第4章:動き出した色彩
段ボール箱は、健太の部屋の片隅で、まるで太古の遺物のように鎮座していた。埃を被ったその箱を開けるのに、どれほどの勇気が必要だっただろう。しかし、あの手紙――十歳の自分からの、切なる願いが込められたメッセージが、彼の背中を押した。
蓋を開けると、カビ臭さと共に、絵の具と油の混じり合った、独特の懐かしい匂いが立ち上った。パレット、絵筆、使いかけの絵の具チューブ。どれもこれもが、健太の記憶の中に鮮やかに息づいていた。特に、新品同様のまま放置されていた一本のチューブが、彼の目に留まった。深い、限りなく深い、紺碧の青。それは、彼が「一番美しい青」を探す旅の途中で見つけ、大切にしまっておいた色だった。
健太は、その青いチューブを手に取り、指でそっと触れた。冷たい感触が、指先から心臓へと伝わる。あの頃の自分なら、この色を使って、どんな絵を描いただろう。考え始めた途端、抑え込んでいた衝動が、堰を切ったように溢れ出した。
次の日から、健太の日常は、少しずつ、しかし確実に変化し始めた。仕事から帰ると、彼はまっすぐに画材に向かった。最初は、何を描けばいいのか分からなかった。キャンバスを前に、ただ呆然と立ち尽くす時間も長かった。だが、描かないことには始まらない。彼は、まず、思いつくままに、手紙に出てきた「世界で一番美しい青」を探す自分を、抽象的に表現してみることにした。
筆を握るたびに、忘れていた感覚が蘇る。絵の具を混ぜ合わせる時の、わずかな抵抗と、色が混ざり合う時の、滑らかな感触。キャンバスに色が乗っていく時の、ささやかな喜び。それは、仕事では決して味わえない、純粋な充足感だった。徹夜で絵に没頭することもあった。睡眠時間は削られ、体は疲弊したが、心は不思議と満たされていった。
そんなある日、健太は自分の描いた絵を、何気なくスマートフォンのカメラで撮影し、SNSに投稿してみた。特に誰かに見せたいという強い気持ちがあったわけではない。ただ、自分の足跡を残しておきたかっただけだ。だが、数日後、その投稿に、思いがけないコメントがついた。
「この青、すごく心を奪われます…私も絵を描いてるんですが、こんな色が出せたら…」
コメントの主は、佐伯麻衣と名乗る女性だった。彼女のプロフィール写真を見ると、肩まで伸びた黒髪を一つに束ね、細身のフレームの眼鏡をかけた、真面目そうな印象の女性だ。だが、その瞳の奥には、健太と同じように、どこか諦めにも似た影が宿っているように見えた。健太は、自分の絵に共感してくれた人がいることに、ささやかな驚きと、温かい感情を覚えた。彼は、生まれて初めて、SNSを通じて見知らぬ誰かと「絵」という共通の話題で繋がれたことに、小さな喜びを感じた。
佐伯麻衣とのやり取りが、健太の創作意欲をさらに掻き立てた。彼女もまた、かつては画家を志していたが、今はデザイン事務所で働きながら、絵を描く時間をほとんど持てずにいるという。健太は、彼女の言葉の中に、かつての自分と同じような「疲弊」と「諦め」の感情が滲んでいるのを感じ取った。そして、健太は、自分の絵が、誰かの心を動かし始めていることを、確かに実感していた。かつて抱いた「人を笑顔にする絵を描く」という幼い夢が、今、小さな芽を出し始めているのかもしれない。
健太は、絵を描くことが、単なる趣味ではなく、自分を表現し、他人と繋がるための大切な手段であることに気づき始めていた。彼の部屋は、絵の具の匂いで満たされ、キャンバスには、彼の内なる色彩が溢れていた。疲弊しきっていた日常に、徐々に色が戻ってきたのだ。健太の心には、忘れ去られていたはずの情熱が、まるで深い海の底から湧き上がる泉のように、静かに、しかし力強く蘇りつつあった。