寄る居待月 2
時刻を告げる鐘が七回鳴る。昼七つ、現代では午後四時過ぎぐらいだろう。今日が夕食当番でなくて良かった、と心底思っていると冷やりとしたものが腕に当てられた。
「……っつ!?」
「はーでにやられたんべなぁ。ちぃっと我慢しろー」
六郎が湿布のようなものを貼り付けたのだ。初めて会った時のように、六郎が手早く手当てしていく。本堂には多くの衆徒たちが集まり、それぞれ治療されていた。
結局最後まで一本も取ることができなかった満尋は、宇木衛門にこてんぱんに伸された。それにしてもまったく歯が立たなかった。本当に人間だろうかと疑うほどだ。
「おめーも運がわりぃなぁ。宇木衛門もちっと加減しねぇか」
六郎は満尋の後ろにいた宇木衛門に小言を漏らすと、これで最後、と腹に湿布を貼って軽く叩いた。
「ん? なかなか良い気配の殺しっぷりだったからな。やはり、連れてきた甲斐があった」
宇木衛門は反省の様子もなく、一人満足そうだ。こちらは体中木刀で思い切り打たれて、打ち身だらけだというのに。治療のために脱いだ上半身を整えて「どういうことですか?」と聞くと、後ろで胡坐をかいていた宇木衛門は、口元に手をやり可笑しそうに笑った。彼は時々このような笑い方をする。それは見るものをぞっとさせるが、同時に人を引きこんでいくのだ。眼球の僅かな動きですら見逃すまいと、目を逸らせなくなってしまう。
「なに、あの時のお前は正に飢えた獣のようでな。まだまだ未熟だが、鵟衆に入れてみるのもいいだろう、と。型通りの剣術ばかりではつまらんからな」
そう抜け抜けと言う宇木衛門を六郎は呆れた目で見ていた。いつものことなのだろう。一見彼は実直な男に見えるが、それは違うと満尋は感じていた。先程彼は自分を飢えた獣と称したが、獣のようなのは宇木衛門の方だ。狡猾な思考と鍛え抜かれた身体。行動は慎重かつ大胆に。群れを率いるその姿は、差し詰め狼といったところか。つい忘れがちだが、彼は力でもって自分たちを制する雄なのだ。
「あのぎらぎらした目は良かったぞ。仲間は大事にすべきだが、あまり丸くなってくれるな」
彼は満尋の頭をがしがしと掻き撫ぜると、「明日もしごくからな」と本堂を後にした。その姿を見送りながら、満尋は撫ぜられた頭を手櫛で直した。一体彼は自分に何を期待しているのだろうか。
いつもはあちこちで明かりの点いている衆徒の長屋も、今日ばかりはすぐに真っ暗になり、そこかしこで鼾が聞こえた。散々しごかれたのは自分だけではないらしい。部屋の戸をそっと開けると、衝立の向こうから十壱が声をかけた。
「まだ寝ないのです?」
「ああ、目が冴えてるみたいだ。本でも読んでくるよ」
衣擦れの音がして、十壱が起き上がったのが分かる。手に持った本を見せると十壱は「熱心ですね」と笑った。
「部屋でどうぞ」
「いや、明かりをつけたら寝にくいだろう。……外の方が静かだし」
すると、まるで満尋に抗議するかのように、勘吉はごがーと、掃除機のような鼾を立てた。それを聞いていた十壱は「あまり遅くならないように」と、一言添えて布団に戻った。
しかし、満尋は本当に読書をするつもりで外に出たわけではない。ただの口実だ。今日は彼女との約束があるから。
満尋は『影映り』のことを聞いた後、気になってずっと向こうに呼びかけていたのだ。今までの満尋だったらそんなものは信じないし、試したりもしないのだが、実際にこの目で桶に映る少女を見ている。『月夜里』がどんな所かは分からないが、とにかくあの女の子にもう一度会ってみたい。そして今度は話もしてみたかった。少なくとも、あの子は現代となんらかの繋がりがあるような気がするのだ。
満尋は桶の水ではなく、もっと大きな水のある場所を選んだ。丁度、長屋の裏に手入れの行き届いていない荒れた場所がある。そこには隠れるように2m四方に収まる小さな池があるのだ。満尋は暇さえあればその池に呼びかけていた。
そして、『月夜里』の「ヘアピンの彼女」には意外にも早く会うことができた。昨日の夕方、薪割りの仕事が早く終わったので池に呼びかけたところ、返事があったのだ。
「はい、ここにいます」
と、応えた彼女は満月の少女と同じ子だった。落ち着いた色の小袖に、前掛けを掛けている。そして前髪にはピンクのヘアピンが咲いていた。向こうで同じくこちらの影を見たであろう彼女は、柔らかく満尋に微笑んでいた。
会いたいと思ってはいたものの、何を話すかはまったく考えていなかった。満尋はしまった、と思いつつも何か話題が無いか考えていると、突然彼女は、自分は伊月だと名乗り、なんのケーキが好きかと聞いてきた。は? と思うが満尋も自分の名前を教えて「甘いものは好きじゃない」と答えていた。ちなみに彼女はガトーショコラが好きらしい。なんの意味もないような会話だが、これで彼女が自分と同じ現代人であることが判明した。
一度会話が始まると、その後は途切れることがなかった。お互いに気持ちが高揚していたのだろう。彼女は頬を染めてなにやら一生懸命だった。
さらに質問していくと、彼女は平成生まれの高校生で、二つ年下であること。ひと月前『月夜里』にやってきたという彼女は、おそらく自分と同じような状況であることも分かった。ただ、話を詰めていくと、どうも彼女はあまり自分の周りのことに無頓着だったらしい。どこの国にいるのか、今何年なのか、誰が領主なのか答えられなかった。領主といえば、彼女はこちらのことを『春日部』と呼んでいたのが少し気になるが。とはいえ、この三つは『月夜里』とこちらの関係を知る重要な手がかりになる。「宿題」という形で、彼女に調べてもらうようお願いした。
それから、同時に時鐘が鳴ったことで時間の流れが同じだということも分かった。少々興奮してそのことを告げると、伊月は「満尋ってすごいね」と、素直な、きらきらとした尊敬の目を向けてきた。あまりに真っ直ぐ見つめるものだから、つい目を逸らしてしまった。絶対顔が紅くなっているに違いない。実際、水面の向こうで笑われた。
今日は、昨日自分が出した「宿題」を彼女は持ってきてくれるはずだ。急がなくてもいいのだが、申し訳なさそうにしていた彼女のことだ。きっとすぐに調べてきて自分に持ってくるだろう。池の縁で膝を立てて座ると、満尋はまだかまだかと『影映り』の兆候を待った。