋が目を丸くすると、伊月は訳を話し始めた。
「私昨日途中で寝ちゃって……。『影映り』気付かなかったかも。本当にごめん」
「寝た……って、外だろ? 馬鹿かお前!! 現代だって危ないぞ。……何も無かったな?」
満尋が今度は別の意味で目を丸くし声を荒げると、伊月は首を竦めて「大丈夫でした」と答えた。現代もこの世界も、どんな人間がいるか分からないのは一緒だ。まったく無用心すぎる。
「……昨日だけど、結局『影映り』は失敗だ。なんの予兆も起きなかった。付き合わせて悪かったな」
「そっか。私も満尋も、今居る所からじゃないとできないんだね。了解」
そう笑う伊月の顔に、昼間の女の骸が重なった。息を呑んでたじろぐと、水面の向こうからこちらを案ずる声がする。
「満尋? 大丈夫? 顔、真っ青だよ……? 具合悪いなら、今日はもう終わりにしよ?」
「だ、いじょうぶだ。光の加減だろ。……何の話だったっけ?」
自分でもこれは無理がある、と思いながらも誤魔化されてくれ、という気持ちで話を続けた。このまま布団に戻ったって、どうせ眠れやしない。伊月は不安げな顔はしつつも、「昨日の『影映り』は上手くいかなかったって話」と、流してくれた。
それからは、いつものように何気ない会話が始まった。会話といっても、話すのはほとんど伊月だが。今夜はまるで、自分の口が他人のもののように感じる。重たくて、無理に開こうとするも言葉が出ない。それでも、彼女が話すたわい無い話を聞いていると、少しずつ気持ちが落ち着いてくるのだから不思議だ。
「そういえば、学校とかどうなってるかなぁ? 捜索願とか出てたりして」
「さぁな」
「テストが溜まってたらやだな。満尋は頭良かった?」
「それなりに勉強はしてたからな。というか、俺はテストどころか受験だぞ?」
テストぐらいがなんだ、と苦笑すると伊月も声をあげて笑った。こうして、二人で現代の話をしていると、昼間の出来事が夢のように思えてくる。向き合わなくてはならない現実だと理解しながらも、今だけは目を逸らして無かった事にしたかった。