オレクサンドル―――人々を守る者
ロシアの侵攻から10か月後のウクライナ、ハルキウ郊外。計画停電が続く夜の街を、古い自走対空砲ゲパルト3両が“外縁のフェンス”として守っている。
小隊長であるオレクサンドルは、侵攻序盤に敵を食い止めるために自らの命を犠牲に橋を落とした弟分のヴィタリー・スカクンに思いをはせる。
夜が降りるたび、世界は薄紙のように一枚ずつ剥がれ、最後に残るのは呼吸と鼓動だけだった。
ハルキウ郊外の縁で、送電線の鉄塔は沈黙の灯台のように立ち、風が通るたび金属音を低く鳴らす。霜の降りた草は靴底の下でかすかに砕け、吐く息は肩口でほどけて、音のない雲となって散っていく。
一号車〈ベレザ1〉――その砲塔の中に、車長にして部隊指揮官のオレクサンドルがいる。
二号車〈ベレザ2〉はユーリイが率い、三号車〈ベレザ3〉はタラスが砲を預かる。三両の古い自走対空砲ゲパルトで、彼らは夜ごと街の外縁へ一本の“見えない柵”を張り直す。紙地図の上では扇形の鉛筆線、現実では曳光弾と命令のリズムで編まれる細い光の網だ。
「各車、主電源良し。油圧良し。レーダー回転開始、光学追従。――射界配分、1は九時から一時、2は一時から五時、3は五時から九時。友軍トラックは二重で確認」
「〈ベレザ2〉了解」
「〈ベレザ3〉了解」
操縦手のセルヒーが軽口で寒さを散らす。「司令、ココア支給は?」
「三機で一杯、巡航を落としたらもう一杯。文句は撃墜数で言え」
短い笑いが無線に浮かんで、霜の上にすぐ沈む。戦場で最も安価で効きのよい潤滑油は、くだらない冗談だ。
ゲパルトは古い。レオパルト1の車体の上に二門の35mm機関砲、背に小さなドーム状の目。けれど、古さは欠点ではない。
低空・低速・大量・安価――自爆ドローンの四拍子に、機関砲の連射は驚くほどよく合う。高価な矢で安い獲物を射るべきではない。空気に弦を張るように曳光の縄を投げ、入ってきた影をほどいてやればいい。“安い敵は安い方法で”。それは倹約の標語ではなく、灯りの細い街に残る生活の火を守るための、短く誇らしい詩だ。
遠く、モペッドに似た、しかし一度聞けば耳にこびりつく“ブーン”の重奏が始まる。
〈シャヘド〉――あるいは〈ゲラン〉。
ユーリイの声が落ちる。「方位一五〇、距離一四。高度極低空、速度時速一五〇前後。三群、計十以上」
「NASAMSとIRISは内側で待ってる。ブークとS-300は上を見る。俺たちは境目だ。――〈ベレザ1〉照準」
砲塔が低い空へ静かに回り、光学サイトの十字に黒い点が滲む。風の撓みが呼吸のように映る。
「1、照準良し」「2、良し」「3、良し」
「撃て」
夜の皮膜が裂け、二連装の砲が空気を押しのける。曳光が白い縄になって伸び、目が音より先に命中を知った。ひとつ目が火を吹いてほどけ、ふたつ目は蛇行して躱すが、〈ベレザ3〉が先回りして“鉛の壁”を置く。そこに影が自ら入って崩れる。みっつ目は送電線を目印に直進した。
「2、偏差+0.2、射高維持」
火花。影が縮み、闇へ落ちた。
稜線の低いところで、別の光の芯が滑る。亜音速の巡航。
「弾で叩ける距離だ。ミサイルは温存。2、先導大、歩進0.2」
未来の位置に迷いなく火が置かれ、三拍、四拍――鼻先が崩れ、土に吸い込まれる。
「墜落確認」
「よし。1は北西の谷口に膝を切れ。3は弾帯確認――タラス、リンクは?」
「一本曲がり、交換に三〇秒」
「冗談で指を温めろ」
「電気のない夜はロマンチック? 違う、暖房がない」
「零点。手を動かせ」
短い笑いが流れ、凍てた金属より先に人の手が温まる。
◆
ときどき、名の意味が胸の内側で灯のように点く。
オレクサンドル――“人々を守る者”。
母は、名付けの夜に言った。「強くあるためにではなく、囲うために強くなりなさい」
名は一度きりの命令だ。肩書きが変わっても、任地が変わっても、夜が変わっても、名は変わらない。
今、彼は一号車の車長として、そして三両の指揮官として、その命令どおりに“柵”を張る。
胸ポケットから、何度も折り畳まれた小さな紙片を出す。角は汗で柔らかく、折り目は海図の浅瀬のように白く擦れている。
〈ヴィタリー〉――同郷の幼馴染。
十歳ほど年が離れていた。最初は近所の“ちび”で、やがて、弟という言葉よりも近い存在になった。
ベレジャニの城の池、石畳、夏の青い匂い。桑の実で口の周りを紫にした顔。靴紐の結び方を教えた小さな手。
「オレク、見て。ほら、ちゃんと蝶々結び」
「よし。次は転んでも解けない結び方だ」
ヴィタリーは、不公平を見ると真っ直ぐに怒る子だった。工具箱の中身を几帳面に並べる癖は、少年の頃から変わらない。
「プラスはここ。マイナスはここ。六角は番号順な」
「お前の頭の中まで整頓するのはやめろ」
肩をすくめて照れ笑いをする、その癖まで覚えている。
やがて二人はそれぞれの制服を着る。オレクサンドルは機械化歩兵から対空へ、ヴィタリーは海軍歩兵の工兵へ。
侵攻初日、ヘニチェスクの橋。遠隔起爆の準備が間に合わず、青年は短く「さようなら」と言い、敵装甲の鼻先で自分の時間を切り離した。
ニュースは彼を英雄と呼び、勲章が授けられた。正しい。だが、オレクサンドルの胸に今も生きているのは、肩をすくめる照れ笑いと、城の池で石を滑らせる横顔だ。
「お前は、橋を落としたんじゃない。敵の道を落としたんだ」
だから彼は今、空に橋を落とす。夜ごとに張り直す、見えない橋――撃墜線。
“人々を守る者”という名は、過去の少年の手と現在の砲の反動をひとつに束ねる紐だ。弟分を失った哀しみは、静かに、しかし確かに、指揮の声を震わせずに太くする。
◆
「北北東、群来襲。密度高い。十以上」
「全車、先頭から叩くな。密度の中心に壁を置け。交差角を作れ。トリガーは短く、照準は長く」
光の縄がいくつも空へ放たれ、闇の中に格子が組まれる。丘の裏から流れ出る黒い葉が、見えない柵に次々ぶつかって落ちる。
「3、左十五、上二――止めろ。そこだ」
「了解!」
タラスの砲が歌い、〈ベレザ1〉の砲手マイコラが追う。二筋の火線が空で編まれ、群れの中心が裂けた。
「残り二。1、まとめてやる。――撃つ」
短い震え。夜が二度、遠くで点滅する。犬が一声吠え、風が持っていく。市街の方角から、小さな拍手みたいな歓声。変電所の上に白い蒸気が立ちのぼり、それが灯の続く証のように見えた。
「各車、被害なし。弾数報告。補給車を呼ぶ。――よくやった」
昼。粉雪はやまず、補給車が段差を越える鈍い振動が地面から掌へ伝わる。金具の音、油の匂い、軍手の繊維に染みた火薬の香り。
整備軍曹のソフィーヤが履帯にしゃがみ、給弾リンクを一本一本、指で撫でて確かめる。「寒さで硬い。予備は毛布で包みます。油圧ストレーナ清掃済み」
「助かる。昼は?」
「温パンと缶詰。あなた方は?」
「ココアの権利を増やすために、もう少し働いてからだ」
軽口を交わしながら、オレクサンドルは端末に短い文を打つ。宛先はイタリアに暮らすヴィタリーの母と、ベレジャニの祖母。
〈昨夜、十羽の“鉄の鳥”を捕まえました。あなたの息子は相変わらず、私の冗談に厳しい。どうか暖かく〉
送信の矢印が回って止む。薄緑の食器棚、冬の窓に咲く結露の花、湯気の向こうの笑い声――遠い台所の匂いが指先に戻る。
このメッセージは慰めでも報告でもなく、生存の合図だ。線はまだ切れていない――三つの町を細い糸で結び直す、静かな動作。
夕刻、電力会社から緊急連絡。「今夜は変電所への集中が予想される。バックアップ細い。第一波を外で落としてほしい」
「了解。2は丘の肩で送電線を背にするな。1は谷口、扇状地の出口。3は北西の溝沿い、伏せ」
配置は地図上の三角形だけで決まらない。風の方角、氷の厚み、地面の柔らかさ、猫の通り道――些末に見えるものが撃墜線の強度を変える。
“人々を守る者”は、五感の総和で夜を読む。
夜の帳が落ちる。囮の小型、群れたシャヘド、少数の巡航――複合攻撃。
「来るぞ。1、密度中心に壁。2、交差角。3、扇を広げすぎるな」
火線が幾筋も走り、空中に見えない格子が編まれていく。曳光の尾で火花が咲き、黒い葉が次々はがれて落ちる。
「巡航、右低空。先導大、射高固定」
「〈ベレザ2〉了解、撃つ」
稜線の上で白い花が弾け、影が崩れる。
「3、レーダー挙動」
「ノイズ。光学へ切替。時限信管、設定」
「よし、空に薄い雲を作れ」
砂袋を破ったような微細な光の雲。針のような影が突っ込み、突き抜けられずにほつれる。
「命中。残り三……二……一」
最後のひとつは送電線の手前で小さく火を噴き、プラタナスの梢の中へ崩れた。
静寂。変電所の上に白い蒸気が立つ。灯は、まだ続いている。
「大尉、今夜でいくつ?」
「数えるのは補給の仕事だ。俺たちの仕事は、線を引き続けることだけ」
「了解。――で、ココアは?」
「二杯。巡航ボーナスで三杯。砂糖は三つまで」
「司令に惚れそうです」
「やめろ。俺には幼馴染がいる」
「結婚してたんすか」
「してない。十歳ほど年の離れた弟分だ。今も背中を押してくる厄介なやつだ」
無線が一瞬黙り、照れ隠しの笑いがまた起きた。
◆
夜明け前、粉雪は相変わらず静かに降り、路肩の影を浅く埋めた。
オレクサンドルは車外に出て、指を伸ばし、冷たい空気を掬う。東の低空で薄桃色がほつれ、鉄塔が一本ずつ影を伸ばし、霜は白から透明へ、透明から水へ。
背中のポーチから紙片を出し、ライトを点けずに、指でなぞる。
〈ヴィタリー〉
「お前の母上はイタリアで元気だ。祖母さんはベレジャニで、窓に結露の花を咲かせてる。俺は相変わらず、冗談で隊を生かし、節約で弾を生かし、祈りで夜を生かしてる。――お前の落とした橋は、まだ落ちてない。俺の線も、まだ切れてない」
胸の奥で、弟分の答えが聞こえる気がする。「整頓しろ、オレク。弾の配分、恐怖の配分、そして笑いの配分を」
「わかってるよ、ヴィタ。俺はオレクサンドル――人々を守る者だ」
補給車の振動が地面を伝い、箱の金具の音が重なる。灰色の猫が履帯の陰から伸びをし、どこかへ消える。
「〈ベレザ1〉から全車。撤収経路確認。昼の整備は手順どおり。弾痕記録、リンク交換、スイープ角再調整。――それから約束のココア」
「了解、1! ココア三杯!」
紙コップの湯気が白く立ち、指の節に眠っていた寒さを追い出す。砂糖を二つ。……いや、三つ。今夜も長い。
夕暮れ、街は廃墟と生活の境目をもう一度取り戻す。壊れた窓、塞がれた壁、無事な窓、干された洗濯物、玄関先の子どもの自転車。
オレクサンドルは砲身に掌を当て、冷たい金属の奥に残る微かな“仕事の温度”を確かめる。
「見ているか、ヴィタリー。――俺は今夜も線を引く。人々を守る者として。お前と一緒に食べた桑の実の味が、まだ舌に残っているうちは、ここを空に落ちる橋で囲い続ける」
夜はまた来る。
ゲパルトの砲塔は静かに回り、古い履帯は土を磨く。風は鉄塔の間を渡り、街の呼吸はかすかに整う。
線は、細く、しかし確かに、都市の縁に置かれている。
その上を、朝がまた、ゆっくりと渡ってくる。




