寄る居待月 1
右肩に激しい痛みがはしって、満尋は思わず膝をついた。腕にびりびりと伝わる衝撃が、持っていた木刀を下へと落とす。
「どうした? もう終わりか」
目の前で余裕な笑みを浮かべているのは宇木衛門だ。彼はとんとん、と軽く地面をつま先で叩いて、かかって来いと満尋を挑発する。ぐっと歯を食いしばって、まだ震えの残る手で木刀を握ると、満尋はわぁっと宇木衛門に向かっていった。
そもそもの事の始まりは本堂での剣術の稽古中であった。新入りは全員参加。早くから鵟衆に入っている先輩が一人監修について、それは行われた。満尋は同じ新入り仲間の与市と八弥丸と組んで、一対二の形式で手合わせをする。与市は満尋とおそらく同年代の、鉄砲が得意な若者だ。滅多に人と話さない変わり者であるらしいが、その見事な鉄砲の腕前は逆に皆を黙らせるほどである。もう一人の男八弥丸は与市と同室の男で、二十二歳と新入りの中では一番年嵩だ。質朴な男とは正に彼のことで、真っ直ぐなその性格は得意な剣術にも表れている。そんな二人と木刀での模擬試合をしていると、先輩全員を連れた宇木衛門がやってきたのだ。
「全員いるな。急だがお前たちの初仕事が二日後に早まった。その為、今日明日ぐらいは俺たちが一人ずつ付いて、一対一の指導を行う。お前たちにはまだ死んでほしくないからな」
そう言うと、新入りのうち数名に新たな木刀が配られた。満尋にも渡されたそれは手に持つとずしりとくる。今までの物よりもはるかに重い。
「これは……?」
「真剣とほぼ同じ重さに誂えてある。初めて剣術を扱う奴は、それを肌身離さず持ち歩け。もちろん真剣を持ったことのある奴は、それを使う必要はない」
つまり、いよいよ実践を強く意識した稽古に移るということか。満尋は渡された木刀を強く握る。本堂の中は静まり返っていた。隣の方でごくりと、唾を飲み込む音が聞こえる。新入りの三分の二くらいが緊張した面持ちで、宇木衛門の言葉を聞いていた。残りは普段通りか、楽しそうな顔をしているか。その違いは真剣、もしくはそれ以外の武器で人と対峙したことがあるかどうかだろう。前の方にいる与市はあまり興味の無さそうな、ぼーっとした表情をしているし、八弥丸は使命感に燃えてはいるものの、特に緊張しているという感じはしない。きっと二人は三分の一の人間なのだ。
「では、それぞれ誰がつくかは籤で決める」
そうして籤引きの結果、満尋には鵟衆の頭 宇木衛門がつくことになったのだ。
それからは指導者に付いて各々解散した。満尋だけは宇木衛門が動かないので、そのまま本堂に残っていたが。
「俺たちはどうするんですか?」
「そうだな。……では鬼ごとでもするか」
「は?」と満尋は聞き返した。皆が一人一人訓練をつけてもらっているのに、何故自分は鬼ごとなどで遊ばなくてはならないのか。宇木衛門は木刀を手にして、「これから俺は明鵠寺を適当に歩く」と言った。明鵠寺というのは、この鵟衆が拠点としている古寺の寺名だ。随分昔に寺としての役目は終えているのだが、今でも町の人間を含めてここをそう呼んでいる。
「お前は俺から一本取れれば良しとしよう。好きに討って来い」
「十数えたら動いていいぞ」と宇木衛門は本堂を後にした。つまり鬼役は自分がやるというわけか。本当の遊びでなくて良かったと、一息ついて十数える。頭なんてやっている人間だからめちゃくちゃに強いに決まっている。初めて宇木衛門に会った時を思い出して、満尋は身震いした。一本取れるだろうか。
――――八、九、十!
本堂を駆け出して外に出ると、当然だが宇木衛門の姿は無かった。敷地内のあちこちで稽古をしている衆徒を見ながら、どこへ向かったかを考える。本堂から出て正面は、正門まで何も無いので隠れるところも無い。となると、裏へ回ったかとそちらへ行くと、意外と早くにその姿を見つけることができた。
隠れるでもなく走るでもなく、本当にただ歩いている。警戒している様子もなく、満尋以外のものが見ればただの散歩に見えるだろう。満尋は木刀を構えて彼に向かって駆けていくと、「何してんの? 満尋」と声がかけられた。
どうやら稽古中の衆徒が気になって声を掛けたようだが、その所為で宇木衛門は気付いたようだ。満尋を見てふっと笑うと駆け出して見えなくなってしまった。ちっと舌打ちして後を追いかけるが見失う。そこで満尋は気付いた。どうやら、隠れなければならないのは鬼の方らしい。
庭の植え込みに身を潜めながら、満尋はじっと宇木衛門の様子を窺った。立てば腰ほどまである植物たちは、低く伏せた満尋をすっぽりと覆い隠してくれる。宇木衛門はかつて僧房と呼ばれていた、衆徒が寝泊りしている長屋風の建物の階に座って、稽古中の衆徒の様子を見ているようだ。はっきり言って、正面から向かっていったところで宇木衛門から一本取れるわけが無い。こちらはまだ剣術を始めて十日も経っていないのだ。少々卑怯でも不意をつくぐらいしないとこの鬼ごとには勝てないのだから、ハンデと思ってもいいだろう。ただ、こっそり近づくには他の衆徒に見つかってはいけない。先程の二の舞になるからだ。
できるだけ足音を忍ばせて背後にまわる。まだ距離が開いているので油断はできない。植え込みから離れて縁の側に移動し、静かに上がると、誰にも気付かれないように気配を殺して徐々に距離を詰めていった。こうして気配を殺していると、あの町人から逃げ回っていた日々を思い出す。あの頃自分は何を考えていたか。
――絶対に見つからないように。殺されてしまうから。もっと、もっともっと野生になれ。
肩を狙って振り上げた木刀は、素早い動作で横に薙ぎ伏せられ、腕、肩と続いて鈍い衝撃がやってくる。
「くっ……」
カラン、と木刀を落とすまで、満尋は自分に何をされたか分からなかった。