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婚約破棄された王国監査官は、辺境で「見えない借金」を清算する

掲載日:2026/07/02

 王太子殿下に婚約を破棄された夜、私は王城の礼拝堂で、最後の監査報告書を破られた。


「エステル・レイノール。おまえは、祝福の日にまで帳簿を持ち込むのか」


 金箔のついた紙片が、白い石床へひらひらと落ちる。


 私の名はエステル。王国会計院の第二監査官であり、王太子フェリクス殿下の婚約者だった。もっとも、今この瞬間をもって、その二つの肩書きはどちらも失われるのだろう。


 礼拝堂には、王都の貴族と大商人、それから神殿の高位神官が集まっていた。中央には、淡い金色の髪をした少女が立っている。聖火のような光を瞳に宿した、近ごろ王城へ招かれた「星詠みの巫女」ミレアだ。


 フェリクス殿下は彼女の手を取り、私を見下ろした。


「私はミレアを愛している。彼女はこの国に豊穣の兆しをもたらした。それに比べておまえはどうだ。収支だ、規則だ、負担だと、国の未来に水を差してばかりいる」


 拍手が、どこか遠くで鳴った。


 私が差し出した報告書には、王家主催の『新暦祝祭』に投じられた費用と、北部の防壁補修を後回しにした結果として増えた被害見込みが記されていた。祝祭の花火一晩分で、辺境の小村なら冬を三回越せる。王都の噴水を香水で満たす費用で、崩れかけた街道橋を二本直せる。


 数字は、誰かの暮らしを削った痕跡だ。


 だから私は、数字を軽く扱えなかった。


 しかし、この場にいる誰も、私の言葉を聞こうとはしなかった。


「殿下」


 私は床に散った紙を見ず、まっすぐに言った。


「祝祭費用を問題にしているのではありません。財源として使われた『王家緊急積立』は、北部防壁の魔獣被害に備えるための資金です。積立を取り崩すなら、代替の防衛計画と補填時期を――」


「まだ言うのか」


 殿下の声が冷たく落ちた。


「おまえはいつも、誰かが前へ進もうとするたびに『失うもの』を数える。そんな女に王太子妃の席は務まらない」


 その言葉に、会計院長のベルク侯爵が小さく笑った。彼は私の上司であり、殿下の乳兄弟でもある。


「会計院は本来、王家の意志を円滑に実現する組織です。レイノール嬢は、少々職務の意味を取り違えたのでしょう」


 職務の意味。


 不正を見逃すことが、王家に仕えることだと言うのなら、私は確かに取り違えている。


 私には、前世の記憶がある。


 前世の私は、地方自治体の監査部門で働く、ごく普通の会社員だった。年度末には資料の山に埋もれ、会議室では「細かい」と言われ、けれど赤字の数字の向こうに、閉鎖される保育所や、修理されない道路や、助けを待つ人がいることを知っていた。


 事故で死に、この世界に生まれ直した時、私は変な力を授かった。


 物に触れると、その物が誰の手を経て、誰の負担によってここへ来たのかが、薄い文字列となって視える能力。


 それを私は『因果帳』と呼んでいた。


 たとえば王城の銀食器に触れれば、銀鉱山で負傷した坑夫の名と、未払いの治療費が浮かぶ。宝石の髪飾りなら、運搬の途中で壊れた橋の修繕を先送りにした記録が視える。魔法の力ではあるが、私にはただの帳簿だった。


 便利な力ではあった。


 そして、嫌われる力でもあった。


「エステル・レイノール」


 フェリクス殿下は宣告した。


「おまえとの婚約を破棄する。加えて、会計院第二監査官の任を解く。王都から五百里離れた、灰土辺境の旧収税所へ移れ。あそこなら好きなだけ紙を数えていればいい」


 灰土辺境。


 魔獣の通り道に近く、乾いた土地と見捨てられた集落しかない土地だ。収税所といっても、十年前の飢饉で職員が逃げ、今は誰も税を集めに行かない。


 実質的な追放だった。


 会場の誰かが、かわいそうに、と囁いた。その声には本当に哀れむ気持ちがあったのか、それとも面白い見世物が終わることへの名残惜しさがあったのか、私には分からない。


 ただ一人、ミレアだけは青ざめていた。


「殿下、そんな……。エステル様は、私にいつも親切にしてくださいました。わたしのために、こんな――」


「ミレア。おまえは優しすぎる」


 殿下は彼女の言葉を遮り、慈愛深い笑みを浮かべた。


「だが、国には決断が必要なのだ」


 私はそこで初めて、少しだけ笑いそうになった。


 決断とは、責任を負う者が言う言葉だ。


 責任を他人へ押しつける者が口にすると、ただの飾りになる。


「承知しました」


 私が答えると、礼拝堂が静かになった。


「ですが、最後に一つだけ。北部防壁の予備石材は、既に三割が横流しされています。新暦祝祭の設営を請け負ったラディウス商会を調べてください。彼らの帳簿は、祝祭費と防壁補修費を同じ倉庫番号で処理しています」


 ベルク侯爵の顔色が、わずかに変わった。


 それだけで十分だった。


「脅しか」


「報告です」


「連れて行け」


 近衛兵が私の両脇に立つ。


 私は礼拝堂を出る前に、一度だけ振り返った。フェリクス殿下はすでにミレアへ微笑みかけていた。集まった人々は、これから始まる祝宴の話をしていた。


 石床に落ちた報告書の一枚には、私が最後に書いた結論だけが残っていた。


 ――未計上の損失は、必ず誰かが支払う。


 その夜、私は王都を去った。


 護衛も侍女もつかなかった。残されたのは、古い荷馬車一台と、私を追放先まで運ぶ御者だけだ。


 御者は国境近くまで一言も話さなかった。灰土辺境を望む丘の上で、荷台から私の荷物を降ろすと、ようやくこちらを見た。


「お嬢さん」


「何でしょう」


「王都に戻るつもりなら、今のうちだ。あの土地は、まともな人間が住む場所じゃない」


「では、まともでない人間が住めばいいのでしょう」


 御者は一度目を丸くし、それから噴き出した。


「なるほど。帳簿屋は口も堅いが、頭も堅いらしい」


「よく言われます」


 笑い合ったのは、たぶんあれが最後だった。


 荷馬車が去ったあと、風だけが残った。


 灰土辺境は、名のとおり灰色だった。ひび割れた地面。草の少ない丘。遠くに黒い岩山。けれど、よく見ると、土の下には古い水路の跡があった。倒れかけた石柱には、かつてここを通った交易路の刻印が残っている。


 壊れている。


 だが、何もないわけではない。


 私は古びた収税所の扉を開けた。中には鼠の巣と、空の棚と、雨漏りの痕があった。机の引き出しには、二十年前の徴税台帳が一冊だけ残されていた。


 ぱらりとめくる。


 灰土辺境の人口、千二百四十人。


 現在の推定人口、三百人前後。


 減った九百人余りは、どこへ行ったのだろう。


 私は台帳に指を置いた。


 淡い文字が、紙の上に浮かんだ。


 【未精算債務:北部防壁崩壊に伴う避難民支援費】

 【債務負担者:王家】

 【未履行期間:九年】

 【利息:生活基盤の喪失、離散、死亡】


 風が、破れた窓から吹き込んだ。


 私は息を吐いた。


「……なるほど」


 追放先ではない。


 ここは、王国が九年間、帳簿の外へ押し出してきた損失そのものだった。


 ならば、やることは一つだ。


 私は古い机を拭き、残った紙を並べ、入口の板に炭で書いた。


 【灰土辺境・再建会計室】

 ――働いた者、負担した者、守った者に、正しく返す。


 その翌朝、最初の客が来た。


 泥にまみれた十歳ほどの少年だった。


「ここ、飯をくれるのか」


 彼は警戒するように尋ねた。


「いいえ。ここは会計室です」


「じゃあ、何してくれる」


「困っていることを、数字にします」


 少年はますます怪訝そうな顔をした。


 私は机の向かいを指した。


「名前は?」


「ニコ」


「ニコ。何に困っているの?」


 少年は少し黙った後、唇を噛んだ。


「井戸が枯れた。母ちゃんが、遠い川まで水を運んでる。父ちゃんは魔獣よけの柵を直してて、畑を耕せない。だから、飯がない」


 私は紙に書きつけた。


 井戸の枯渇。水運びに要する時間。防柵修繕の人手。不作。食料不足。


 どれも別々の問題に見えて、同じところにつながっている。


 水路が壊れたからだ。


「ニコ。村には、石を積める人はいる?」


「いる。じいちゃんが昔、橋を作ってた」


「木を切れる人は?」


「南の森の人たち」


「井戸を掘ったことがある人は?」


「婆ちゃんが、昔は井戸番だったって」


「分かった」


 私は立ち上がった。


「今日は、村の人を集めて」


「飯は?」


「仕事をした人に、食料を出す」


「食料なんて、どこにあるんだよ」


 ニコの問いは正しかった。


 私は自分の荷箱を開けた。王都から持ち出せたわずかな銀貨と、婚約時に贈られた宝石が入っている。宝石は、今となっては重いだけだった。


 指輪を外し、机に置く。


「これを売る」


「それ、すごそうだけど」


「私は、すごいものより水がほしい」


 それが、灰土辺境での最初の支出だった。


     *


 指輪を買ったのは、行商人ではなかった。


 その三日後、灰土の収税所へ、薄茶色の外套を羽織った女が訪ねてきた。年のころは二十代半ば。腰には使い込まれた短剣、背には弓。左の頬には古い傷があり、視線は初対面の相手を値踏みする傭兵のものだった。


「ここが、王都で捨てられたお姫さまの事務所か」


「元婚約者です。お姫さまではありません」


「同じようなもんだろ」


「王家にとっては違います。会計上の扱いが」


 女は唇の端を上げた。


「会計上ねえ。私はカヤ。北部防壁の斥候隊にいた」


 その名に、私は手を止めた。


 北部防壁の斥候隊は、昨年の魔獣襲撃で半数が行方不明になったと報じられていた。けれど、私の因果帳では別の記録が見えていた。予備石材の横流し。補修予定の延期。避難路の未整備。失われたのは兵だけではない。


「防壁が崩れた時、あなたはそこに?」


「ああ。私の隊は、村人を逃がすために残った。なのに王都の報告じゃ、『斥候隊の判断ミス』だとさ」


 カヤは卓上に、革袋を置いた。


 中には、ひび割れた石片が入っていた。防壁の基礎石だ。


「これを見ろ。崩れた場所の石だ。外側だけ新品の石灰で塗ってあった。中身は、十年前に廃棄した粗悪品だ。補修費を何度も計上して、実際には直していない」


 私は石片へ指を伸ばした。


 文字が浮かぶ。


 【発注名義:ラディウス商会】

 【検収責任者:ベルク侯爵家会計補佐】

 【品質検査:省略】

 【差額移転先:王都祝祭準備局】


 胸の奥が、冷えるように静かになった。


「証拠になります」


「なるなら使え。私は、死んだ仲間の名前を『判断ミス』の一行で終わらせたくない」


「ここで働きませんか」


 私が言うと、カヤは眉を寄せた。


「傭兵を雇う金があるのか」


「雇用ではありません。共同事業者です」


「は?」


「この土地の安全を守る仕事を、あなたの隊に任せたい。報酬は、私が一方的に払う形ではなく、辺境の再建利益から一定割合を配分します。防柵の修繕と巡回に必要な費用を最初に計上し、残りを住民と分ける」


「……まともに聞こえるから、逆に怪しいな」


「契約書を作ります。内容に納得できなければ、署名しなくて結構です」


 私は紙を引き寄せた。


 前世で身につけた癖なのだろう。問題が大きすぎる時ほど、私はまず欄を作る。


 目的。役割。費用。利益。責任。解除条件。


 誰かが困った時、善意だけでは続かない。続く仕組みにしなければ、次に困る人が出る。


 カヤは私が書く手元を見ていた。やがて、小さく言った。


「辺境の人間は、王都の貴族に何度も騙された。おまえが同じなら、私は弓を引く」


「当然です。契約違反には、契約違反として対応してください」


「怖がらないのか」


「怖いです」


 私は正直に答えた。


「でも、怖いからこそ、約束を文にします」


 その日の夕方、カヤは収税所の屋根に登り、雨漏りの穴を塞いだ。


 翌日には、彼女が連れてきた元斥候兵が三人、元防壁工が二人、炭焼きの老人が一人、会計室の前に並んだ。


 彼らは私を信用していなかった。


 それでよかった。


 信頼とは、最初から求めるものではない。こちらが約束を守り続けた後で、相手が選ぶものだ。


     *


 灰土辺境の再建は、見栄えのする事業ではなかった。


 最初にやったのは、崩れた水路を全部直すことではなく、壊れていない部分を調べることだった。三十里に及ぶ旧水路のうち、完全に崩落していたのは七里。土砂が詰まっているだけの箇所が十一里。水門が壊れているだけの箇所が三つ。


 村人たちは、私が「まず地図を作りましょう」と言った時、露骨に失望した。


「腹が減ってるのに、紙に線を引くのか」


 そう言ったのは、井戸番だったという老女、バルダだった。


「はい」


「はい、じゃない」


「地図なしで石を運べば、遠回りをします。遠回りをすれば、人が疲れます。疲れれば、畑を耕す時間が減ります。畑を耕せなければ、来年も食料がありません」


「……」


「今日の食料を出すためにも、明日の食料を減らさないやり方が必要です」


 バルダは杖をつき、しばらく私を睨んでいた。


 それから鼻を鳴らした。


「口だけは、前の収税官よりましだ。あいつは地図も持たずに税だけ持っていった」


「では、水路を知っている方として、案内をお願いします」


「案内料は?」


「もちろん払います」


「何で?」


「食料と、今年の収穫が戻ったら分配金で」


「分配金?」


「水が戻れば畑が使える。畑が使えれば収穫が出る。その一部を、水路を直した人に返します」


 老人たちが顔を見合わせた。


 ここでは長いあいだ、働いた人が報われるとは限らなかった。王都の命令で徴発され、修繕し、収穫が出れば税で取られる。それなら誰も、次の修繕に力を出さない。


 私は彼らに、古い収税所の壁へ大きな板を打ちつけてもらった。


 そこに、毎日の収入と支出をすべて書いた。


 米袋が三十袋入った。誰から買った。いくら払った。何人が働いた。何日分の食料を渡した。釘を何本買った。井戸の縄を何尺替えた。


 盗めない帳簿などない。


 けれど、盗みにくい帳簿は作れる。


 誰でも見られる場所に置くこと。難しい言葉を使わないこと。数字の根拠を説明すること。間違いを指摘した人が損をしないこと。


 七日目、ニコが板の前で首を傾げた。


「エステル。ここ、数字が合ってない」


 私は振り返った。


「どこ?」


「麦粉が二袋残るはずだ。昨日、叔父さんが受け取ったの、一袋って書いてある。でも二袋持ってた」


 周囲の空気が固くなった。


 叔父というのは、村のまとめ役をしているグランだった。赤ら顔の大柄な男で、最初から私を「王都の女」と呼んでいた。


「子どもの見間違いだ」


 彼は言った。


「俺は一袋しか受け取ってない」


「では確認しましょう」


 私は静かに答えた。


「食料庫の鍵は誰が管理していますか」


「俺と、おまえの斥候女だ」


「カヤ、昨日の記録を」


 カヤが帳面を出す。彼女は文字が得意ではなかったが、配給のたびに印をつける役を引き受けてくれていた。


 グランは苛立たしげに腕を組んだ。


「たかが麦粉一袋で、村の顔を潰すのか」


「たかが一袋、ではありません」


 私は壁の板を指した。


「今日一袋が消えれば、明日も誰かが一袋を取ります。やがて、正直に働く人が馬鹿を見ます。そうなれば水路は直りません。水が戻らなければ、子どもが飢えます」


 グランは私を睨んだ。


 私は続けた。


「返してください。事情があるなら、皆の前で説明してください。配給を増やす必要があるなら、帳簿に書いて決めます」


 長い沈黙の後、グランの肩が落ちた。


「……娘が熱を出してる。薬師のところまで麦粉を持っていかなきゃ、薬を分けてもらえなかった」


 村人の間にざわめきが走る。


 私は息を吐いた。


「薬代として申請してください」


「申請したら、もらえるのか」


「診てもらう必要があります。ただし、病人を隠して悪化させる方が高くつきます。明日から、共同の薬箱を作りましょう」


「俺は盗んだんだぞ」


「帳簿上は、無断持ち出しです」


「同じだろ」


「違います。無断持ち出しは、返す方法と、次に起こさない方法を考えられます。盗人と決めつければ、あなたは次から本当に盗人として生きるしかなくなる」


 グランは、何か言いかけてやめた。


 やがて彼は、目を伏せた。


「……麦粉を返す」


「薬の件は、私が一緒に薬師へ話を聞きに行きます」


 その日、私は人前で褒められなかった。


 しかし翌朝、食料庫の前には新しい札が下がっていた。


 【配給について困ったことがある人は、先に相談してください】

 【誰かの分を減らす時は、理由を皆で決めます】


 書いたのは、グランだった。


     *


 夏の終わり、水路に初めて水が流れた。


 それは大河ではない。濁った、細い流れだった。


 けれど村人たちは、子どもを抱き上げ、泥の岸へ走った。バルダは杖を放り出して水に手を浸し、泣き笑いのような声を上げた。ニコは靴のまま飛び込み、カヤに耳を引っ張られた。


「冷たい!」


「当たり前だ。飲む水を濁すな」


「でも、すごい!」


 私は少し離れたところで、その光景を見ていた。


 因果帳が、淡く光る。


 【未精算債務:生活基盤の喪失】

 【履行状況:一部回復】

 【負担者:灰土辺境住民】

 【受益者:灰土辺境住民】

 【注記:相互承認により、債務の性質が『搾取』から『共同投資』へ移行】


 私は文字を見つめた。


 王家が払うべきだったものを、ここにいる人たちが払った。そこに怒りがないわけではない。


 だが、彼らはただの被害者ではない。自分たちの土地を、自分たちで取り戻す人たちだった。


「エステル」


 カヤが隣に立った。


「泣いてるのか」


「泣いていません。砂が」


「雨も降ってないのに?」


「風です」


「帳簿屋は嘘が下手だな」


 その日、再建会計室の扉には、初めて人が列を作った。


 畑を借りたい者。壊れた荷車を直したい者。森の木を切りすぎずに炭を売る方法を考えたい者。子どもに文字を教える場所がほしい者。


 私は一つずつ、紙に書いた。


 全員の願いをかなえることはできない。


 だが、願いがどこから来て、何を必要として、誰の負担になるかを見える形にすれば、できることは増える。


 だから、私は書き続けた。


 そして秋の半ば、王都から最初の使者が来た。


 白い馬。青い旗。金糸の制服。


 使者は、埃っぽい収税所の前に立つと、鼻先をわずかに歪めた。


「エステル・レイノール。王都より通達である」


 彼が読み上げた文書には、こう書かれていた。


 【灰土辺境再建に伴い、当該地で得られた収益の七割を王家復興負担金として徴収する】

 【なお、支払いが遅れた場合、王家は水路および防柵を接収する権利を持つ】


 村人たちの顔から、血の気が引いた。


 私だけが、文書に指を置いた。


 因果帳の文字が、これまでにないほど濃く浮かぶ。


 【文書作成者:王家財務局】

 【実質受益者:新暦祝祭追加演出費、王太子私設騎士団】

 【名目:復興負担金】

 【適法性:欠缺】

 【注記:王家が負う未履行債務を、被害者へ再転嫁している】


 私はゆっくり顔を上げた。


「使者殿」


「何だ」


「これは、受け取れません」


 使者が笑った。


「拒める立場だとでも思っているのか。おまえは追放された身だ」


「ええ。だからこそ、答えは明確です」


 私は通達書を折り、彼へ返した。


「ここは王家の都合を隠すための帳簿外資産ではありません。税を取るなら、まず王家がこの地へ負う債務を精算してください」


「不敬だ!」


「会計上の事実です」


 使者は剣の柄に手をかけた。カヤと元斥候兵たちが、一歩前に出る。


 私は手を上げて止めた。


「争う必要はありません。文書の控えをください。王都の公文書保管庫に照会を出します」


「何をするつもりだ」


「監査です」


 使者は唇を引き結んだ。


 その目に、初めてわずかな怯えが宿った。


 王都で私を捨てた人々は、きっとまだ知らない。


 帳簿を持つ者を辺境へ追いやるというのは、数字の届かない場所に捨てることではない。


 数字を知る者に、国が隠してきた損失を丸ごと見せることなのだ。


     *


 使者が去った翌日から、灰土辺境の会計室は、以前より忙しくなった。


 王都は、こちらが黙って払うと考えていたのだろう。


 だが、通達を読んだ村人たちは黙らなかった。


「七割も取られたら、種も買えない」


「水路を直した分まで、王都のものだと言うのか」


「また逃げるしかないのか」


 不安は正しい。怒りも正しい。


 しかし、正しい感情だけでは、兵を止められない。


 私は村人たちを集め、収税所の長机に地図を広げた。


「まず、王家の通達が何に基づくのかを調べます。その上で、こちらが守るべきものを決めましょう」


「守るべきもの?」


「畑、水路、食料庫。そして、皆さんがこの土地で働いて得た権利です」


 グランが腕を組んだ。


「権利なんて、王都の連中が認めなければ紙切れだ」


「だから、王都が認めざるを得ない形にします」


 私は古い収税台帳を取り出した。


「この土地の最初の開拓契約を探します。灰土辺境は王家が一方的に作った土地ではありません。水路を掘り、防壁を築き、交易路を通した人がいた。彼らと王家の間には、必ず取り決めがあるはずです」


 その言葉に反応したのは、意外にもニコだった。


「石柱の字、読める人がいる」


「誰?」


「山のほうの修道院にいる、変な先生」


「変な先生」


「何百年も前の税率を暗記してる」


 それは、少なくとも私が今必要としている種類の変人だった。


     *


 山の修道院は、崩れた交易路の先にあった。


 白壁は煤け、鐘楼には鳥が巣を作っている。けれど中へ入ると、書庫だけは驚くほど整っていた。棚には革表紙の台帳、石板の拓本、古い契約書の写しが、年代順に並べられている。


 書庫の奥で、ひとりの青年が脚立に乗っていた。


 黒い髪を後ろで束ね、丸い眼鏡をかけている。年は私と同じか、少し上。手には羽根ペン、頬には墨の汚れ。


「お客さんですか。寄付でしたら右の箱へ。古文書を燃料にする気なら左の崖から落ちてください」


「契約書を探しています」


 私が言うと、青年は脚立から降りた。


「どの時代の、どの領域の、どの権利について?」


 目の色が変わった。


「北部灰土辺境の開拓と水路維持について。王家の徴税権の根拠が知りたい」


「面白い質問ですね」


「面白いですか」


「ほとんどの人は税を払いたくない時に『昔からこうだった』と言います。でもあなたは根拠を聞いた。名前は?」


「エステル・レイノール」


 青年は止まった。


「……あの、婚約破棄された監査官?」


「その呼び方は、今後減っていくと助かります」


「失礼。アルヴァ・セインです。王立記録院の補助司書でした。今は、王立記録院が都合の悪い記録を『整理』し始めたので、ここで紙を守っています」


 彼はさらりと言った。


「お仲間ですね」


「何の?」


「捨てられた側の」


 少しだけ、笑った。


 その日、私たちは書庫の床に座り込み、古い目録を片端から調べた。


 灰土辺境は、二百年前、魔獣の群れに焼かれた土地だった。王家は当時の開拓民へ、三つの約束をした。


 一つ。水路と防壁を王家の責任で維持する。


 二つ。開拓民は収穫の二割を税として納める。


 三つ。王家が第一の義務を三年続けて果たせなかった場合、開拓民は徴税の停止と自治会の設立を求めることができる。


「これです」


 アルヴァが、薄い銅板の拓本を指した。


「『北方共同開拓盟約』。王家の徴税権は、保護義務と切り離されていません」


 私は息を止めた。


「原本は?」


「普通なら王都の大記録庫。でも、この写しの作成記録によると、原本は灰土辺境の水源碑の内部へ納められた、とあります」


「水源碑?」


「たぶん、最初の水門の近くです。契約は、当事者が見られる場所に置くために」


 私は紙に手を置いた。


 因果帳が淡く明滅した。


 【契約状態:王家による保護義務、九年連続未履行】

 【開拓民側の請求権:発生済み】

 【行使条件:当事者の過半の同意、原本への宣言】


 読み違えではない。


「アルヴァさん」


「はい」


「灰土辺境へ来てください」


「え」


「契約の文言を読める人が必要です」


「僕は司書です。戦えませんよ」


「私も戦えません」


「それで王家と戦うつもりですか」


「いいえ」


 私は拓本を丁寧に巻いた。


「王家に、約束を守らせるつもりです」


     *


 水源碑は、壊れた最初の水門のそばに埋もれていた。


 半分以上が土に沈み、表面の文字は風雨で消えていた。ニコが見つけた古い石板の隙間へ、バルダが細い指を差し入れる。


「ここだよ。昔、父が言ってた。水が止まった時は、石の中にいる『約束の人』を起こせって」


 石を慎重に外すと、内部から緑青を帯びた銅筒が出てきた。


 蓋を開ける。


 中には、羊皮紙ではなく、薄い銀の板が収められていた。


 アルヴァが震える声で読んだ。


「北方共同開拓盟約。署名は、当時の国王、開拓団代表、神殿の立会人……本物です」


 村人たちが押し黙る。


 彼らにとって、二百年前の約束は遠い。


 しかし、その約束が今の自分たちを守るかもしれないと知った時、遠い文字は急に重くなる。


「皆さんに確認します」


 私は水源碑の前に立った。


「この盟約に基づき、王家へ三つを求められます。第一に、不当に課された復興負担金の撤回。第二に、九年間の未履行分についての補償協議。第三に、灰土辺境自治会の設立です」


 誰かが言った。


「そんなことをしたら、兵が来る」


「来るでしょう」


「負けたら?」


「皆さんの土地を守れないかもしれません」


 私は、都合のいいことは言わなかった。


「でも、黙って従えば、土地を守れる保証はありません。水路も防柵も、王家に接収されればまた放置されるか、誰かの祝祭費に変わります」


 風が吹いた。


 ニコが小さな手を挙げた。


「俺は、賛成」


「子どもが決めることじゃない」


 グランが言ったが、ニコは引かなかった。


「でも、ここで生きるのは俺たちだ。水路、みんなで直した。取られるの、嫌だ」


 バルダが笑った。


「そのとおりだよ。年寄りが残してきたものを、子どもに渡せないなら、何のために直したんだい」


 ひとり、またひとりと手が上がった。


 最後にグランが、大きく息を吐いた。


「俺も賛成だ。前に一袋、黙って取った時、エステルは俺を追い出さなかった。だったら今度は、俺がこの土地から追い出されないようにする」


 過半の同意がそろった。


 私は銀板に手を置く。


 因果帳の文字が、はっきりと形を成した。


 【請求権行使:承認】

 【灰土辺境自治会:暫定設立】

 【王家徴税権:審査完了まで停止】


 次の瞬間、水源碑の奥で、低い音が響いた。


 壊れていた水門の石が、ゆっくりと動く。


 水は増えなかった。奇跡が起きたわけではない。


 ただ、九年間閉ざされていた地下水路の弁が開き、わずかな水が、正しい方向へ流れ始めた。


 誰かが泣いた。


 私は、それが盟約の魔法なのか、古い水門の仕組みなのか、断言できなかった。


 けれど一つだけ確かだった。


 約束を見つけ、皆で選び、声に出して求めた。


 それによって、この土地は初めて、自分たちの名前を取り戻し始めた。


     *


 王都から来たのは、使者ではなく軍だった。


 十日後、灰土辺境の入口に青金の旗が並んだ。騎士三十、歩兵八十、荷車六台。先頭にいたのは、会計院長ベルク侯爵だった。


 彼は馬から降りると、埃ひとつついていない靴で水路の土を踏んだ。


「随分と賑やかになったな、レイノール嬢」


「以前より人が減っていないだけです」


「まだ口だけは達者だ」


 彼の後ろには、鉄格子のついた荷車があった。兵ではなく、書類箱が積まれている。


「王家は寛大だ。おまえが自治だの補償だのという子どもの遊びを止めるなら、無断の水路改修については不問にしてやる」


「無断ではありません。盟約に基づく保全です」


「二百年前の紙切れで、現王家に逆らうのか」


 アルヴァが一歩出た。


「紙切れではありません。王家の徴税権そのものの根拠です。原本は水源碑にあります」


 ベルク侯爵は、初めてアルヴァを見た。


「セイン。おまえ、まだ生きていたのか。記録院から逃げた鼠が」


「記録は、逃げません。隠されるだけです」


「黙れ」


 侯爵が手を上げると、兵が前へ出た。


 カヤたちが弓に矢をつがえる。村人たちが、水路のそばに集まる。


 私は彼らの間に立った。


「侯爵。兵を使う前に、確認させてください」


「何をだ」


「この通達にある『王家復興負担金』の使途です」


 私は使者から受け取った控えを掲げた。


「名目は灰土辺境の復興負担。しかし実際には、王太子私設騎士団の馬具、祝祭の追加演出、ラディウス商会への未払い分に回っています。あなたは会計院長として、これを承認しましたね」


 侯爵の表情が硬くなる。


「国家運営には、表に出せぬ支出もある」


「あるでしょう。しかし、被害を受けた土地への補償を、別の贅沢へ流用することは国家運営ではありません。横領です」


 兵たちがざわついた。


 侯爵は低い声で言った。


「証拠はあるのか」


「あります」


 私は、彼の腰に下がっていた銀の印章を指した。


「その印章に触れれば、承認経路が見えます」


 もちろん、私にしか見えない。


 だが、侯爵は一瞬、印章を隠すように手を動かした。


 それだけで、村人たちの視線が変わった。


「魔女の戯言だ」


「では、王都の公開審査で確認しましょう」


「何?」


「盟約には、徴税権の争いについて、神殿立会いの公開審査を受けるとあります。王家がそれを拒むなら、盟約違反を自ら認めることになります」


 侯爵は笑った。


「王都へ来るつもりか。おまえ一人で?」


「一人ではありません」


 私は後ろを見た。


 ニコがいる。バルダがいる。グランがいる。水路を直した人、柵を立てた人、食料庫の帳簿を読んだ人がいる。


「灰土辺境自治会として行きます」


 侯爵の笑みが、消えた。


 その日、彼は兵を引かせた。


 表向きの理由は、『王都の判断を仰ぐため』だった。


 けれど、彼が引いた本当の理由を、私は因果帳で見た。


 【ベルク侯爵:水源碑原本の存在を、王太子へ報告済み】

 【王太子府:証拠隠滅計画を開始】

 【予定:公開審査前夜、灰土辺境の代表を『魔獣事故』で排除】


 私は紙を握りしめた。


 ようやく、相手も本気になった。


 ならばこちらも、帳簿だけでは終わらせない。


     *


 暗殺者は、夜のうちに来た。


 正確には、暗殺者たちは自分が暗殺者だとは名乗らなかった。王都から派遣された『街道安全確認隊』を名乗り、五人の兵と二人の魔導士が、灰土辺境の代表団を護衛すると申し出た。


 カヤは最初から嫌っていた。


「あいつら、靴がきれいすぎる。ここまで来るなら、泥がつく」


「王都の舗装路しか歩いていないのでしょう」


「そうじゃない。歩き方が、護衛の歩き方じゃない」


 カヤは夜の見張りに立ちながら、火の消えた焚き火を睨んだ。


「護衛は、守る相手より先に周囲を見る。あいつらは、こっちの荷馬車ばかり見ている」


 私は頷いた。


 荷馬車には、盟約の写し、村の再建会計帳簿、そして水源碑から取り出した原本の銀板が積まれている。原本は村に残すことも考えたが、公開審査で見せなければ意味がない。


 相手が狙うのは、私ではなく証拠だ。


 私は自分の寝台へ戻り、机の上の燭台に触れた。


 因果帳の文字が浮かぶ。


 【燭油:本日、王都製の眠り草抽出液が混入】

 【混入者:街道安全確認隊・魔導士補佐】

 【目的:夜半、代表団を昏睡させ、輸送物を焼却】

 【偽装:山火事による事故】


 私は深く息を吸った。


「カヤ」


「分かった。眠るな、だろ」


「いえ。眠ります」


 彼女が振り返った。


「は?」


「相手は、私たちが警戒していると知れば計画を変えます。眠ったふりをしましょう」


「危ない」


「危ないのは、帳簿を燃やされることです。原本は、偽物を積みます」


「おまえは時々、会計のためなら自分の命を安く見積もる」


 カヤの声が、わずかに強くなった。


 私は黙った。


 そうかもしれない。


 前世でも、私は数字の向こうにいる人を見ようとしていた。けれど、数字を守ることに集中しすぎて、自分の疲れや痛みを後回しにしていた。


「訂正します」


 私は言った。


「命は安くありません。だから、皆で無事に終わらせます」


 それから、村の者たちと短い作戦会議をした。


 原本の銀板は、バルダが腰に巻いた布の中へ隠した。彼女は「年寄りの腹を探る馬鹿はいない」と笑った。会計帳簿は三冊に分け、写しを荷馬車へ、本物をアルヴァとニコの荷袋へ入れる。カヤと元斥候兵は、林の中に散った。


 私は燭台の油をそのまま燃やした。


 眠気が来る。


 寝台へ横になり、目を閉じる。


 夜半、布の擦れる音がした。


 誰かが部屋へ入る。小さな魔法の灯り。荷物を探る気配。


「よく眠っているな」


 低い声が聞こえた。


「さすがに、追放者の女一人では何もできない」


 私は呼吸を乱さず、指先で枕の下にある小さな笛を握った。


 荷箱が開かれる。


 銀板の偽物が取り出される。


「これか」


「急げ。火を」


 次の瞬間、外で笛が鳴った。


 短く、二回。


 カヤたちの合図だ。


 窓が破られ、矢が一本、魔導士の杖を弾いた。火の魔法が暴発し、天幕の外へ散る。眠り草の煙が広がる前に、村の女たちが濡れ布を投げ込んだ。


 私は起き上がった。


「動かないでください」


 侵入者は剣を抜こうとした。しかし扉の外には、グランたちが立っていた。農具しか持っていない。けれどその目は、以前のように怯えてはいなかった。


「王都の護衛様が、夜中に何の用です」


 グランの声は低かった。


「ここは王家の命令で――」


「なら、王家の命令書を見せてもらおう」


 侵入者は答えない。


 私は床に落ちた小さな革筒を拾った。中には、焼却用の符と、王太子府の私印が押された指示書があった。


 【事故処理後、灰土辺境自治会の扇動者を拘束。会計資料は回収不能として報告せよ】


 私は文章を読み上げた。


 夜の闇の中、誰も声を出さなかった。


 カヤが言った。


「これで、王都へ持っていく証拠が増えたな」


 私は頷く。


「ええ。ただし、これは王太子殿下が直接書いたとは限りません。推測で人を裁くことはしません」


「甘い」


「違います。正確でありたいだけです」


 私は指示書を布で包んだ。


「だから、公開審査で確認します。誰が命じ、誰が承認し、誰が利益を得たのかを」


     *


 王都へ向かう道中、代表団は二十人になっていた。


 最初は私とカヤとアルヴァ、そして自治会の代表三人だけの予定だった。けれど、襲撃未遂の翌朝、村人たちが次々に言った。


「水路を直した者として、話す」


「防柵を作った者として、行く」


「帳簿の数字を確かめた者として、行く」


 私は全員を連れていくことには反対した。畑を守る人が必要だったからだ。


 最終的に、村ごとに一人ずつ、合計十二人の代表を選んだ。選ぶ基準は、声の大きさではない。水路、農地、食料、警備、薬、教育、商いと、それぞれの仕事を知る人間がいること。


 アルヴァはその選び方を見て、馬車の中で感心したように言った。


「普通、代表は一番偉い人を出します」


「一番偉い人だけでは、情報が偏ります」


「王都の議会に聞かせたいですね」


「聞かせましょう」


 王都が近づくにつれ、景色は豊かになった。


 石畳。大きな市場。色鮮やかな布。焼き菓子の匂い。噴水の水音。


 そして、その華やかさの下に、私は無数の文字を見た。


 市場の屋根には、雨漏りを放置された商人たちの負担。噴水には、水不足の村から優先配水を奪った記録。王城の新しい塔には、危険手当を払われなかった職人の名前。


 王都は豊かだった。


 だが、その豊かさの一部は、見えない場所から運ばれてきたものだった。


 公開審査の前夜、私は神殿から呼び出された。


 待っていたのは、ミレアだった。


 彼女は以前よりも痩せて見えた。豪奢な白い衣を着ているのに、袖口を握る指は強張っている。


「エステル様」


「ミレア様」


「どうか、二人きりで話をさせてください」


 神殿の回廊には、夜の香が漂っていた。遠くで鐘が鳴る。


 ミレアはしばらく言葉を探していた。


「わたしは、エステル様が悪い人ではないと、ずっと知っていました」


「ありがとうございます」


「でも、何もできませんでした。殿下が『国のためだ』と言うと、わたしは信じてしまった。わたしの星詠みの力は、未来の良い兆ししか見えないことが多いのです。だから、殿下の言葉を聞いていると、きっと良い国になるのだと思って……」


 私は彼女を責めなかった。


 人は、未来を見られると言われた者の言葉を信じる。彼女自身も、その役割に縛られていたのだろう。


「今夜、何か見えましたか」


 私が尋ねると、ミレアは顔を上げた。


「明日の審査で、殿下は『契約の鏡』を使うつもりです。あの鏡は、嘘を暴くと聞かされていました。でも、実際には、王家が指定した帳簿しか映さないように、鍵がかけられている」


「鍵をかけたのは誰ですか」


「ベルク侯爵です。わたしは……見ました。鏡の裏側に、王太子府の印章がありました」


 私はゆっくりと頷いた。


「教えてくださって助かります」


「わたしは、証言します」


「ミレア様」


「わたしは、殿下を愛していたと思います。でも、愛しているからといって、間違いまで正しいことにはできません」


 彼女の声は震えていた。


 それでも、目を逸らしてはいなかった。


 私は少しだけ頭を下げた。


「証言は危険です。明日、あなたは王太子妃になれないかもしれません」


「王太子妃になるために、誰かの家を奪う人にはなりたくありません」


 その答えを聞いて、私は初めて、彼女を一人の味方だと思った。


 争いの物語では、誰かを悪役にしなければ楽になる時がある。


 けれど、現実には、間違った場所に立たされた人まで敵にしてしまえば、正しいことは少しも増えない。


「では明日、同じ事実を見ましょう」


     *


 公開審査は、王城の大広間で開かれた。


 壁には歴代国王の肖像。中央には、銀枠の巨大な鏡が置かれている。『契約の鏡』――古い盟約や誓約を照合し、当事者の申告と記録が一致するかを映す魔導具だ。


 玉座には、病で公務を減らしている国王陛下が座っていた。その隣にフェリクス殿下。さらにベルク侯爵、神殿長、各地の領主と商会の代表が並ぶ。


 灰土辺境の者たちは、場違いな服装のまま、まっすぐ前を見ていた。


 フェリクス殿下は、私を見ると穏やかに微笑んだ。


「久しぶりだな、エステル。まさか本当にここまで来るとは思わなかった」


「招かれましたので」


「おまえは昔から、規則に忠実だった」


 彼は残念そうに首を振った。


「ならば規則どおりに裁こう。灰土辺境が王家の許可なく水路を改修し、徴税を拒否し、王都の使者へ暴力を振るった件について」


「異議があります」


 アルヴァが言った。


「最初に審査すべきは、北方共同開拓盟約に定められた王家の保護義務です。徴税権はその履行を前提としている」


 ベルク侯爵が嘲る。


「二百年前の盟約を、現代の国政へ持ち込むつもりか」


「王家の紋章は二百年前から同じです」


 アルヴァは答えた。


「都合の良い時だけ連続性を主張し、都合の悪い時だけ過去を切り捨てるのは、法ではありません」


 大広間がざわめいた。


 国王陛下がかすれた声で言った。


「鏡に映せ」


 フェリクス殿下が頷く。


「よかろう。契約の鏡によって、王家の義務と灰土辺境の義務を明らかにする」


 鏡の表面が白く光る。


 しかし、浮かび上がったのは、王家側が用意した資料だけだった。


 【北部防壁:定期修繕を実施】

 【灰土辺境:王家支援を受領】

 【復興負担金:適正】


 明らかな虚偽だった。


 村人たちが息を呑む。


 フェリクス殿下は、勝ち誇ったように言った。


「見たか。おまえの主張は、感情的な反発にすぎない。王家は義務を果たしている」


 私は鏡を見た。


 鏡の縁には、細い銀線で鍵の文様が刻まれている。王家財務局の選択帳簿だけを読み込ませる、限定照合の術式。


 ミレアの言ったとおりだった。


「殿下」


 私は前へ出た。


「鏡に鍵がかかっています」


「何を言う」


「『契約の鏡』は、契約当事者双方の台帳を照合する魔導具です。片方だけが資料を指定すれば、それは鏡ではなく、肖像画です」


 空気が張りつめる。


 私は灰土辺境の帳簿を掲げた。


「盟約第十一条。審査を求める当事者は、自らの帳簿も公開し、照合の対象とする。私は自治会計室の全帳簿を開示します」


「エステル様」


 グランが小さく呼んだ。


 私は振り返らない。


「私たちにも間違いはあります。計算違いも、配給の失敗も、あります。だから隠しません。皆で見て、直します」


 それから、フェリクス殿下を見た。


「殿下も、王家財務局、王太子府、ラディウス商会との取引帳簿を開示してください」


 フェリクス殿下の笑みが、初めて消えた。


「無礼だ。王家の帳簿を、辺境の女に見せろというのか」


「王家の帳簿ではありません」


 私は言った。


「国民の負担によって成り立つ帳簿です」


 しばらく、誰も声を出さなかった。


 国王陛下が、ゆっくりとフェリクス殿下を見た。


「開示せよ」


「父上」


「開示せよ」


 命令だった。


 ベルク侯爵が何かを言おうとしたが、神殿長が杖を鳴らした。


「盟約の条文に従うべきです。鏡を完全照合へ戻しなさい」


 術師たちが鏡の裏へ回る。


 銀線の鍵が外されると、鏡は一度真っ暗になった。


 次の瞬間、白い面に、無数の文字が走った。


 最初に映ったのは、灰土辺境の帳簿だった。


 水路補修費。食料配給。薬代。グランの無断持ち出し。返却と、共同薬箱の設置。小さな失敗と、その後に取られた対応。


 大広間にいる者たちは、驚いたように見ていた。


 私は恥ずかしかった。


 自分たちの未熟さまで、公にさらされるからだ。


 しかし、隠すよりはましだった。


 そして鏡は、王家側の帳簿へ移った。


 北部防壁補修費――支出済み。実際の納品量――三割。


 差額移転先――新暦祝祭演出局。


 王太子私設騎士団馬具――北部復興特別費より支出。


 ラディウス商会未払い――灰土辺境復興負担金へ振替。


 防壁崩壊後の避難民支援――未執行。


 不良石材検収印――ベルク侯爵印。


 緊急積立取り崩し承認――フェリクス王太子印。


 文字は、止まらなかった。


 会場の誰かが椅子を倒した。


 商会の代表が青ざめ、領主たちが互いに顔を見合わせる。北部出身の老伯爵は、口元を押さえて震えていた。


「違う」


 フェリクス殿下が言った。


「国家には、外に出せない事情がある。私は国を豊かにするために――」


「では、なぜ」


 ミレアが前へ出た。


 彼女の声は小さい。けれど、大広間の隅まで届いた。


「なぜ、わたしに『豊穣の祝福のため』と説明して、祝祭費を増やしたのですか。なぜ、灰土辺境の人たちの水路の費用を、わたしの衣装と舞台のために使ったのですか」


「ミレア」


「わたしは、そんなお金はいらない」


 彼女の目から涙が落ちた。


「あなたがわたしを大切にしてくれたことまで、嘘だったとは思いたくない。でも、あなたが誰かを大切にするために、別の誰かを踏みにじったなら、それは……わたしが望んだ未来ではありません」


 フェリクス殿下は、答えなかった。


 ベルク侯爵が逃げるように後ろへ下がる。


 その時、カヤが短く言った。


「逃げるな」


 彼女の弓は引かれていない。


 それでも侯爵は足を止めた。


「北部防壁で死んだ者の名前を、聞け」


 カヤは一人ずつ、隊の仲間の名を告げた。年齢。故郷。家族。最後に見た姿。


 帳簿の一行ではない。


 人の名前だった。


 ベルク侯爵の顔から、完全に色が消えた。


 国王陛下は、長く目を閉じた。


「フェリクス」


「父上、私は……」


「王太子としての職権を停止する。ベルク侯爵は拘束し、全財産を保全の上で監査せよ。ラディウス商会との取引も、すべて洗い出せ」


 王城の近衛兵が動いた。


 フェリクス殿下は私を見た。


 怒り、恐れ、そして理解できなさが混ざった目だった。


「これで満足か、エステル。私を失脚させて、復讐を果たした気か」


 私は首を振った。


「いいえ」


「なら何だ」


「私は、あなたに失脚してほしかったわけではありません」


 嘘ではない。


「あなたに、王太子として責任を果たしてほしかった。防壁を直し、避難民を支え、約束した税の使い道を守ってほしかった」


 フェリクス殿下は黙った。


「それをしなかった結果が、今です」


 私の因果帳には、新しい文字が浮かんでいた。


 【未計上損失:可視化】

 【責任所在:確定手続きへ移行】

 【次の必要:補償、再建、再発防止】


 終わりではない。


 けれど、ようやく始められる。


     *


 公開審査から三か月後、灰土辺境は正式に『灰土共同領』となった。


 王家から完全に独立したわけではない。王国の一部であり、決められた税も納める。


 ただし税率は、最初の盟約に定められた二割へ戻された。水路と防壁の維持費は、王家と共同領が折半する。すべての支出は公開台帳へ記載され、三年ごとに住民と王家の共同監査を受ける。


 誰か一人の善意に頼らないための、面倒で、地味で、けれど必要な仕組みだった。


 フェリクス元王太子は、王位継承権を停止された。


 彼に下された処分は、牢獄ではなかった。


 北部防壁再建局の補佐官として、十年間、現地で補修計画と避難民支援の実務に従事すること。支出の承認権は持たず、毎月の報告書を公開すること。


 判決を聞いた時、彼は屈辱に顔を歪めた。


 けれど私は、それでよいと思った。


 壊したものを見ずに済む罰より、壊したものの前で責任を学び続ける方が、少なくとも次の被害を減らせる。


 ベルク侯爵は、私的流用の全容が明らかになり、爵位と財産を失った。ラディウス商会は解体され、未払いだった鉱夫や防壁工、避難民への補償に資産が回された。


 ミレアは神殿へ戻り、『星詠みの巫女』という役職のあり方を変えるための評議会に加わった。彼女は時々、灰土共同領へ手紙をくれる。内容はたいてい、神殿の帳簿がいかにひどいかという愚痴だ。


 最初の手紙には、こう書いてあった。


 ――帳簿を読むと、未来は少し怖いですね。でも、目を閉じるよりはましです。


 私は返事に、こう書いた。


 ――怖い時は、一人で読まないことです。


     *


 春になり、水路の両岸に小さな緑が戻った。


 再建会計室は、もう収税所ではない。壁は塗り直され、屋根も直り、入口には新しい看板がかかっている。


 【灰土共同領・公開会計室】


 朝から人が来る。


 炭焼きの老人は、森の伐採量を相談しに来た。ニコは学校で使う紙を増やしてほしいと頼みに来た。グランは、共同倉庫の鍵を二本に増やすべきだと言っている。バルダは薬箱の中身を勝手に入れ替えて、私に怒られている。


「エステル」


 机の向かいで、アルヴァが新しい書類を差し出した。


「王都からです。共同領の自治会計官を、次の五年も続けてほしいという任命書」


「任命ではありません。住民投票の結果でしょう」


「そうですね。賛成二百四十一、反対十三、白票七」


「反対が十三も」


「十分に信頼されていますよ」


「反対理由を読みます」


 私は紙を受け取った。


 反対票の横には、理由を書く欄がある。


 ――会計官が働きすぎる。

 ――もっと休ませるべき。

 ――細かすぎるが、必要ではある。

 ――笑う回数が少ない。


 思わず、息が漏れた。


「これは反対票ですか」


「たぶん、苦情と心配が混ざっています」


「最後のは、余計です」


 窓の外から、カヤの声がした。


「余計じゃない。今日の午後は休め」


「仕事があります」


「防柵の見回りに行く。おまえも来い」


「それは仕事では?」


「散歩だ」


 私は書類を見た。


 やるべきことは、いつだって尽きない。


 未精算の損失も、まだ残っている。北部防壁の再建は途中だ。王都の監査制度も、これから何度も骨抜きにされそうになるだろう。


 それでも、以前とは違う。


 一人で抱え込まなくていい。


 帳簿の数字を見て、一緒に怒り、一緒に直そうとする人がいる。


「分かりました」


 私は羽根ペンを置いた。


「午後は、散歩にします」


 外へ出ると、ニコが走ってきた。


「エステル! 水路の向こうに、花が咲いてる!」


「本当?」


「白いのと、青いの。前はなかった」


 私は皆と一緒に、水路のほうへ歩いた。


 水は、派手に輝いてはいない。


 ただ、確かに流れていた。


 誰かが負担を押しつけ、誰かが黙って耐えるだけの流れではない。


 働いた人の手へ戻り、困った人を支え、次の季節へ渡っていく流れだ。


 私はその水を見ながら、心の中で新しい帳簿を開いた。


 収入――春の風。

 支出――午後の仕事を少し残すこと。

 資産――隣を歩く人たち。

 そして、繰越利益――これから先、この土地で生きる人たちの選択。


 悪くない。


 少なくとも、赤字ではない。


 そう思った時、カヤが横から言った。


「今、笑ったな」


「笑っていません」


「帳簿屋は嘘が下手だ」


 その言葉に、私は今度こそ笑った。


 灰土辺境は、もう王国の帳簿の外にはなかった。


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