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第3章:埃をかぶった記憶

茶封筒は、古ぼけた紙の匂いをまとっていた。健太は、その封筒を握りしめたまま、郵便局を出ていた。気づけば、再び夜の帳が降りた街の喧騒の中にいる。車のヘッドライトが、健太の疲れた顔をぼんやりと照らした。彼の足は、まるで記憶がないかのように、ただ家路へと向かっていた。


マンションのドアを開け、部屋の明かりをつける。薄暗いリビングに、ただいま、と呟く声は、まるで霧散する煙のようだった。健太は、革張りのソファに深く身を沈めた。封筒をじっと見つめる。開けるのが、怖かった。何が書かれているのか。どんな「過去の自分」が、そこから現れるのか。彼の心は、期待と恐れの狭間で揺れ動いていた。


ゆっくりと、封筒の口を開く。カサリ、と乾いた音がした。中から出てきたのは、一枚の、色褪せた便箋だった。紙質はザラザラしていて、ほんのりと絵の具の匂いがする。健太は、思わず鼻を近づけた。懐かしい、鉛筆と絵の具の混じった匂い。それは、忘れかけていた遠い記憶の扉を、そっと開く鍵のようだった。


便箋に書かれた文字は、確かに健太自身のものだった。しかし、今の彼からは想像もできないほど、生き生きとした、力強い筆跡。まるで、文字そのものが躍動しているかのようだった。


「健太へ」

そこに、幼い健太の声が聞こえた気がした。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


『拝啓、未来の僕へ。

今、これを書いている僕は、十歳の健太です。

僕は、絵を描くのが大好きです。色鉛筆や絵の具を握っていると、嫌なことも全部忘れられる。キャンバスに描けば、どんな夢も叶うんだ。そう信じています。僕の夢は、いつか、人を笑顔にする絵を描くこと。それから、世界のどこかにある、一番美しい青の色を見つけること。』


便箋を持つ手が、かすかに震えた。健太は、自分の知らなかった自分と対峙しているような、奇妙な感覚に襲われた。人を笑顔にする絵。一番美しい青。そんな夢を、自分は本当に抱いていたのか。今となっては、あまりにも遠い、非現実的な響きだった。


『未来の僕が、もし、絵を描くことを忘れてしまっていたら、この手紙を読んで思い出してほしいです。絵を描くことは、僕の魂だから。どうか、僕の絵の具たちが、埃をかぶったままにならないでほしい。』


健太は、便箋から目を離し、部屋を見回した。視線は、無意識のうちにクローゼットへと吸い寄せられた。扉を開ける。奥の方に、ひっそりと、しかし確かな存在感で、一つの段ボール箱が置かれていた。


箱には、「画材」と手書きで書かれている。引っ越し以来、一度も開けていない。箱の表面には、うっすらと埃が積もっていた。まるで、健太の心の中に積もった埃のようだ。あの頃の情熱が、箱の中に閉じ込められたまま、ずっと彼を待っていたのだ。その埃を、健太は指でそっと拭った。

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